幼女の慟哭(どうこく)
清廉とした『聖女』の寝室にそぐわない、幼い子供が二人。
幼女は喉元を押さえて咳き込み、酸欠で生理的な涙が止めなく溢れている。一方彼女よりも一回りほど大きな少年は、その様子に大変ご満悦な顔をしている。
「っえぐ…っ、かはっ! ゲホゲホッ…! ぅああぁあ゛…、ぅあぁ゛ぁああぁん」
つかの間の休息を知った後の絶望は計り知れない。その代償の大きさを見誤った私は、今こうしてその制裁を受けている。
苦しみに涙を流すことはあってもその恐怖の屈することはなかった。それが最後の意地のようなものでもあったからだと今では思う。だからこうして自分の愚かさを、弱さを嘆く私の姿に、怪物は口許を緩ませて嗤っているのだ。
「もぅぃやぁ…っ。ぃや…、いやぁっ…ぁ!」
狂ったように自分の頭を掴んで掻き乱す。『ココロ』は粉々に砕け散る寸前で無理やり形を保っていたものだから、自らが壊れるようにするしか逃げる術がなかった。
私は気を失うまで叫び続け、次に目が覚めたときには朝が回り、ついに聖地巡礼の旅が始まった。何より、オルカと共に…。
聖地巡礼には豊穣と守護の祝福を授けるという表の向きの理由があるが、それを聖女が行うことには明確な世代交代の宣伝と支持率の増加、寄付金を募るのが大まかな目的になる。
だから旅を続けるごとに私の拙い喋り方は精錬され、ある程度の言い回しも理解できるようになった。
訪れる聖地ごとに祝福を与えるのは想像以上に容易く、若干の不安を覚えていた各領主との対談もスムーズにいった。
しかし慣れない旅の疲れで…、ではなくオルカのせいでまともに眠れる夜はなかった。いくら回避しようとも先に神力を研鑽したオルカの集団催眠により意味をなさなかった。
言うまでもなくこの旅の一番の足枷はオルカだ。旅の日数が重なるごとに、私は死にかけている。いくら治癒を施そうと精神的な疲れからか足取りは重く、深くなっていくクマを出奔前に治す繰り返しばかり…。
そしてこの旅の終盤、事件は起きた。
「…~ーーー、それでは此方の祭壇までお進みください」
疲労と極度のストレスで案内人の人の話半分に最後の祭壇へと足を進める。これが終われば、しばらくはオルカと離れられる。あと、これだけ…。
まるで救いを求めるかのように中心に飾られた聖遺物へ手を差し伸ばし、「たすけて」も「にげたい」も押し隠した心内を、呼応するように聖遺物が私を包んだ。
この事件は【聖女失踪】ということもあって極一部の限られた人間しか公言はされなかったが、失踪期間である一週間の間に大規模な捜索が行われたと後に知った。
周りが大騒ぎしていたころ、私は『聖女』として生きる意味を貰った。他でもない、おじさんに…。
おじさんは私の【全て】だ。おじさんが生きていてくれるなら、私は喜んで異常者の相手でも丸焼きにでもされてみせる。たとえこの身が朽ちようと、私を『証明』してくれた人の片隅にでも残っていてくれるなら…。
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グッ…、グググッ…。
「ァっ、がッ?! ぃッ、…グっ。 ぅぁツ…、ゥァァ゛…ッ…」
今まさに、根源的な【死】が私の喉元に喰らい付いて噛み千切ろうとしている…。
教会に戻ってから三日。念のために安静をと言われベッド生活も同じ日数を記録していた、三日目だった。
今まで怖いくらい何の訪問もなかったオルカが教会内部、それも中枢で広範囲集合催眠を使い、私の部屋に突撃してきたのは。
「…なに」
おじさんセラピー効果かあれほど恐ろしかったオルカを真正面から見返すことができた。
…が、ようやく顔を合わせたオルカの瞳に浮かぶのはいつもの享楽ではない、先もなにも見通すことの無い、空っぽなガラスの反射だ。
直感だが何故か手は自然と首を守るよう動作をしたが間に合わず、いつになく乱暴な手つきで私の首を掴んだ。
その衝撃で噎せようがオルカは何の反応を見せず、初めて両手で容赦なく絞めてきたことで本格的な殺意を感じ取った。
どうにか手を引き離そうと爪を立てても一切ブレることはない。それどころかさらに力を強め、目の奥がチカチカしてきた。
あぁ私、こんなイカれ野郎に殺されちゃうのか…。イヤだな、まだおじさんに伝えてないことがいっぱいあるのに…。
最後まで足掻いて、足掻いたけど結局駄目で悔しくて涙を流すことしかできなかった…、はずなのにオルカはギリギリで指一本分だけの気道を弛めた。
「シルティナ…、【次】、また勝手に逃げたら殺すから」
「ぁぁ゛…、ぅ、ぁ…」
「ワカッた? 返事は?」
返事をしないことに余計腹を立てたのか唯一の気道も徐々に潰されていく。苦しい。痛い。この苦痛から逃れたい一心で私は首をゆっくり縦に動かした。
「…それから?」
これ以上何を求めるというのか。また気道は確保されたがまた望まぬ回答をしようものならすぐさま元通りにされるだろう。
だけど、こんな異常者の望む答えなんて私が持っているわけがない。思考に時間を費やしていると焦れたのか段々と絞まってくる。
「ごめんなさい、でしょ?」
支離滅裂な言動にこんな奴に命を握られている自分の情けなさを呪った。だけど背に腹は変えられない…。
「ごめっ、な…さっ…ぁ。ご、…めんな、さ…っ」
悔しい。悔しくて溜まらない。自分の弱さが、脆弱さが、憎いほど悔しい。
望んだ通りの回答にオルカはじっと探るように私の目を見て数分後ようやく手を離した。
「ッ…ゲホ! ゲホケホッ! ぅ゛ぇっ…ぁ」
喉が腫れるように痛い。背中を丸め横になった私を包むようにオルカは何も言わず胸に入れ、どちらも眠りについた。なお安らかに眠れたかは別であろう…。