第七話 父の帰還
イグネイシャはまだ帰ってこない。
いつの間にか秋は終わり、暖かなヴェスタにも冬が訪れようとしていた。雪こそ積もりはしないが、草原を吹く風は冷たく、空は分厚い冬の雲で覆われている。
「白百合の花は、とうとう咲かなかったね」
屋敷の部屋の窓から丘を眺め、リオは呟いた。白百合が咲かないまま、丘の草花は枯れ果て、冬を迎えようとしている。
「窓を閉めて」
身体を刺すような冷たい風に身震いし、グレイシアは言った。
「寒いのは苦手なんだ。冬は大嫌い」
「これくらいの寒さなんて、たいしたことないよ」
リオはクスリと笑い、窓を閉める。
「南国育ちの君にはきついかもしれないけどね。北の国では、もう真っ白な銀世界になっていると思うよ」
「お父様の帰りが遅れているのは、雪のせいかもしれないな。あれから、手紙さえ届かなくなった……」
帰郷が遅れるという短い手紙が一度届いたきり、イグネイシャからは何の連絡もなかった。結局、イグネイシャはグレイシアの誕生日にもリオの誕生日にも帰っては来なかった。ただひたすら、父の帰る日を待つだけの毎日は、グレイシアにも母親のメリーネにとっても、辛い日々だった。
「北の国々では、争いが絶えないらしいから、お父様が暴動に巻き込まれてはいないかと、お母様は心配していらっしゃる」
グレイシアは、フーと息をつく。
「お父様は逞しくて強い方だから、心配ないけれど……せめてお手紙を送ってくださればいいのに」
最近のグレイシアは、イライラしたり、何かを思い詰めて元気のないことが多い。そのやり場のないもやもやした気持ちを、剣の稽古で必死に紛らわせているようだが、本当はメリーネよりも、もっとグレイシアは父のことを気にかけているようだ。いつも気丈に見えるグレイシアだが、心の内は繊細で傷つきやすいこともリオは知っている。
「大丈夫、イグネイシャ様はもうすぐ帰って来てくださるよ」
イグネイシャが帰ってくるという何の確証もないが、リオはそう言ってグレイシアを慰めることしか出来なかった。リオも彼の帰還を待ち望んでいた。白百合の花が咲かなかったことを、リオはずっと不吉に思っていたが、そんなことは何の根拠もない出来事だったと、グレイシアと笑い飛ばしたかった。グレイシアの辛そうな顔は、もう見たくない。
と、突然、部屋の扉を激しく叩く音が聞こえ、リオとグレイシアは驚いて扉の方に目を向けた。
「グレイシア様! グレイシア様!」
侍女の悲鳴のような叫び声が、扉の向こうから響いてくる。
「お、お入りなさい!」
グレイシアは動揺し、ツカツカと扉の方へ歩いて行く。
「グレイシア様!」
グレイシアが扉の前に立つと同時に、勢いよく扉が開いた。侍女は取り乱し、頬は涙で濡れていた。
「今、たった今、イグネイシャ様がお帰りになられました……」
「お父様が……!」
顔を見合わせるグレイシアと侍女。侍女は体を震わせ、声を上げて泣き始める。良い知らせであるはずはない。リオは、言葉を失って立ちつくすグレイシアの側に駈け寄った。
「お父様がどうされたと言うの!」
グレイシアは侍女の肩を掴み、乱暴に揺すった。
「何があった!」
「グレイシア」
顔を強ばらせ、侍女を揺すり続けるグレイシアをリオは制した。
「……イグネイシャ様はヴェスタにお帰りになる途中、刺客に遭われ……重傷を負われたそうです」
侍女は泣きながら続ける。
「傷を負われたままヴェスタに向かわれていたのですが……先ほど、ヴェスタの街に到着された頃──」
「お父様は、お父様はどこ!」
グレイシアは侍女の言葉を遮り、部屋を飛び出した。
「グレイシア!」
リオを残し、グレイシアは階段を駆け下りる。
「お父様!」
──お父様は無事に帰られた! お父様は強いお方! お父様は刺客なんかに負けるはずはない! 絶対に!
グレイシアは走りながら、心の動揺を隠し必死で自分に言い聞かせる。
──庭にはお父様が待っていらっしゃる。長い旅から帰って来た日、いつものように、元気に駆けてくる私を抱き締めるため、両腕を大きく広げて、お父様は笑っていらっしゃる!
「イグネイシャ様は……?」
後に残されたリオは、今にも気を失いそうな侍女の体を支えながら、次に続く恐ろしい言葉を待った。
「つい先ほど……息を引き取られ、天に召されました……」
ようやくそれだけ言うと、侍女はその場に崩れ泣き続けた。
「……」
リオは言葉を失い、茫然として、泣き濡れる侍女を見つめ続けた。