閉ざされた心
夢を見た。幸せな夢だ。
土砂降りの大雨の中、身体は雨粒に晒され冷え切っていたのに寒さなど微塵も感じなかった。走馬灯と言えばあまりに生々しく、今際の幻と言えばあまりにおぼろげだった。
悲しくて、嬉しくて、痛くて、幸せで、ぐちゃぐちゃになった感情だけが消えて残った。こんなに醜い怪物になった私でも、それでも貴方は優しくて私を包み込む体温がまるで現のように温かった。
…おじさん。
貴方と出会えて良かった。
貴方が私の生きた証だった。
貴方が私の、幸せだった。
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覚めたくない夢からゆっくりと瞼が上がる。涙腺を伝って涙が流れているのを感覚越しに分かった。
いかにも特別に誂えたベッドに眠っていたのを見るに束の間の脱走劇は早くも終わりを迎えてしまったのだろう。
期待なんてしない。いつも通りに戻るだけ。夢は所詮夢で、現実は変わらないと分かりきっている。だけど今だけは、この幸せと喜びで流す涙を彼らの汚い【愛】なんかで汚されたくなかった。
……………ぁれ、?
だけど注意深く自分の置かれている状況を観察してみると、ふと気づいた。
朝日が窓からこぼれ出て辺りを照らしていたのだ。明らかに『あの部屋』とは違う、溢れ日が暖かい。
記憶が曖昧なまま虚ろな思考で場所の特定を行おうとするが、ふと感じた右手が別の大きな手で握られる感触に脳に巣づいた霧が晴れてしまった。
私の手で両手でぎゅっと握ったまま俯いて寝てしまっている輝くような黄金の髪の人物。どんな闇でさえ太刀打ちできないほどの輝きで照らす、私の光…。
ポタッ…ポタと涙が流れた。
嬉しくて幸せで、受け入れられないほどの喜びが涙となって流れたのだ。
重い体を起こして彼の顔がすぐ見える近くにいく。どうしても確認したくて、震える手で顔に触れた。そして感じた、確かな感触に涙の琴線が切れた。
夢ではなかったのだ。幻ではなかったのだ。私はやっと貴方の場所へ帰ってこれた。私の辛く生き地獄にも似た十年は決して無駄じゃなかったのだ。
純粋な喜びをどう表現すればいいのか忘れてしまった私が過呼吸になりながらも泣き続けていると、涙が一滴おじさんの手にこぼれた。
すると握られた手にさらに強く力が加わり緑陰の瞳と視線が交わる。光に当てられて見えたおじさんの目元には大きなクマがクッキリと見えた。
傷ついた子供のような顔でいるおじさんの瞳にくっきりと私が映る。おじさんは、まだ私を忘れてなどいなかった。むしろ私と同じようにずっと、待っていた。
ねぇ、私今、凄く幸せだよ…?
やっと会いたい人のもとへ戻ってこれたの。この名も残らぬ十年の終わりを見たの。
なのに、なのになんで、…上手く笑えないの?
貴方にただいまって言いたいの。貴方に会いたかったって言いたいの。でも、上手く声が出なくて…。
オルカやラクロス、イアニスが私に与えたのは単純な加虐だけではなかった。彼らは私の心に、その名の通り【怯え】を植え付けたのだ。
おじさんは怖くない。怖くないって頭では分かっているのに、身体が追いつかない。嬉しくて涙は流れるくせに、顔が動かない。
声を出そうとしてもその寸前で何かに押し止められるみたいに飲み込まされる。こんなことってないよ。酷いよ。鎖を外されて自由を手に入れても、支配からは抜け出せないなんて…。
「泣くな。泣かないでくれ……」
無表情に大粒の涙を流す私の両腕を強く握って支えてくれるおじさんに、身体は意思と打って変わりジタバタと暴れまわる。
身体が拒絶している。声にもならない嗚咽が込み上げて、ただただ私を縛ろうとするものへの拒絶が出ていた。
ついにはおじさんの腕を跳ね返して毛布で身をくるんでベッドの端に身体を縮こまらせる。
「ぅうぅぅ゛っx……」と獣の唸り声にも似た音を出して威嚇し、寒気でもするのか身体は可笑しいくらいにガタガタと震えている。
私の安息は奪われた。唯一の息を休める場所でさえも私の身体が拒絶するならばそれは永遠なる苦しみの延長に過ぎない。
こんなことをすればおじさんに嫌われることも頭では分かっているのに、私はもはや敵も味方も関係なしに全ての人間を拒んでいた。
ごめんなさい。ごめんなさいゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイ…っ。
貴方を傷つけたい訳じゃないのに、身体が動かないの。私の意思が跳ね返されるみたいに、…怯えてるの。
私の中にいるもう一人の人格が外部を徹底的に拒絶している。そしてそれは…、この九年の歳月を怪物の玩具となった【聖女】シルティナ。
私は、シルティナの悲しみを半分にも代わってやれなかった片割れだ。【聖女】でないなら、名前もない。
そんな私に、シルティナを責める資格もなんてあるはずもなかった。彼女が一番苦しいとき、それが運命だと諦観していた私に…。
この拒絶はシルティナなりの精一杯の反抗だった。私の意志と、傷つけられたシルティナの最期の意志。
それぞれ抱える想いは違えど、微量の差で均衡が傾いただけ。
…ねぇ、シルティナ。苦しかったよね。辛かったよね。ずっと一人で、耐えたんだもん。
コレが最期の欠片に残ったシルティナな意志であるならば、…私は身体の主導権を奪おうと抗っていた意志をゆっくりと沈めた。
だって、初めてだから。貴方が【聖女】の偶像を壊して初めて現した、初めての意志。
心の奥にずっと積もり溜まっていたものを今下手に抑圧すればいずれはまた限界がやってくる。
それなら、私は貴方に賭けてみる。もう一度私の【最愛】に、砕け壊れた心を拾い集めてもらうことを。
そして貴方が、少なからずたった一時でも救われることを…。
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怖い。怖い怖い怖い怖い怖いコワいッ…!!!!
何か虚ろ気だった意識から目覚めた時、私は全く見知らぬ場所にいることに気づいた。さらに右手に感じる温もりが人間のものであると知ったとき、恐怖とおぞましさが私の身体を這った。
誰なのかも分からない人間に触れられる、それだけで発狂してしまいそうな程の恐怖に取り憑かれるのだ。私が目を覚ましたことに気づいた人間は突然に私の両腕をわし掴む。
「泣くな。泣かないでくれ……」
男の言う通り涙を流している私だったが、その最もたる元凶にそんなことを言われたところで何の慰めにもならない。
むしろ男の腕を握る力強さが私を苦しめるあの悪魔達とまるで同じで吐き気さえせり上ってくる。私が本気で抵抗して何とか隙をついて掴んでいる腕を振り払うとすぐにベッドの端の方へ逃げた。
こんな密室に二人きりの時点で勝ち目なんてないが、これ以上私を弄ぶ全てが許せなかった。
「ぅうぅぅ゛っx……」
肩をガクガクと震わせて威嚇するも、男は私を追い詰めることはせずに何故かその場で伸ばそうとした手をぐっと止めた。
次はどんな思惑があるのか、警戒をMaxに緩めることなく唸り声を鳴らしている。もう二度と私を穢させはしない。誰も私の内側になんていれない。私の自由を、阻ませやしない。
涙で視界がぼやけても男を睨み続けていると、男は自分の手をギリッ…と血が滲むまで握りしめて口を開いた。
「……すまない。すまない、…お前を守ってやれなかった」
………意味が分からなかった。何故この男が謝るのか、理解できなかった。
この男と私は面識が無いはずだ。なのに何故、涙を流すのか…。
いや、これも私を油断させるための罠だ。騙されるな。
この世界は全て私の敵で満ちているのだから、これ以上傷つきたくなかったら、これ以上苦しみたくないのなら例え味方であろうと気を許すな。
膠着状態がその後数分続き、遂には男が椅子から腰を上げた。
「ゥう゛ッ〜ー…、!!! …ッつウ゛!」
「…大丈夫だ。お前には近づかない。傷つけもしない。お前が嫌がることは何もしない」
嘘だ。誰もそんな口約束を守る人間はいなかった。人間なんて皆一緒だ。簡単に嘘をつき、裏切り、ズタズタに引き裂く。
口先だけだ、そう思っていたのに…。
男は決して私に近づくこともなく、そのまま部屋を出ていった。何が目的なのか、男がいなくなった今でも未知への恐怖で縮こまったままの私の身体。
こんなのもう嫌だ。心底安心できる場所に行きたい。人間など誰一人いない場所で、一人静かに暮らしたい。
そう思って記憶の端で思い出したのは、…何処かチグハグだらけの一面に広がる雪景色だった。
大体極度の人間不信に陥ったのが【聖女】だった頃のシルティナで、皇帝を渇望しているのが前世の記憶と雪山の小屋で過ごした【転生者】のシルティナです。
基本的に【聖女】シルティナが主人格でしたが地下に閉じ込められて以降度々入れ替わっていたので今は半々ぐらいの割合だと思います。
因みに私は俄然【転生者】シルティナが好きです。だって【悪女】(予定)だから!
あと【転生者】の方が一番怖れてるのは皇帝に嫌われることで【聖女】が一番怖れているのはオルカ達っていう設定です!