§1.1. 私の姉は犬
この世には不思議なことがたくさんある。それは例えば、ほんの少しの年の差であっても、妹は絶対に姉に逆らうことができない、ということがそう。
シャワーから上がると、リビングから姉さんたちが呼ぶ声が聞こえる。大方、早く夕食を準備しろというあたりだろう。姉さんたちに付き合って外を走ってきたんだから汗を流すくらいはさせてほしい。
手早く服を着ると、髪を乾かすのもそこそこにエプロンを身につける。私は髪が短いから放っておけばすぐ乾く。姉さんたちのご要望にお答えして、夕食の準備をするのが先だ。
今日の夕飯は蒸した鶏のささみを載せたサラダとパスタがメインだ。姉さんたちの分は鶏肉を多めに載せる。
全員分の皿をまとめてお盆に載せて、姉さんたちが待つリビングに持っていく。リビングのドアを行儀悪く足で開けると、姉さんたちが足元にじゃれついてくる。
「ウタ姉、カナデ姉、待って危ない、今運んでるから……先にテーブルで待ってて」
姉さんたちはおとなしく座卓の横に座り込む。私は座卓に自分の分の食事を載せる。姉さんたちの分の皿は床に置く。
「それじゃあ、いただきます」
両手を合わせる。それを待ってから姉さんたちも皿に口を突っ込むようにして食事に口をつける。
――そう。私の姉さんたちは人間ではない、犬だ。
なにかの比喩ではなく、犬だ。より具体的にはアラスカン・マラミュートだ。灰色と白の毛色の方が長女のウタ姉、黒と白の方が次女のカナデ姉。二匹とも私より大きいし重い。
一方で私はもちろん人間だ。幸徳井律、十七歳、高校二年生。身長は百五十八センチメートル、体重は……まあほどほど。
もちろん私と姉さんたちの間に血の繋がりはない。ウタ姉とカナデ姉は、私が生まれるより三週間ほど前に、母さんが飼っていた犬が産んだ子供だ。私はウタ姉とカナデ姉と一緒に育てられた。だから姉さんたちは私の姉さんだ。
「ごちそうさまでした」
両手をあわせてから皿を下げる。カナデ姉はウタ姉より先に食べ終わっていたが、きちんと私やウタ姉が食べ終わるのを待っていた。ごちそうさまを言うと、ウタ姉もカナデ姉も思い思いにくつろぎ始める。
ウタ姉は小音量でジャズを流しっぱなしにしているフロアスピーカーの前、カナデ姉は皿洗いをする私の足元でうずくまっている。
もちろん、皿洗いは末妹である私の仕事だ。
皿洗いを終えてからは私は勉強の時間。カナデ姉がかまって欲しそうに絡んでくるが、無視。背中にのしかかられると正直めちゃくちゃ重いけど、無視……。
一方のウタ姉は相変わらずスピーカーの前に置かれたクッションの上で丸くなっている。ウタ姉はジャズが好きだ。
のしかかってくるカナデ姉に根負けしてカナデ姉を膝に乗せつつ、日付が変わる頃まで私は勉強を進める。
めちゃくちゃ重くて足がしびれる。そりゃそうだ、私より重いんだから。
日付が変わったので、歯を磨いて寝る。スピーカーは音量を絞って静かな音楽を流しっぱなし、常夜灯はつけっぱなしだ。静かすぎるのはウタ姉が、暗すぎるのはカナデ姉が嫌がる。
寝室のベッドに入ると、当然のようにウタ姉とカナデ姉が両側に潜り込んでくる。一応姉さんたちはそれぞれ専用の寝床もあるんだけど、こうして一緒に寝ることが多い。そのつもりでベッドは最初から大きなものを使っているので、狭くはない。むしろこれからの寒くなる季節、モフモフと温かい姉さんたちの毛並みが心地よくなっていく時期だ。
「おやすみ、ウタ姉、カナデ姉」
私はゆっくりと眠りに落ちていく。
この世には不思議なことがたくさんある。姉さんたちが長生きなのも、そうだ。
姉さんたちは私より少しだけ年上で、もう十七歳になる。姉さんたちは姉さんだけど、犬だ。犬としては十七歳はかなりの高年齢になる。だというのに、姉さんたちはまだまだ若い。奇妙に思って獣医に診てもらったこともあるけれど、原因はわからなかった。
姉さんたちには私の他に、ちゃんと血のつながった四匹の弟妹がいる。彼らは生まれてすぐに貰われていったけど、彼らはもう皆が寿命を全うしたと聞いた。ウタ姉とカナデ姉だけが、特別なのだ。
姉さんたちがいなくなったら私はこの広すぎる家で一人になってしまうから、ずっといてほしいと思っているけれど。
そんなことをぼんやりと考えているうちに眠りに落ちる。
朝。カナデ姉がゴソゴソと動く気配で目が覚める。
六時半、時間通り。カナデ姉は朝にめちゃくちゃ強い。逆にウタ姉はめちゃくちゃ弱い。ウタ姉はしばらくそのまま寝かせておいて、私は食パンをトースターに放り込み、豆乳をマグカップに注いでレンジにかける。
パンが焼けるまでの時間で、制服に着替える。うちの高校の女子の制服はブレザーだ。何の変哲もない濃紺のジャケットだけど、いちいち服装のことを考えなくて良くなるから楽でいいと思う。
「カナデ姉、朝ごはんにするからウタ姉のこと起こしてきて」
寝室の方を指差すと、私の足元でくつろいでいたカナデ姉はそれを聞いてウタ姉がまだ寝ている寝室の方に向かう。
その間に私は自分の分のトーストを皿に載せ、姉さんたちの分のドライフードをそれぞれの皿に注ぐ。
ウタ姉がのそのそと寝室から出てくる。寝癖で毛並みに変な癖がついている。それにめちゃくちゃ眠そうだ。今にも床に丸まって寝直しそうに見える。朝のこの時間帯のウタ姉は一日で一番、長女としての威厳がない。
ウタ姉が寝直さない内に、私達は食卓につく。
「それじゃあ、いただきます」
ウタ姉とカナデ姉は私が手を合わせるのを待って食事を始める。私もそうだけど、この辺の礼儀作法は母さんにきっちり仕込まれた。いなくなってからもそうそう変わるものじゃない。
食べ終わったら皿を洗い、髪を梳かし、軽くベースだけのメイクをして、かばんの中身を確かめる。どうせ教科書はほとんど学校に置きっぱなしだから大して何が入ってるわけでもないけど。
ここまでやって七時半。時間ぴったりだ。
「ウタ姉、カナデ姉、行くよー」
姉さんたちを伴って家を出る。
家を出ると、門の前に志穂が待ってる。
「おはよう、律」
「おはよ、志穂」
志穂は読んでいた文庫本をポケットに突っ込むと、柔らかく笑いながら挨拶してくる。
瑞澤志穂は隣に住んでいる幼馴染だ。背は私とほぼ同じだけど、たしか一センチか二センチ、志穂のが高かったと思う。だけど姿勢がいいから実際よりも背が高い印象を受ける。昔から長い髪が綺麗で、今年の春に買い替えた赤茶のフレームの眼鏡が似合ってる。
全体的に知的で優等生な印象を受けるし、実際にそうだ。うちのクラスでは一番頭がいい。人に教えるのも上手くて、テストのたびに志穂には助けられている。
「カナデさんとウタさんも、おはよう」
志穂は腰をかがめるとウタ姉とカナデ姉の頭を撫でながら姉さんたちに挨拶する。その拍子に、ふわりとシナモンとカルダモンといくつかスパイスが混ざった香りが漂ってくる。今朝はチャイを飲んできたのだろうか。
学校までは三十分くらい歩く。
「そういえば律、今週から体育の授業バレーになるって、聞いた?」
「知ってるー。球技苦手なんだよね、早くマラソンの時期になんないかな」
「私はマラソンのほうが嫌だけど。球技ができるというわけではないけど、マラソンは辛いわ」
「あんなん別に適当に走ってるだけじゃん? 大した距離でもないし」
「それは律が毎晩ウタさんたちと走ってて体力あるからでしょう? 高校に入った時だって、陸上部に誘われてたじゃない。覚えてる?」
「そうだっけ? そうかも」
私はこうして朝、志穂と話しながら投稿する時間が結構好きだ。父さんと母さんが交通事故で亡くなった後、志穂とそのおじさんおばさんは本当の家族みたいに私を支えてくれた。
私にはウタ姉とカナデ姉がいたから一人というわけではなかったけれど、それでも志穂がいなかったら今みたいに普通に明るく暮らせていた自信はない。
学校につく。部室棟の近くにウタ姉とカナデ姉をつないで、私は教室に向かう。
この学校はなぜか、伝統的に動物が多い。学校でも犬と孔雀とうさぎを飼ってるし、校庭に居着いてる猫はさらに多い。先生や生徒がペットを連れてくるのも黙認されてるから、その総数はさらに多い。
ウタ姉とカナデ姉も、日中は私の友達にも可愛がられてる。おとなしくてモフモフしてるからだ。
教室に入って自分の席で適当にスマホを弄ってると、後ろからタタタッと駆け寄ってくる音がする。
「おっはよー」
ズシン。後ろからのしかかるようにして抱きつかれる。
「華、重い」
「あー、うら若き乙女に対して、重いとは失礼な!」
「じゃあ朝からテンションが高い。疲れる」
あと頭に柔らかいものがあたってるんだよ。チクショウ、ちょっと羨ましい。
「いいじゃんねー、寒くなってきたんだから少しくらいくっついたって。いいんちょもそう思うでしょ?」
いいんちょというのは志穂のことだ。実際にクラス委員長だったのは一年生のときで、今は違う。だけど見た目が委員長っぽいからみんなから委員長と呼ばれている。
「おはようございます、華さん。本人が嫌がってるならやめるべきでは?」
「ちぇー、まぁいいけどさ」
華が離れる。バニラっぽい甘い香りがふわっと漂う。先週は柑橘系の香水を使ってた気がする。
「香水、変えた?」
「よくわかるね? 学校だからちょっとしかつけてないのに。そー、この土日で買ってきたやつ、新作だよ。りっちゃんもつけてみる? 明日持ってきたげよっか」
「やめとく」
「律は昔から香りの強いもの、苦手だから。特に人工の香料はダメよね?」
志穂からフォローが入る。そのとおりなんだけど、細かいことをよく覚えてるなと思う。流石委員長。
「あれー、そうなの? 私のこれも苦手だった? ごめんね?」
「別にこれくらいなら大丈夫。あんまりキツいとしんどいけど」
「そっかー」
華は可愛らしいアクセサリーがついたスクールバッグを横のフックにかけつつ、自分の席に座る。
堀月華は今年同じクラスになってからつるむようになった子だ。私より十センチ以上背が低くて、なんというか、やわらかくてふわふわしてる。茶髪を編み込んだ低い位置のふわふわしたツインテールにしてる事が多い。
髪も爪もちゃんと手入れされてて、すごいなぁって思う。
華は自席に座ったはいいけど手持ち無沙汰にしてる。そわそわして落ち着きがない。いつものことだ。
「りっちゃん、髪いじっていい?」
「別にいいけど、私いじれるほど長くないでしょ? 志穂にやらせてもらったら?」
「いいんちょ、他人に髪触られるの嫌がるんだもん」
「あれ、そうだっけ?」
前に私がいろいろやった時は嬉しそうにしてた気がするけど。
「それは……まぁ」
志穂は文庫本に目を落としたまま答える。
華は私の後ろに回って私の髪をいろいろといじり始める。大して何ができる長さでもないだろうに、よくやると思う。
そんな様子を志穂は時々文庫本から顔を上げてチラチラ見てる。なんだろ、実はやってほしかったのかな。
「志穂、どうかした?」
「えっ、いや別に……」
慌てて文庫本に目を戻す。志穂の考えてることはたまによくわからない。いや、志穂は頭がいいから私にわからないようなことをいろいろ考えてるわけで、そりゃそうなんだけど。
「できたー、見てー」
華が私の前に鏡を差し出す。
うわ、なんかすごいねじねじのおしゃれな感じのアップになってる。なんだこれ、どうやったの?
「こんなできるんだ」
「いいでしょ、色々練習中」
満足したのか、鼻歌交じりに華は席に戻る。
その後、一日の授業はなにごともなく進む。ちなみに華にせっかくやってもらった髪は、午後の体育のバレーと着替えでぐしゃってなっちゃったから、戻した。
放課後。華は男子バレーのマネージャーなので、そっちに行く。私と志穂は部活をやってないので、学校を後にする。
志穂とは途中まで一緒に帰って、私はバイトがあるので途中で別れる。
私のバイト先は学校と私の自宅の間にある酒屋だ。子供がもう独り立ちした店長が一人でやってる小さな店で、従業員も私しかいない。
ちなみに採用の決め手は、ウタ姉とカナデ姉の存在だ。店長は無類の犬好きだけど、年だからもう自分では飼えないと嘆いていた。
「店長ー、お疲れ様っすー」
「うん? ああ、律くんか。今日は少し早い?」
店長はレジの奥の座敷で新聞を読んでる。ちらっと時計を見ながら返事する。
「そっすー、ホームルームが早かったんで」
「じゃあそのまま入ってもらってもいかい? 冷蔵庫が空なんで、ちょっとスーパーまで行ってくるよ。店番してて」
「おっけーっすー」
レジの奥に掛けられてる私専用のエプロンを制服の上から被って、レジ奥の椅子に座る。
「じゃ、行ってくるから」
逆に店長はエプロンを外してコートを羽織る。入り口のところに繋がれたウタ姉とカナデ姉をひと撫でしてから、店長は去っていく。
その背中に、ちょっと嫌なものを見つける。
ガウ、とウタ姉が軽く唸って私に注意をうながす。
「そうだね、わかってる。バイトが終わってからね」
お客さんはろくにこないし店番は暇だったのでスマホ……は流石に誰か来たときに印象が悪い気がするから、店長が置いていった新聞を読んで暇をつぶす。
しばらくして店長は帰ってくる。そして数人の客が来ただけで、今日の分のバイトは終わる。どうせこの店にくる人は大体顔見知りだ。色々おいてはいるけど一番良く売れるのはビール、そういう店だ。
外はすっかり日が暮れて暗い。店じまいをしつつ、軽い調子で店長に尋ねる。
「店長ー、なんか悩み事っすか?」
「え、どうしたの突然」
店長はちょっと驚いて手を止めつつ聞き返す。
「ちょっと顔色悪いっすよ。なんかあったんすか?」
「顔に出てた? そんなにかなぁ……」
店長は自分の頬を手で覆うような仕草をする。いやその動作、おじさんがやっても可愛くないけど。
「私で良かったら聞きますけど」
「そんな大したことじゃないんだけどね。ほら、先週ついに腰やっちゃったでしょ。それで、いつまでこの店続けられるかなぁってちょっと不安になっちゃって。それだけなんだけど、妙に気になっちゃってさ」
「だいじょーぶっすよ、店長まだまだ元気じゃないっすか」
「そう? そうだといいなぁ」
片付けが終わり、それじゃあまたね、と店長は手をふる。私も軽く頭を下げる。
店長がシャッターを下ろし、奥に消えてから、私は「それ」に目をやる。
「なるほどね」
この世には不思議なことがたくさんある。
私は生まれつき、他の人には見えないらしい黒い「もやもや」が見える。
「これ」についてわかってることは少ない。そのうちの一つは、「これ」は他人の不安や悩みをはじめとした人の悪感情から生まれるということ。
それと、「これ」が憑いていると人は憂鬱な気分になり、体もおかしくなっていく。それで不安が増大し、またこの「もやもや」を強く大きくしてしまうということ。
私は「これ」を呪い、と呼んでいる。
「つまりお前は、店長の『老化からくる不安』ってわけだ」
私はその呪いを見据えながらハッキリとそう口にする。それによって呪いの姿がもやもやとした曖昧なものから、明確に形を持ったものに変化していく。
それはゆるキャラのような見た目の、角の生えた小さな悪魔の形をとる。
グルル、とウタ姉とカナデ姉が唸り、毛を逆立てて警戒する。
私は呪いから目を離さないまま、姉さんたちに鋭く声をかける。
「ウタ姉、カナデ姉、お願い」
それを聞いて、ウタ姉とカナデ姉は一斉にその呪いに飛びかかる。宙に浮いたそれに噛みつき、地に叩き伏せ、噛みちぎる。
これについてわかってることで、最も重要なことは、これに直接触れられるのは私の知る限りではウタ姉とカナデ姉だけだということだ。私でさえ、見えているだけで触れることは出来ない。
必然的に、これを「祓う」ことができるのもウタ姉とカナデ姉だけ、ということになる。
ウタ姉とカナデ姉に食いちぎられ、呪いは霧散する。
「よし、大丈夫そうかな。呪いが弱いうちに見つけられてよかった」
呪いが跡形も無くなっていることを確認して、頑張ってくれたウタ姉とカナデ姉を撫でる。
呪いは人の不安や恨み、苦しみや憎悪など、あらゆる悪感情から生まれる。当然人の多いところには呪いも多くなるし、街に出れば呪いは至るところに溢れかえっている。
それは人々を苦しめるが、人々はそれに気づかない。
そのすべてを祓うことはできないし、するつもりもない。私も、ウタ姉も、カナデ姉も、ヒーローになるつもりはない。
だけどその力があるなら、身近な人に憑いた呪いくらいはどうにかしたいと、私、幸徳井律は思うのだ。