神のみぞ知る
つい数時間まで肉欲に満たされていた部屋を出て、ままならぬ足取りで目的もなく歩く。気がつけば庭園の方にまで足が向かっており、丁度見かけたベンチに腰を下ろした。
未だ意識はハッキリしていないものの、行き際にすれ違った神官達の目を思い出す。
まるで『聖女』ではない、貧困街の娼婦にでも見るかのような視線の数々。皆知ってるというのに、馬鹿みたいだ…。私のこの格好が淫らだというのなら、昨夜のアレはなんだと言うのだ。
秋だというのに冷え込む風が私の素肌を撫でる。そうやって空っぽ私の頭の中を通り抜けて、また何処かへ消えていってしまった。
「…ぉえ……、っ」
昨夜の情事とも呼べない様な獣の交わりが、私を嘔吐へと誘う。喉元までせり上がった吐瀉物はその胸糞の悪さを残してまた元に戻ってしまった。
触れる人肌を思い出しては、熱の籠った箇所から蟲が這えずり回るような得体の知れない気色悪さに包まれる。
色々考えなくちゃいけないのに、今はただ猛烈な睡魔に襲われて何も考えられない。私の体力の限界も越えたあの夜のせいで、ろくに眠れていないのだから当然と言えば当然だろう。
意識を浮遊させ、空を見つめる。私、これからどうしよう…。
取り留めもない現実だけが残され、選択肢という選択肢も残されていない。あれだけ大量に中に出されたのだから、もしかしたら身籠っているかもしれない。そしたら、本当にどうしようもない。
こんなにも追い詰められては、泣く気も出ないな…。『崖っぷち』、なんて言葉じゃもう手遅れなほど事態は深刻だ。
私が死ぬまでのカウントダウンまでに、私が【聖女】として生きている可能性は限りなく低い。【聖女】でなければ原作の整合性が完全に崩壊し、私が死を迎えることは二度と叶わないだろう。
あぁ、この身体がどれ程の忌々しいことだろうか。私が【原作】に縛られる要因となったあの一件を、今でも思い出しては苦虫を潰すように奥歯を噛み締める。
十一歳のあの日。私は一度死んだ。…はずだった。神殿の馬が薬を盛られ暴走した有名な事件。多数の死傷者を出した内の一人として、私の名前はあったのだ。
興奮した馬の鳴き声とともに現れた大きな影。まだ小さかった私の体を踏み潰すには十分な体躯だった。
馬の前足が私の体を突き飛ばし、内蔵が破裂するような激痛と衝撃が私を襲った。腹の奥底から吐き出すかのような吐血は一向に回復の気配を見せず、自己回復も追い付かない。【死】が、迫っていた。
内蔵の損傷のせいで声を上げ呻くこともままならず、涙だけが血と混じって外部に排出される。
あれだけ耐えたのに。まだ『聖女』として成し得なきゃいけないことが山程あるのに…。真っ先に思ったのは後悔だった。
オルカやラクロスの【遊び】に付き合ってきた数年の後悔。そして『聖女』としてやり残した未来に対する後悔。
だけどそんなものは案外あっさりと消えて、次に思ったのは「これで楽になれる」、そんなことだった。
私を害する人間も、毛嫌いする人間もこれ以上会わずに済むし、【未来】という重圧に耐える必要もない。それが安堵となって変なことに安心してしまった。
そして最期に思ったのは、他の誰でもない。おじさんのことだ。
元気にしてるかとか、お酒は飲み過ぎてはいないか、まだあの頑固な性格でいるのか。不思議とくだらないことばかり考えては、胸が温かくなる。
もうすぐ死ぬ人間がするべき思考ではないが、私はそんなことを考える方がずっと面白かった。
…できれば、まだ私を忘れていないでほしい。欲をかけば、まだ私を探していてほしい。
だからこれはきっと、身の程知らずにもそう、願ってしまったせいだ。
痛みと安心。身体と精神が乖離した状態で眠りに落ちた私は、この先永遠と目の覚めることのない死体となる、はずだった。
######
目を覚めるといつもと変わらない天蓋。身体を起こしてもあの激痛は感じず、部屋の空気もさながら今朝と何一つ変わることのない。
上級神官以下は皆私が奇跡の存在であったがために奇跡的に命を免れたと噂が広がったが、私の特異性は極数名の人間に知れ渡った。
いっそ過去に戻って【死】自体をなかったことにすれば良いのに、本当に人生とは何一つ私の思い通りにはいかないものだ。
私の【死に戻り】は案の定オルカ達の格好の的となった。今までは少しでも【死】のリスクがあるからとやることのなかった残虐非道な扱いと拷問の末、今の私の原型が造られたのだ。
「ぃだぃッ…!! ゃダ、ぁ゛づいィ゛っァ?!、!」
魔法で皮膚を焼かれるのは勿論、喉を潰されて鳴かされたり、骨という骨を人体の構造上決して曲がらぬ方向へと弄ばれたり。
実際何度かは【死】に至って入るのだろう。ただそれが気絶なのか失死なのか私が感知できていないだけ。
この一件により【躾】の苦しみと痛みは倍に跳ね上がり、私は唯一の逃げ道を失ったことで痛みへの耐性が弱まってさらに悪化した。
悪循環も悪循環だ。日に日に『死にたい』が増えて、私が減っていく。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も、死に戻っては繰り返すこの【生】を祝福と謳ったのは一体誰なのだろう。
何故死ねないのか、あの時は理由もわからずその理由を半狂乱の状態で【イド】に聞きに行った。自分を殺してくれと無様に泣き縋った。私は早く、この悪夢から逃れて楽になりたかった。
だけど返ってきた返事は、『できない』の一言。神と同等視される【イド】でさえも不可能ならば、私はこれからもずっと【生】に縛り付けられることになる。
「゛ぁあぁぁ゛ァァ…ッ゙ツ!! ァァァあアァ゛ア゛ァぁぁ゛……!!!」
狂乱とはまさにこのことだろう。泣き崩れて、叫び上げて、【神】に向かって呪いの言葉を綴った。存在もするか分からない【神】とやらに向かって…。
それぐらい私はおかしくなっていた。心が耐えきれなくて、悲鳴を上げて、いっそ悪魔にでも堕ちてしまいたいとすら願った。
「っ…ィド、おねがぃ。おネガいだから、ゎたしをッ…!!」
『う〜ん…、無理だよ。だってシルティナは【運命】に沿って死ななきゃ、ね?』
『そうだよ〜。いくら僕たちでも【運命】を捻じ曲げるのは禁忌だもん。ね〜』
「うん、めぃ……?」
私の中でその言葉に該当するものはただ一つ。【原作】ただそのものであった。
これはきっと『依存』だ。闇に囚われた私に照らされた唯一の光に、今もなお縋っているだけ。だってそれがなくなったら、私は今立っているこの足元から崩れ落ちてしまうのが分かっているから。
事情を知らない人から見れば、私もまた狂って見えるだろう。だけど、私はただ余裕に振る舞って見えるだけで本当はずっと焦っている。踏み誤れば、振り返れば、行き急げば、あとに続くのは全て奈落だ。
だから私はまだ余裕があるように嘘を見繕って、その内血を吐いていた。戻れぬ過去も、進めぬ未来も、終わらぬ現在も全て受け入れて血を吐いた。
私一人が耐え抜けばいい。例え弱音を吐く相手がいずとも、胸を貸してくれる相手がいずとも、私一人がこの孤独に耐えればいいと思っていた。
本当はもうとっくに限界だったのに、馬鹿みたいに我を通しきったからこんな地獄にいるんだ…。
あぁ…、早く死にたい。楽になりたい。もうこれ以上悪夢に苛まれたくはない。
ふっと身体が軽くなったように感じる。意識が遠のいてきたのか、幽体離脱の感覚に近い。反応する間もなく倒れる、そう思った時…。
「随分と軽率な格好をしてるね。シルティナ」
「………ォ、ルカ」
私を抱き止め抱き上げた男。仮にも神官であるというのに軽々と私を持ち上げた様子を見るに中身はまるで正反対だ。
確かに今の私の格好は『聖女』に相応しいとはお世辞にも言えない。限りなく下着に近い布一枚のワンピースを着ているだけで、厳格さを重んじるアルティナ教徒の格好ではない。
ただ他に服を着る余力もなく、ひとまず着れれば何でもよかった。普段ならばこんなこと絶対にないが、昨夜の衝撃で頭のネジが緩んだんだろう。
「そんな格好を俺以外の奴らが見たなんて、嫉妬で今にも殺しそうだ」
向けられる赫怒の瞳。ギラギラと輝き獲物を喰い破る勢いで見つめてくる。
だけど今の私にそんな獣の相手をする気力はない。ぼーーっとオルカであろう男を見つめ、その胸の中に大人しく収まるだけだ。
オルカのことだ。どうせ私とすれ違った神官全てを文字通り殺すのだろう。それを止める術はないし、巻き込まれて可哀想ではあるがそれもまた運命だったということであろう。
「………nさむい」
まだ秋だというのに吹き込む風が冬の訪れを告げるかのように冷たさを増している。私はそれに逃げるかのようにオルカの胸の内にすり寄り身体を預けた。
そのまま眠りに着いた私を、オルカは鼻歌を交えながら振動を伝えぬようゆっくりと歩き庭園を後にした。
補足書き
シルティナは元々この世界を夢現のように自覚しており、【死】の概念もただ怖いというだけで夢から覚める工程のようにしか考えていませんでした。
しかし【死】を自分の意思では決定できないことを知りとうとう現実みを帯びた悪夢に心が折られました。今まではおじさんのことも踏まえて余裕を保っていましたが、それが無意識のうちにできなくなっていたのです。
『死んでも構わない』、から『早く死にたい』への変化はここですね(*^^*)。
ちなみに最後の場面ではオルカはシルティナが自分に身を預けたことで大いに機嫌を取り戻し無事シルティナの痴態を見てしまった神官総勢十数名を虐殺しました。これはただただ可哀相(*´ω`*)。
まぁ彼らがシルティナを見ていたのはその格好の奇特さとあまりの美しさから放心していただけなんだけどね。それを娼婦を見る目に見えたシルティナは随分と他人の視線を恐れてるんだよね。
実際は今にも壊れそうな儚さと地に足をつく現実性に神々しさすら感じてたのに…。自分の魅力を理解できない女こそ傾国の美女よ!