第二十八話 大海原を超えて
「ハッ、ハクション!」
彼は自分のくしゃみに驚いて目を覚ました。辺りは薄暗く、凍えそうなくらい寒い。彼は静かな波の音と潮の香りで、ようやく船で眠っていたことに気付いた。身体は小さく揺れ、ギィギィと船の軋む音がする。
「さすがにまだ、甲板で寝るには寒いな……」
彼は薄っぺらい毛布をしっかりと被り、空を見上げた。夜明け前の空には、無数の星が煌めいている。広い海から眺める星空は、宝石箱のように美しかった。
「豪華客船ではないのが、玉にきずだけど……これからの事を考えると贅沢も出来ないか」
彼は寒さに震えつつ、もう一度くしゃみをした。
彼の名前は、ジョシュア・ディアス。昨日、『勇隼騎士団』を脱走し、一日近く船に揺られている。騎士団の彼のベッドにグレイシャスが眠り、彼女が彼の置き忘れた手紙に興味を示しているとは、考えもしなかった。
「セント・フェローの港に着いて昼頃にはクランガンに着けそうだな。それまで一眠りするか……」
彼は小さく欠伸をし、目を閉じる。
「騎士団の連中も、もう私のことは諦めただろう」
毛布にくるまり、ジョシュアはもう一度深い眠りに落ちていった。
彼が再び目覚めた時、夜は明けて空の星は消えていた。陽は既に昇っているようだが、空は厚い雲に覆われ明るい光りは届いていない。夜の寒さ程ではないが、肌寒い風が吹いている。
「やけに揺れるな……」
立ち上がったジョシュアは、船が傾いた拍子によろめいた。波は高くなり、船は左右に大きく揺れ始める。
「船室に戻った方が良さそうだ」
高い波が甲板にかかり、大きく水しぶきがあがる。波しぶきでびしょ濡れになる前に、ジョシュアは甲板から降りようとした。その時、船室に続く階段から誰かが甲板に上がって来た。手すりを持ち、よろめきながら歩いて来る。それは、まだ顔にあどけなさの残る少女だった。縮れた長い髪とドレスの裾を強い風にはためかせながら、どうにか甲板に上って来た。彼女の顔は血の気が失せたかのように真っ白だ。
と、また高い波が船を襲い、船は大きく傾く。少女は声にならない悲鳴を上げると、そのまま床に倒れる。そして、そのまま斜めになった床を滑っていく。彼女は、ちょうど手すりにしがみついていたジョシュアの元へたどり着いた。ジョシュアはとっさに身を挺し、なんとか体で彼女を受けとめた。
「無茶なことを。早く船室に戻らないと、海に投げ出されてしまう」
「気分が悪くて外の空気を吸いに来たのよ。あんな臭くて湿っぽい船室にいるよりは、ここの方がマシだわ」
青い顔をしながらも、彼女は語気を強めて言い張る。ジョシュアは肩をすくめた。
「私は海に落ちたくないんでね。船室に戻らせてもらうよ」
ジョシュアは足を踏ん張り立ち上がろうとする。と、それと同時に今度は反対側に船が傾き始める。少女は弱々しく悲鳴を上げながら、必死でジョシュアにしがみついた。彼は滑らないよう手すりを掴むが、船の傾きが大きく、少女と共に反対側まで流されていく。
「あぁっ!」
大声を上げ体ごと手すりにぶつかったが、どうにか船外には放り出されなかった。だが、ホッとするのもつかの間、また大波が船を襲い反対側に傾き始める。
「あぁっ!」
結局、高波がおさまるまで、ジョシュアは少女と共に甲板を右へ左へと何度も転がされるはめになった。全身を手すりに打ち付けられ、ジョシュアの体は痣だらけになってしまったことだろう。
「全く、酷い目にあったもんだ。海に落ちなかったのが奇跡だな……」
ようやく波がおさまり、雲の切れ間から覗く青空を眺めながら、ジョシュアは呟いた。船が転覆しそうな程荒れていた海は、嘘のように穏やかに凪いでいる。腰をさすり彼は立ち上がる。傍らには少女が座り込んでいた。
「ありがとう。あなたのお陰で船酔いもおさまったわ」
彼女はジョシュアを見上げ、悪びれもせずニコリと笑う。ジョシュアは舌打ちして少女も見下ろすが、屈託ない彼女の無邪気な笑顔に口元を弛める。
「船酔いを気にするより、自分の命を気にするべきだよ。私がクッション代わりに君を守ったお陰で、君は無傷で済んだようだけど」
「淑女を守のは騎士のつとめよ。あなた騎士でしょ?」
少女はスッと立ち上がりジョシュアを見つめる。
「うーん、正確には騎士になるはずだった、というのが正しいな」
「面白いわね。私はシェリー・クレール。セント・フェローの港の居酒屋で働いてるの。このお礼にタダで御馳走するわ」
シェリーという少女はクスリと笑った。
「私はジョシュア・ディアス。そりゃ魅力的な話だね。ありがたくお受けするよ」
ジョシュアはニコリと笑い、騎士のように片手を胸に当てひざまずいてシェリーに一礼した。
一月半ぶりくらいの更新です…。なんとか七月中に更新出来ました。内容は考えていたんですが、なかなか時間がとれませんでした。
ちょっと停滞気味だったので、ガラリと視点を変えて書いてみました。ジョシュアなんて、本当は登場予定のなかったキャラです。成りゆきで登場しましたが、結構キーパーソンになりそうです。
これからも更新は不定期ですが、気長にお付き合いしてくださると嬉しいです。