【聖女物語】の始め
正確に言うと『去った』のではなくあるべき場所に『戻った』のだ。だから孤児院の先生達の接し方はまさに期待の星といったもの。それに何より…、オルカの去り際の一言には背筋が凍った。
「…待っててね、シルティナ。またすぐ飼ってあげるから」
「…゛ぃっ、…ゃ」
別れのハグと共に耳元で囁かれた絶望の副音。私は恐怖で手足が痙攣し、今にも気を失いそうな衝撃に必死に身を保っている。
その様子にさらに笑みを深くし、私の頬にキスをして背を向けたオルカ。彼が去った後に突き刺さるのは邪魔者に向ける無数の視線。
今まではオルカの庇護があった。たとえそれが不本意なものであっても、守られていたことに代わりはない。その庇護の原因を作った張本人がオルカだったとしても…。
その日からはさらに私の日常はおかしくなってしまった。元から捻れておかしかったものが重量に耐えられずグシャグシャに壊れていく様に、酷くなっていた。
ドン…ッ、ツ…?!
背中から強い衝撃が襲う。その反動で私はろくな反応もできず硬い地面に倒れてしまった。
「っ…ぅ! ぅぅ…゛っ…」
「あら、いたの」
私より一回り大きい女の子達。孤児の中でも立ち回りの上手い、言うならば一軍女子。その後ろには私と同い年の女の子達がいる。仕方なく傍観している子もいれば、強い力に庇護され弱者をいたぶる子もいる。
顔や腕に擦り傷が残る。地味に染み込む痛みに顔をしかめるも、私はその場から足を引きずって立ち去る。彼女らに何を言おうと、決して相容れない境界線があるなら無理に近づく必要なんてない。
陰で隠れて神聖力を使う。傷口は一瞬の内にその痕跡を消した。まだ覚醒まで半年近くあるのに毎日のように怪我をするため神聖力は増加するばかり。
これも全て孤児達の間での噂話が原因だろう。【原作】より急速に名を広めるオルカ。そんな彼が毎週のように私の送り名で高価なプレゼントを贈るものだから私はさらに冷たい目を向けられる。
私の居場所をことごとく潰すのがオルカの楽しみなのだと納得すればいいのかもしれない。とはいえこのまま彼が次期教皇として実質上の権力を持てば私は『役割』もなにも果たせずにオモチャのまま飽きた瞬間殺されるだろう。
オルカが去って半年。私もそろそろ腹を括らなければならないのけもしれない。はぁ…、小さな溜め息をこぼして私は持ち場に戻った。
悪戯の中でもっとも酷いのは『食事』だ。朝と夜のみしか配布されない具無しのスープ。それでもないよりかはずっとマシだというのに、彼らはその中に蟲を入れる。それも生きたまま入れられたスープによって溺死した蟲を…。
食欲は失せるし当然最初の頃は吐いたりもする。いくら神聖力と言っても万能なわけではないから『飢え』に何度も眠れぬ夜を越す。生命に直結する食事に手を加える時点でもう一線は越えている。
この世界で『生きる』というのは難しい。どれほど莫大な力を持っていたとしても、一人で生きることはできないからだ。
ぐぅぅぅう…っ
腹の虫が鳴るのは何百、何千回目だ。意識がもうろうとして、私は作業場から距離をとる。すると先日私を突き飛ばした女の子が何やら説教を垂れる。
「ちょっと、あなた真面目にやりなさいよ。オルカに少し気に入られてるからって、私達をバカにしてるの? オルカが迎えに来てくれるなんて、馬鹿みたいに信じてないでしょうね」
そんなこと心底どうでも良いのに…、この子は一向に退いてくれない。早く壁に寄りかかって丸まりたい。この空腹をなんとか我慢したい。
「思って、ないです…。まだエナさんの方がキレイでヨーリョーも良くてわたしなんかくらべるのもおこがましいですから」
「は、なに? ご機嫌取りのつもり?」
意識を失うギリギリでも精一杯使ったおべっかもこの人には通じないし吐き捨てるように私を見ている。
あぁ、此処は心が死ぬか身体が死ぬかの二択しかないような場所。なんで今になってそんな当たり前のことに気づいたんだろう。もう、ムリだよ…。
「べつにホントーのことです。まだこのこじいんの中ではマシなレベルてすし、ヨーリョーもわるい方じゃないけどソーゴーで見ればちゅうのげ。あれ? げのげでしたっけ?」
嘲け嗤うように少しからかっただけで鈍器で殴られたような、幼児にはあまりにも重いビンタが直撃した。これにより空腹は一時的に止まったが脳が大きくダメージを受けて視界がチカチカなる。
「あんた、どんだけ身の程を知らないの? オルカがいなくなった今でもあんたが頂点だとでも勘違いした?」
鼻血を出して床に突っ伏した幼子にさらに脅しをかけるなんて、もうこの子を『人間』として尊重する気は殊更無くなった。
「かんち、がい…? いいえ、もともとゼンテイがちがいます」
再度大きく腕を振りかぶったエナより先に、私は神聖力でぶたれた痕を跡形もなく消した。
「あ、あんた…?! それ…ッ!」
驚愕にうち震えるエナ。そりゃそうだ。このレベルの傷を一瞬で治療できるのは、教皇クラスだと世渡りの上手いエナなら知っていて当然だから。
「オルカなんてかりそめのダケンにすっかりダマスされて、ホントーにオツムがからっぽな人ですね。ちなみにわたしはコレでジツリョクのはんぶんも出していませんよ? 『たちば』、よくわかって良かったですね?」
「こん、のッツ…?!!!」
また頭も使わず振りかぶった獣に今度は有り余った神聖力をそのまま高密度エネルギーとして放出した。
すると獣はものの見事に吹き飛ばされ、虫の息になった。作業場も半壊。巻き込まれた子達は助けの声をあげている。
初めて、神聖力で人を傷つけた。前世の倫理観に縛られていた私は、もう何も思わなかった。ただ、過ぎた力の『代償』は払わなければとは考えていた。
先に小さな子供から治療していく。その中には私を虐めた例のあの子達もいたけど、そんな子達には傷痕がわざと残るように治した。
罪の形はそれぞれに残さなければならないから…。ここで私が許しても、負の連鎖にしかならない。
「ぃや…。死にたくないっ、しにたくないよぉッ!」
必死に助けを求め泣き叫ぶ子供達。だけど彼らに私が感じる感情は一滴たりともなかった。今まで散々に私をなぶってきた畜生が何をほざこうが、上手く表情を作れない。
それでも私は全員を治療した。それがこれから私が背負うであろう『聖女』だから…。
もし『聖女』じゃなかったら、なんてそこまで考えられるほど大人じゃなくて良かった。そう思ったのはそれから十年以上の月日が流れた後だった。