金木犀1
社会人になって半年ほどたったある日、僕はある場所に向かって歩いていた。
住んでいるにぎやかな街からいくつも電車を乗り継ぎ、一時間に一本電車が来れば良いと思えるような木造の小さな無人駅で降りた。蝉の鳴き声があちこちから聞こえる。ここは緑が多い。今にも潰れそうな駄菓子屋の脇道を入り、車が一台通れるかどうかという舗装されていない細い道を早足で歩く。黒いリクルートスーツに汗がじんわりと染みて気持ち悪かったが、そんなことは気にならなかった。脇に見える竹林と小川が涼しげだ。懐かしさに、ふと歩く早さが緩んだ気がした。
やがて、家が三軒見えてきた。僕は一番奥の家へと向かう。細い道なのに、入ってしまえば庭は広い。たくさんの植物が植えられたその庭には、今日は車がたくさん停まっていた。車のタイヤが、松の木の根を踏んでいるのを見て心がざわりとする。
僕は戸を開けようとして、何と声をかけたらいいかわからず、玄関に立ち尽くした。踏んだ足下から、砂利の音が響いてはっとした。廊下を無造作に歩く足音がして、戸が開いた。顔を上げるや否や、パチンと小気味良い音が響いて頬に熱い痛みが走った。
「なんで…来なかったの!」
母だ。窶れた頬、怒りと今にも泣きそうな表情が混在していた。長いこと母は家には帰ってこなかった。これが娘の努めだと言って、病院とここを行き来して寝る間を惜しんでお世話をした。一昨日、その努めを終えた彼女は飾り気の無い黒い服に身を包み、先ほど打った手を擦りながら睨んだ。目から涙が零れ、それを見られないように後ろを向く。
「…ごめんなさい」
僕は俯いて小さく謝る。母がそれを見たかどうかはわからないが、喉に何か詰まったような言い方で早く上がりなさいと言った。
玄関を上がった居間には、顔も知らない親戚がたくさんひしめき合っていた。窮屈にきっちり畳んだ脚が並んでいる。軽く会釈をしながら、顔見知りの叔母や従姉妹に挨拶をして仏間に歩み寄る。
祖母の写真が大きく飾られ、彼女には不釣り合いなくらい大きい桐の箱が寝かせてあった。写真は何年も前の、まだ元気だった頃の写真だった。急に懐かしさが込み上げる。
「よう来たなぁ」
そう言っていつも祖母は僕達を迎えてくれた。毎年、夏になると祖母の家に泊まりに来るのが楽しみだった。擦りきれた畳の部屋に入るとなんだか落ち着いて、この家が好きだった。彼女はゆっくりとした動作で、こんなものしか無いけれど…と言いながら赤紫蘇で作ったジュースを出してくれた。僕はこれが苦手だった。少し口をつけたあと、母に押し付けて川に遊びに行くと言って逃げていた。
川で遊ぶのは楽しかった。小さな魚を捕ったり、釣り竿を自作して沢蟹を釣ったり。石を積んで小さな池を作ったこともある。そうして日が暮れるまで遊んで暗くなってきたら、祖母が迎えに来るのだ。
「そろそろ家にお入り。ご飯だよ」
祖母と手を繋いで家に入ると、食卓には野菜料理がたくさん並んでいた。どれも、祖母の畑で採れた新鮮なものだ。なぜか祖母の料理は美味しくて、嫌いな野菜も食べることができた。母が信じられないという顔をしていたのはなかなか忘れられない。新鮮だから美味しいんだよと、祖母は顔を綻ばせていた。
「最近足が言うことを聞かなくてねぇ…。畑もいつまでできるかわからんねぇ」
祖母は毎年のようにこう言っていた。年々曲がっていく腰、しわしわになっていく手。それを見るのは小さい頃は平気だったが、小学生も高学年になれば色々考えてしまう。自分が大人になるまでは元気でいてほしいと、子供ながらに思っていた。
「もしおばーちゃんが畑をできなくなったら、僕が木を植えるよ!」
もの寂しい空気を吹き飛ばすかのように言った言葉に祖母が吹き出した。母もつられて笑う。何かおかしいことを言っただろうかと、見回す僕に祖母が声を掛けた。
「何の木を植えるん?」
僕はそれにまだ決めてないと答えた。実のなる木がいいな…と呟くと、それは楽しみだと祖母が目を細めた。
その日はお風呂に入った後も祖母の部屋で何を植えるか、ずっと話していた。彼女に何がいいか聞いてみたら、金木犀がいいと答えたのでびっくりした。
「いい匂いがするんだよ。懐かしくて、甘い匂いが。ばーちゃんがいなくなったら、植えてくれるかい?」
「…いなくなったらやだよ。でも、約束する!」
布団を抱えて背中を向けた僕を見て、約束だよ…おやすみ。と背中をポンポン叩いて祖母は電気を消した。
布団の中で少しだけ泣いてしまったけど、すぐに眠くなってその日は寝てしまった。