第十四話 置き手紙
部屋に置かれた浴槽のお湯に浸かり、リオは知らぬ間にウトウトと居眠りをしていた。ネリーの入れたお湯はちょうど良い温かさで、浴槽には薔薇の花びらまで浮かばせていた。疲れ切った身体に、湯の温もりと仄かに香る薔薇の香りは、自然と眠気をさそう。
と、静かな室内に、突然、バタンッ! という大きな音が響いた。気持ち良く夢の世界を彷徨っていたリオは、その衝撃で湯に顔をつけ、驚いて目を覚ました。扉の開いた音に続き、荒々しい靴音が近づいてくる。
「……グレイシア!」
リオが顔を向けた先には、グレイシャスが肩を怒らせて立っていた。耳の先まで赤くし、肩で荒い息をしている。
「私はグレイシアじゃない。グレイシャスだ!」
とっさに湯から立ち上がろうとしたリオは、自分が裸であることに気付き、慌てて側に置いていたタオルを掴んだ。
「そんな事より、いきなり部屋に入って来るなよ! 僕は今入浴中なんだからな」
「リオが風呂に入ろうと入ってなかろうと、どうでも良い。私は男なんだから、気にする必要はないはずだ!」
グレイシャスはツカツカと浴槽まで歩いて来て、リオは思わず身を引く。
「気にするさ! 男装してたって君は女なんだから。僕は君が女だってことを知ってる訳だし、君のことを男だと思おうとしても……」
言い返そうとして、リオは急に口ごもる。浴槽の縁に手をかけ、じっとリオを見つめるグレイシャスの青い瞳が見る見る曇り、潤んでいく。
「やはり、私は男に見えないか……? 男として騎士にはなれないんだろうか……」
グレイシャスは肩を落とすと、瞳を伏せた。
「どうしたんだよ、グレイシャス? 何かあった?」
「……何でもない」
フーッと重い息を吐くと、グレイシャスはゆっくりと立ち上がった。
「宿屋の人達は君のことを男の騎士だと信じ切っているし、僕も本当のことを知らなければ、間違いなく君のことを男だと信じるよ」
「外見だけが男ではダメなんだ」
グレイシャスはリオに背を向けると呟く。
「内面も男になり切らなくては……。リオも私のことを男と見なしてくれなければいけないよ。リオはまだまだ子供で甘いからな」
グレイシャスはそう言うと、また足音を響かせてと部屋を横切り、乱暴に扉を開けて出ていった。
「何だよ、言いたいことだけ言って……」
リオはその様子を黙って見守りながら、軽くため息をついた。心地よい眠気はもう完全に吹き飛んでいる。
「グレイシャスは充分男として通用するよ。男以上に乱暴だし……」
「グレイシャス、どうかした?」
夕食のテーブルについた後、キョロキョロと落ち着きなく辺りを見回しているグレイシャスに、リオは声をかけた。
「別に何も」
彼女は正面を向くと、素っ気なく答える。
「そう? 散歩から帰ってずっと機嫌が悪いみたいだね」
「何でもない」
グレイシャスはリオを睨み、テーブルに置かれたグラスを掴むと、その水を一気に飲み干す。
「グレイシャスは分かりやすいな。心が直ぐに態度に現れるんだからね」
リオがクスッと笑い、グレイシャスはグラスを乱暴にテーブルに置いた。イライラしてリオに八つ当たりしているのは、グレイシャスにも分かっている。初対面のエリヤという騎士に女であることを見破られ、剣術の差も見せつけられた。もし、あの時エリヤと剣を交えていたら、グレイシャスは一撃で打ちのめされていただろう。
悔しい気持ちと自分の実力のなさを見せつけられて、グレイシャスはひどく動揺していた。その心の乱れを隠そうとすればするほど、苛立ちがつのっていく。
「お待たせしました。『赤煉瓦』特製の手料理です」
しばらくして、ネリーがトレイに温かい料理をのせて、テーブルに歩いて来た。
「わぁ、良い香り。美味しそうだね」
空腹のリオは料理に目を奪われて、感嘆する。
「はい、『赤煉瓦』自慢の料理ですから。どうぞ、熱いうちにお召し上がり下さい」
料理をテーブルに置き、ネリーはペコリと頭を下げる。
「ネリー」
立ち去ろうとした彼女をグレイシャスは呼びとめる。
「はい! グレイシャス様、何でしょう」
声をかけられ、ネリーは嬉しそうな笑顔を向ける。
「あの……あの騎士は何処に行った?」
戸惑い気味に、グレイシャスは尋ねる。
「あの騎士? あ、エリヤ様のことですか?」
「あぁ……」
「街までお食事に出られました。賑やかな所でお酒が飲みたいと言われて」
「フン、それなら街の宿に泊まればいいのに」
口を尖らせて言いながらも、グレイシャスは内心ホッと安心する。
「はい……?」
ネリーが小首を傾げ、グレイシャスは軽く咳払いし続ける。
「彼は明日出発するのか?」
「はい、そのように伺いましたが。何か?」
「いや、何でもない。ありがとう」
「エリヤ様って誰だい?」
ネリーが下がった後、リオは美味しそうに料理を頬張りながら聞いた。
「無礼な下級騎士だ」
「え……?」
「リオ、明日は夜明け前に出発する。寝坊しないようにな」
「夜明け前? そんなに早く出発しなくても、キルテアには昼前には到着出来るよ」
リオはそう言うが、グレイシャスは、リオには目もくれず黙々と料理を食べ始めた。リオはその様子を見て肩をすくめる。何があったか分からないが、グレイシャスの決心は固いようだ。反対しても、もう聞く耳はもたないだろう。
「グレイシャス! グレイシャス!」
心地よい眠りの中に浸っていたグレイシャスは、突然身体を揺さぶられ、現実の世界に引き戻された。
「何だ……?」
グレイシャスは重い目を開け、小さく呻きながら起きあがる。
「いい加減起きろよ。夜明け前に出発する予定じゃなかったのかい?」
ようやく身を起こしたグレイシャスに、呆れ顔でリオは言った。
「え……?」
窓に目を向けると、夜は既に明けて外は明るくなっていた。窓から差し込んでくる光りに、グレイシャスは眩しそうに目を細める。
「今何時?」
「もう七時半だよ」
「何でもっと早く起こしてくれないんだ!」
グレイシャスは慌ててベッドから飛び起きる。
「何度か起こそうとしたんだけどね、君がとても気持ち良さそうに眠っているものだから、起こしそびれたんだよ」
リオはわざとらしくそう言うと笑った。
「すっかり寝過ごしてしまったじゃないか……」
グレイシャスは不満顔で呟く。早起きしようと思っていたのだが、グレイシャスも昨夜は心身共にかなり疲れていたらしい。ぐっすりと眠り込んでしまったようだ。
「先に下に降りておくよ。もう食事の準備は出来ているみたいだからね」
髪に寝癖をつけ、むくれた顔をしたグレイシャスにリオは言った。
扉を開けて外に出たリオは、部屋の扉に小さな紙切れが貼り付けてあるのに気付く。
『グレイシャス、一足先に旅立つことにする。もう一度君に会える日が来るならば、君が美しい淑女になっていることを期待しよう。良き旅を。エリヤ』
「……?」
リオは、その短い手紙を扉から剥がした。昨日からグレイシャスを苛立たせている原因は、このエリヤという騎士のせいなのだろう。どうやら彼は、グレイシャスが女であることに気付いたようだ。グレイシャスに手紙を見せれば、彼女の怒りがまた爆発してしまいそうだ。リオは、手紙をたたんで懐にしまった。
「エリヤ……」
リオとは一度も顔を合わすことがなかったが、ほんの短い間にグレイシャスの心をかき乱した彼のことが何故か気になった。彼にはいつかまた会う日が来るのではないだろうか? 何の根拠もないがリオはそう感じとり、彼の名を胸に刻んだ。
この物語はもちろんフィクションで、架空の時代の架空の国の出来事を、私の想像出来る範囲で書いてます。^^; 西洋の中世風ではありますが、実在の世界を描いている訳ではないので、矛盾点は山ほどあります。これからもたくさん出てくるでしょう〜
その点は目を瞑ってご了承下さい。