第1章、禍(わざわい)の白③
(はあ…。アウローラ先生は面白い方だけど、話が長くて疲れちゃうわ…。)
皆一斉に廊下を歩く中、シェラトリスは人知れずため息を吐いた。
研究室に向かう者、真っ直ぐ昇降口玄関に向かう者、部活に行く者…。毎日できるその行列は、最初から決まっている川の流れのように人が進んでいる。それに逆らうのは、教員に呼ばれて大急ぎで職員室に向かわなくてはならない者くらいだ。
(帰る前にアナ先生のところへ行った方がいいかしら。…いえ、今日はもう無理ね。)
次の特殊授業について、担当の先生・アナに話を聞こうかと考えたが、今日は放課後はいないと言っていたのを思い出し、諦める。
楽しそうに話す集団を横目に、シェラトリスは“扉”に向かった。
そこは学校の敷地内にある、簡素な建物。鮮やかな青壁の寮と違ってただの白壁という味気ない建物は、通称〈扉の館〉という。遠方から来る生徒や先生の通学・出勤のための場所だ。寮とは違い、利用できる者は限られており、上級貴族だからといって誰でも許可が下りるわけでも、下級貴族だからといって全く許可が下りないわけでもない。この館の一部屋一部屋に魔法が掛かっており、自らの家と繋がっている。ずらりと並んだ扉から、その名が付いた。
薔薇の植え込みを整える庭師を遠目に見ながら、入口を通過する。そして玄関口にある管理人室の受付へ立ち寄る。この館を管理する婦人に軽く声を掛けると、婦人の飼っている猫が鳴いた。実は、あの猫は獣魔で、不審者や許可なく扉の館に入ろうとした者を排除する役目を持つらしい。頻繁に起こることではないが、貴族の家に繋がる扉を数多く備えてあるため、それらの家に侵入しようとする輩はいつの時代もいる。いつも眠っている姿しか見ないあの婦人も、猫と同様、この大切な館を守り抜く役目を負っているのだとか。見た目は七十歳を超えていそうな老婆だが、いつからここに居るのか分からないほど長い時をこの館で過ごしているらしく、人間ではないだろうと言われている。婦人の正体を考えるのが、生徒の間で密かな伝統になっている。
シェラトリスは、いつものように猫に微笑み手を振ると、猫もしっぽを振って返した。
階段を上り、上流貴族の生徒たちが割り振られている部屋が集うエリアに向かう。
クロノタトンの家紋が描かれたドアの前に立つと、鍵を取り出した。二つの鍵のうち、黒い薔薇の装飾がある鍵を使用し、自室に入る。内鍵を閉めると、その下の鍵穴に白薔薇の鍵を差す。
カ…チャン
軽いながら印象的な音が響いた。そのままドアノブを回し、開けると、そこはもう館の廊下ではない。館の部屋より格段に広く、立派な場所。壁も窓も柱も家具も、全てにきめ細やかな装飾がされている。
ここはシェラトリスの家、クロノタトン侯爵家の屋敷。その玄関ホールである。
「―――ただいま。」
シェラトリスの帰宅の声に、シャンデリアが一際明るくなった。
「おかえり、シェラトリス。」
階段から下りてくるのは、昼間に別れたアスカルト。その格好は学園での堅苦しくきっちりとした制服などではなく、随分と簡素でゆったりとした服装だ。
「あら、アスカルト。私より早かったのね。」
“おかえり”と言ったアスカルトに、さほど驚いた様子を見せずに返事をするシェラトリス。それもそのはず、アスカルトはクロノタトン侯爵家で暮らしている。厄介事の多い王宮で暮らすより、はるかに安全だということで、八歳の頃からクロノタトン家に住んでいるのだ。
また、王宮とこの家も"繋がって"いる。世間一般には知られていないが、大昔からクロノタトン家と王族は深い仲である。
「ああ。最後の授業は自習でね、早く終わったんだ。…それより、早く着替えてきなよ、シェラトリス。おばさんがクッキーを焼いたそうで、お茶にしようと言っていたよ。」
貴族が料理をするのは珍しいが、クロノタトン一家は、たまに料理をすることが趣味である。特に、シェラトリスの母は暇を見つけてはスイーツを作っている。
「分かった、すぐ行くわ。」
〈追記〉
学校の設定にブレが生じていたため、文章を一部変更しました。シェラトリスの学校は基本、貴族のみ(例外あり)が通っています。