殺す為の犠牲
思い返せばろくなものがない記憶ばかり。だけど皆が不思議に思ったのはまさにオルカの言動だろう。
まさかよくある恋愛小説の惚れて改心、なんてものを想像した人は今すぐ名乗り出てほしい。是非とも入れ替わりをご提案したい。
結論から言ってこの男、オルカは何も変わっていない。この十年間、何も…。こうやって飼い犬のような振りも全て嘘で塗りたくられた虚像。
あの一件以降、事態を重く見た教皇閣下はオルカを国境戦の神官として追いやった。もちろん追放したわけではない。元々人員を必要としていたところに丁度教皇クラスの神聖力を持つ人材を派遣しただけにすぎない。
それでも私が息を休めるには十分で、力を磨く為にも多くの時間を貰った。もう二度と、オルカのオモチャにはされないように…。
だけど戦場を肌に染み込ませたオルカは、国境戦にある程度の区切りがついた頃また教会本部へ戻ってきて私を『使って』遊んだ。
実戦を数多く経験し死線を幾度となく潜り抜けたオルかに幾ら力をつけようと敵うはずもなく、近年は閣下すら凌駕するほどの技量と権威を持ち合わせ手の付けようがない程になっている。
いつの日かオルカは閣下を追いやり教皇の座に着くだろう。それは原作でも、同じ路線を辿り、結果的にそうなる未来が確定されていからだ。
だから、二年半という月日を経たこの日の夜ばかりは、完璧な『聖女』の顔が剥がれ恐怖に打ち震え涙を流すハメになるだろう。
早めに仕事を切り上げて、神官達を部屋に帰す。なにもしなくてもオルカの手のよって勝手に帰されるのは分かっているけど後日記憶の失くした神官達のケアに残す余力はないのだ。
こうしていつもより一時間ほど早くベッドに横になり、眠るわけでもなくただこれから来るであろう怪物を、待っていた。
…ガチャッ
ドアの開閉音がどうも無音の室内にはよく響き、私の刻まれた記憶が呼び起こされる。そう、以前はこんな小さな音にすら敏感に本能しては彼を喜ばせていた。
「シルティナ、もう寝ちゃった?」
絶対に分かっている口調で、オルカは嗤いながら布団にくるまった私の元へ足を進める。急がず、焦らず、私の恐怖を増長するかのように心身掌握に長けているオルカの如く軽い足取りで…。
まだ悪足掻きとして布団に顔ごとすっぽりと埋めた私の隣に腰を置いて、布団越しに私の首に手を当てた。
ヒュッ……
呼吸が止まる。布団を介してでもハッキリと分かる感触が、決して逃げ出すことのできない空気の密度が、私の喉元を強く締め付けた。
「…まだ起きない?」
口角を上げながら声のトーンは変わることなくその手に力が込められた。毎度寝ているかと聞くが端から一つの選択肢しか与えないのがオルカという男だ。たとえ本気で眠っていたとしても首を絞めて叩き起こすだろう。
「…起きてる」
私が布団から出て起き上がるとそれに合わせてオルカの手は外れていく。一種の脅しをここまで器用に使う人間が『清廉潔白』を志とする神官にいること事態終わっていると思う。
「シルティナ、おはよう」
もう太陽は沈んだというのに巷では聖者と言われる男は何の疑問も抱かずに言葉を発した。
「おはよう…。さみしかった」
こうやって見え透いた嘘でもオルカを少しでも喜ばせることができたら儲け物。だから吐き気でえずくのを我慢して、オルカの裾を握り泥のような言葉を紡いだ。
「そっか。嬉しいな、シルティナ」
滅多に甘えず弱音を吐かない私のこの言葉で途端に機嫌を良くしたオルカは花のオーラを撒き散らしながら私に抱きついた。
それがたとえ本心からであり、子供同士がするような無邪気なものであったとしても、私はおぞましい『ナニか』に見えて吐き出しそうになった。
襲いかかる吐き気を押し戻せば、残るのは砂糖を煮詰めた甘い甘い空気の箱。こうやってオルカは機嫌が良くなれば首を絞める癖はなくなった。だけど、オルカの気まぐれは度を越して休める暇なんてものはない。
そう、…こうやって。
「ぁっ゛…、ぁぅぐ…っ゛。ぅっぅ゛う…!」
「可愛い。可愛いね、シルティナ」
オルカにとって私の首を絞めることには大した意味はない。ただ私が最も苦しんで、怖がって、泣く行為が『これ』なだけだ。
あとは支配下に置いた絶対的証明の意味も含まれているのだろう。たまに私が溢した涙か汗か混じったものを掬っては舐めて恍惚とした顔をする救いようのない人間の思考を汲み取るのはここら辺で精一杯だ。
「ぃや…ぁっ、やっ…ぁ…。っぅう゛…」
泣きたくない。それでもオルカの気が済むのなら幾らでも泣いてやる。弱音だって吐く。機嫌を取って、取って、取りまくった後に後ろから刃を突き刺してやる。
奥の底に隠した憎しみは増大し、私の心をさらに闇に浸していく。生きる為に『未来』を犠牲にした。だから殺す為に人としての『尊厳』、プライドを捨ててやる。
ある程度満足したのか力は徐々に弱まり、呼吸ができるぐらいには回復した。押し倒されたせいで起き上がるのも一苦労なのに、オルカは次の回答を今か今かと待ち望んでいる。
「おいで、シルティナ」
両手を広げ胸の内に誘うオルカ。分かってる。この男はもう止められない。おかしいと指摘しても、笑顔で躾がされるだけ…。
乾いた笑いを殺して、よろよろと弱りきった身体に鞭を打ち、無理をして進んだ。
ポスッ……
ようやくオルカの元に着いた。あまりに短い距離なはずなのに、途方もなく遠く感じる。そうして『躾』を終えたオルカは…、褒めるように私に祝福のキスを贈った。