第六話 悪しき前兆
穏やかな風を受けて、草木の葉がざわめく。秋も深まりつつあるが、降りそそぐ日の光はまだ温かく、冬の気配は感じられない。
静かな丘の上から、激しく木刀を打ち合う音が聞こえてくる。木刀を突き合わせ、剣術の稽古をする二人の人影。傍らの木には、二頭の馬が行儀良く並んで繋がれていた。一頭は、真っ白なたてがみの白馬、もう一頭は艶やかな栗色の馬。白馬はグレイシアの牝馬リリー、栗色の馬はリオの馬リンド。
リオがイグネイシャの屋敷に来て、三年の月日が流れようとしていた。グレイシアもリオもまだ顔に幼さは残るが、背丈は伸び、子供から少年少女へと成長しつつある。
リオは額に汗をかき、グレイシアの鋭い一撃を、やっとの思いで受けとめる。この三年間毎日、勉学と剣術、馬術の稽古を続けてきた。剣術もようやく形にはなってきたが、まだまだグレイシアにはかなわない。
どうにかグレイシアの木刀を押し返したが、次の瞬間に再び彼女の強烈な一撃を受けた。リオの木刀は大きな音を立て、弧を描いて飛ばされていく。木刀は二頭の馬の側に転がり、馬達は驚いていなないた。
「リオ、油断しちゃダメだ!」
グレイシアは武器をなくしたリオに、木刀を突きつける。
「もしこれが真剣なら、リオは死んでる」
「降参だよ。グレイシアは強すぎる……」
額の汗を手で拭い、肩で息をしながらリオは言った。
「一度でいいから、君に勝ってみたい」
リオは馬の側に転がっていた木刀を拾い上げる。
「リオはまだまだ稽古が必要だね」
グレイシアは口元を弛めて笑った。
「馬術は直ぐに上達したんだから、剣術も頑張らないと」
「馬は大好きだから」
リオはリンドの顔を撫で、頬をすり寄せる。リンドはリオの顔を押して、甘えるようにいなないた。
「イグネイシャ様が、僕に最高の馬を買ってくれた」
「イグネイシャ様じゃなくて、お父様だろ。リオはいつまでたってもお父様のことを名前で呼ぶんだからね」
グレイシアは肩をすくめる。
「リオはもうお父様の息子。そして、私の弟だ」
「弟って言っても、誕生日は五日しか違わないじゃないか」
「五日でも年上は私だからな」
グレイシアは声を上げて笑った。三年経っても、グレイシアの男勝りな性格は変わらない。容姿は益々綺麗になってきたが、長い髪以外、彼女の女らしい部分はどこにも見あたらない。男装していれば、少年にしか見えないだろう。
リオは、ドレスで着飾ったグレイシアの方が好きだが、彼女は最近ドレスを着なくなった。『窮屈なドレスで体を締め付けられるのはまっぴら。ドレスを着ると自由まで奪われてしまうみたいだ』と、グレイシアはいつも言っている。
「僕達の誕生日も、もうすぐだね」
「あぁ」
グレイシアは目を細め、丘の上から遠い地平線を見つめる。
「お父様、誕生日には帰って来て下さるといいな……」
後二週間で、グレイシアは十三才になる。イグネイシャは半年前に家を出て、一月前には戻って来る予定になっていたのだが、帰りが遅れるという手紙が届いていた。イグネイシャが家を空けるのはいつものことだ。一年近く家に帰って来ないこともある。
だが、今まで一度もグレイシアの誕生日に戻って来ないことはなかった。
「帰って来てくださるよ。君に素晴らしいプレゼントを持って」
「そうだな」
グレイシアは微笑む。
「けど、ここ数年、お父様はお忙しそうだ……」
三年前、アイネスの国王に呼び出しを受けて以来、以前にも増して、イグネイシャが家を空けることが多くなった。家に帰った時は陽気に明るく振る舞っているが、時折顔をくもらせ疲れた様子を見せることがあった。そのことを、グレイシアは心配していた。
「私がお父様のお役に立てればいいのだけれど」
グレイシアは呟くように言うと、フッと笑ってリオに顔を向ける。
「リオ、馬で競走しよう!」
言うが早いか、グレイシアはリリーの元に走りより、軽やかに馬に飛び乗った。
「リオの乗馬が上手いからと言っても、私のリリーにはかなわない」
「そんなことないよ。リンドの方が走るのが速いからね」
「ぐずぐずしないで、早くおいで」
リオが馬に乗るより早く、もうグレイシアは駆けだしていた。
「あっ、待って! ズルイぞ!」
リオは慌ててリンドにまたがる。爽やかな風が草原を走る。三年前、イグネイシャとグレイシアと馬で遠出に出たのが昨日のことのように思い出される。馬にさえ乗ったことがなかった自分に高価な馬を買いあたえてくれたイグネイシャ。
あの日と同じように、草原には温かな日が照り、穏やかな風が吹き抜けている。
ただ、あの日と違うのは──リオは丘の上に目を向ける。
「今年はまだ白百合が咲かない……」
白百合が咲かないのは、去年より温かい日が続いているから、とグレイシアは言った。だが、リオはずっと気になっている。
──白百合の花は平和の証し。天使たちがそこにいることを告げているのよ。
リオの母親の言葉が思い出される。白百合の花が咲かないのは、不吉な証しではないだろうか? リオは不安に思っていた。
「リオー! 置いてくよ!」
丘の向こうでグレイシアの声がする。リオは白百合の花のない丘から目をそらし、リンドの腹を軽く蹴って丘を駆け下りて行った。