弱った心
オルカの突然の奇行は無事宥められ、口づけ一つで簡単に機嫌を取ることができる。
前は嫌々だったけど、今は苦痛と天秤にかけて感覚が麻痺しているのか別に苦でもない。顔なんてどれも同じなようなものだ。それがオルカと認識さえしなければ楽なものだろう。
唇を離し、上がった息を整えながら考ええる。今後もヒロインの攻略を続けるオルカにとって彼女と仲の良いエディスとも必然的に会う可能性が高いだろう。
万が一のことも考えてエディスのあの面倒な聖遺物は破壊しておきたい。ただ私じゃ歯が立たなかったことは十分理解したのでそうなればこの男を動かせば良いのだ。
受け取っていたサムクル王国の金のイヤリングをプレゼントし、適当な作り話を交えながら聖遺物のことに興味を繋げる。
本当の順序は逆だけど、あえてそれを知らせる必要はない。まるで本物の好意を示すかのように目元近くに口づけを落とし、その際にシャランッ…と金のイヤリングが揺れた。
それは嘘を見透かしてか、あくまで洒落ついてか。とにかく保険は果たした。いずれまた彼女と相対する時、不安要素は少しでも減らせたと考えれば安い対価だ。
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『平穏』、という言葉が頭の隅によぎる。つい最近戦争地帯に行ったばかりだとは言うけど、戻ってみればあいも変わらず神殿は平和で充実していた。
嵐の前の静けさと言えば心持ちないが、いまだかつてない静寂が私の取り巻く環境を変えていた。
「聖女様。おはようございます」
「おはよう。ノース。昨日はよく眠れた?」
「はい。眠る前に聖女様から教えてもらった本を読みました」
「そう。面白かった?」
「新しいことがいっぱい書かれていて、面白かったです。聖女様の薦めて下さる本はどれも造形深いものばかりで素晴らしいですね」
祈祷が終わった朝、職務を始める前に行われるこのやりとりも随分と日常になったものだ。
ノースがまだ文字を習っていた頃軽く初心者向けの本を手渡したのが始まりだけど、もう既に専門的な本を読んで理解できるというのだから元から地頭が良いのだろう。
最近は精霊との親和性も極まって扱える魔術の数が増えたって喜々として報告してくれたけど、それでも勉強や教会の仕事をこなしているのだから凄いものだ。
教会に従じる者は必ずしも働かなければならない。孤児として集められている者達でも皆手に職を持っている。これは私が聖女の権限を使って決めたこと。
孤児時代にろくな仕事も貰えずに配給ばかり待っては毎年の冬に多くの死者を出していた。ただ何もせず死を待つぐらいなら、せめて仕事を与えて働いてもらった方がいい。
それに、『働かざるもの喰うべからず』。なんて思考が前の私にはあったのかな。今じゃ特段気にしないことでも、昔の私はやる気にだけは満ち溢れていたから…。
まぁそういう訳でいくら幼いノースでも教会の援助を受ける過程でどうしても仕事の依頼がくる。それを可能な範囲に神官が振り絞って承諾した依頼をノースが行うというものだ。
大きなもので魔塔からの精霊を介した依頼もあれば、小さなもので都内の配給など依頼は様々だ。だからこうしてノースと会える時間は偶然が重なったときしかない。
「そうだ、ノース。今日の夜は空いてる?」
「はい。特に用事はなかったと思います」
「それじゃあ一緒に寝よう。久しくノースと一緒に寝ていないから、最近恋しいの」
「分かりました。僕も楽しみにしていますね」
「うん。それじゃあ、お仕事頑張っておいで」
そっと背中を押してあげれば無邪気な笑みで軽い足取りを取って行ってしまった。いくら能力に秀でて、頭が良かろうとまだまだ幼い子だ。
その幼さがどれだけ歯がゆいか、私が一番知っている。真に頼れる大人などいずに、自由を手にすることができない悔しさは痛いほど理解できる。
だからこそ、あと少しの間だけは。私の我儘だとしてもあと少しの間だけは、ノースと一緒にいよう。
オルカとも一時的に距離を取れて、ラクロスもそう簡単に私に牙を向かなくなった。イアニスは分からないけど接触する機会なんてそうそうない。
これで全てが良い方向に向かったとは思わない。せき止められた濁流は荒波となって帰って来る。この安寧にも終わりは必ず訪れるだろう。
それでも私は、この束の間の安寧に浸っていたい。これが本物でなくとも、たとえ有限であろうと、今を生きなければ死ぬことさえできなくなってしまうのだから…。
約束の時間通りに二人でごろんっ…とベッドに寝転がって暗い夜に楽しい話し声が続く。
前々から思っていたけどノースは年齢以上に頭が良い。私の話を聞くと一を教えて十を知るが如く知識をスポンジのように吸収していく。
それに私を神聖視せず、一人の人間として接してくれる。神殿の異様さも感覚で気づいているみたいだし、将来有望とはこのことだ。
お互いの笑い声が続くときもあれば、何か参考論文について議論することもある。この時間が永遠に続けばいいのに。明日など来なければいいのに。
そう思ってしまったのが私の気を緩めたのかつい私は口を滑らせていた。
「ねぇ、ノース…」
「はい。どうしましたか? 聖女様」
「…もし、もしね。今貴女の間にいる私が偽りで、本当は悪者だったらそれでもまだ、私と一緒にいてくれる……?」
返事はなく、この静寂がまるでなかったかのように振る舞った。やっぱり言わなければ良かった、そう思ってしまった私の手を小さな手が両手で包んだ。
「僕は聖女様に救っていただいたその時からこの命を賭してでも聖女様を守り抜くと誓いました。だから、そんな不安で泣きそうなお顔をなさらないでください。僕はずっと一緒です。たとえ聖女様が悪人だったとしても、僕を救ってくださった恩人という事実は永遠に変わることはありません」
「…っうん」
絞り出して、やっと出した鼻声。涙を堪えているせいで喉が痛い。
私は怖かった。いつか私の本性が暴かれるときこの手からこぼれ落ちてしまう存在がいることが、また一人ぼっちでこの孤独に耐えることが、ずっと怖かった。
人というのはあまりに弱い。どれだけ意地を貫いても一度味わってしまった味方がいる心の安寧を失うことは耐えられない。
今はまだ幼いからといって見逃されているノースも、いつか必ずオルカ達の手によって処分されてしまうだろう。私が手放さない限り、そのいつかは必ずやってくる。
それまでに手放すか、それとも彼らに勝る力を身につけるか。後者はあり得ないとして、選択肢は2つに1つ。
いっそ、もっと気楽に考えられるだけの頭があればなぁ…。そしたらこうして悩むことも、憂うこともなく漠然とした不安でさえ忘れ去れるのに。
もしこの絶対的な檻籠から抜け出せるなら、運命の歯車から外れることができたなら、そのときは私も思うままに生きたいものだ。
おじさんと二人で、誰も知らない土地であの日々のように笑って暮らせるのなら…。
決して叶うことのない願いはやがて露のように消え、二人で明かした夜を過去に次の朝を迎えた。
それから何度かともに寝ることはあっても、神官達は何も言わなかった。当然気をやり過ぎると釘が刺されると思ってたけど、どうやらそのつもりはないらしい。
何度目かの夜を越し、今日はどうやら訓練が激しかったのか先に休んでいるため久しぶりに別々で寝ることになった。たった数日一緒に寝ただけだというのに感覚が残っているのかベッドが無駄に広く感じる。
手を繋いで寝たこともあったからあの体温が懐かしい。子供熱とでも言うべきか、私にはないあの温もりが恋しい。
その夜は中々寝付けず、ようやく眠りにつけたのは深夜を回ってのことだった。
珍しく夢を見て、とりわけ幸せな夢だ。春ののどかな草原で、おじさんと一緒に寝そべって日向ぼっこをしていた。
これまで見たどんな夢よりも、ずっと素敵な夢。まさに私の理想が具体化されたものだった。
だけどどういう訳か、突如としておじさんが真逆の方向へ歩いていく。いくら叫んでも、その声は聞こえていないのか止まってはくれない。
ぃや……っ、行かないで! お願いだから、私を置いて行かないで!!!
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たったの数ヶ月、その月日は今までに感じたことのない程途方にも思える時間だった。シルティナとの触れ合いすらもなく、皇女に偽りとは言え好意を振りまく。
シルティナの望みではなければ即刻放り投げるか適当に処理していたであろうに、何を真面目にやっていたのか。
今日は秘密で神殿に戻ってきたとはいえ、シルティナにバレるとまた条件を追加されるかもしれない。だけど今はとにかくシルティナの顔を確認したかった。
眠っていてもいいから、一目この目に映したい。そうでもしなければこのまま頭が狂いそうだ。
皇女を堕とすためにらしくもない役を被ったのが予想以上にストレスだった。メンタル管理も徹底してやっていた弊害か一度崩れるとそう簡単に元に戻せない。
神殿の警備などないに等しい。何故なら全ての人員が自分の手下であるから。だからこうして、自分のいない内にぐっすりと眠る【聖女】の寝室にも入ることができた。
俺の気も知らずに呑気に眠りにつくシルティナに可愛さ余って憎さ百倍というやつだ。
自分をこんなにも苛立たせる皇女は早々に殺してしまいたいし、そんな自分を振り回して意のままにするシルティナを死ぬほど憎いがそれと同時に愛しい。
もしシルティナが俺を神殿に帰らせるつもりがなかろうと、条件を満たせばすぐに戻ってその全てを奪うつもりだ。横から獲物を狙い定めるハイエナには渡さない。コレは俺のモノだ。
しばらくシルティナの寝顔を観察して眠りから覚めないシルティナの手に口づけをし、帝国に戻ろうとしたその時。
「いかないで…、…っ」
服の裾に申し訳程度の力が入ったと思えば、シルティナが俺の裾を握って涙を流している。
身体が歓喜に震える。口角が限界まで引き伸ばされ、抑えることのできない欲動に戸惑うまである。こんなことは初めてだ。なんて可愛い生き物だろうか!!
永遠に檻に閉じ込めて僕以外の視線に晒されないようにしたい。その涙の一粒でさえ、俺だけのモノだと言ってほしい。愛も、憎しみも、優しさも、苦しみも、全て俺に向けてほしい。
寝言ですら俺を想い恋い慕うシルティナに愛しさが増したが次の瞬間、
「…n、おじさん」
明らかに自分ではない名前。そしてシルティナの交流関係にも当てはまらない名称。爆発的に高まった愛しさは一瞬にして憎しみへと変わった。
ガッ…n、グッ……、グググッ‼!!
自分でもコントロールの聞かない欲望が衝動的にシルティナの首を締めた。
あぁ…、今ようやく分かった。俺はシルティナを愛している。だけどそれ以上に、想像していた以上に憎ましく思っていたのだと。
自分を自己を完結させない存在が疎ましく、それでいて腹立たしい。だのにシルティナは俺を眼中にさえ入れてない。そんなことが許せるのか。許せるわけがない。
意識とは裏腹に身体が反射的に目を覚ましたシルティナの瞳に自分が覗き映ったとき、この純粋に怯えを含んだ瞳を全て自分で染め上げようと決めた。