フランシス(こんとらくと・きりんぐ)
ショートヘアの少女、あるいは長髪の少年に見える殺し屋はホテルの二階でチョッキの上からショルダーホルスターをかけていた。ホルスターには銃の代わりに小さなスローイングダガーが三本刺さっていて、両方の袖口には二本のナイフが鞘に納まっている。どれも小さいナイフだったから、上着を羽織ったらすっかり見えなくなる。不審な盛り上がりも見られない。
「完璧」
殺し屋は満足して、部屋を出た。
ホテルから出ると、夏の日差しにひねりつぶされかけた。
汗が首筋に滲む。町は騒がしかった。
海軍街から行進曲が聞こえてくる。棕櫚の樹が葉を風に揺らしている。ワイシャツにカンカン帽姿の男たちはカフェに集まり、手にした号外を叩きながら何かを言い争っている。噴水のある広場ではスパイクつきヘルメットをかぶった退役軍人が口から泡を吹く勢いで何かを論じていた。周りには労働者が集まり、そうだそうだと退役軍人を囃し立てていた。
殺し屋は腕時計に目を落とした。三時半。約束の時間に十五分遅刻だ。
それでも、と殺し屋は思う。フランシスは気にしないだろう。
待ち合わせ場所へ向かう。路面電車の線路に沿って、旧市街へ。広告塔で右に曲がり、左に見える三軒目の建物の地下に目指す店があった。
その建物は一回が倉庫になっていて、倉庫の両開き扉の脇に緑色に塗ったドアがある。殺し屋はドアを開け、せまい階段を降りた。
店内は薄暗く、煙が充満していた。揚げた豚の匂いがする。殺し屋はざっと目を配った。自分が入ってきたドア以外に出入り口はない。どこかの馬鹿がこの位置から火炎瓶を投げ込んだら調理場に非常口がない限り、全員が焼け死ぬ。
そんな意地の悪い想像をしていると壁の隅の席でフランシスが見つかった。相手もすぐに殺し屋に気づき、にこりと笑った。
「やあ、フランシス」
「やあ」
「しばらく会ってなかったね」
「そうだな。まあ、座れよ」
殺し屋は席についた。テーブルの上には食べかけのオックステールの煮込みとフライドポテト、それに水のように澄み切った火酒が一瓶。瓶は中身が半分以上なくなっていた。
「遅れてすまなかったね」殺し屋は言った。
「気にするなよ。おれも時間ぴったりには来れなかった。三十分も前についちまったんだ。なんか注文しなくていいのか?」
殺し屋は給仕を呼び、ポテトとポークチョップ、それにビールを注文した。
フランシスは伸びをしながら、あくびもした。前よりだらしがなくなったな。殺し屋は思った。以前のフランシスは身なりに隙がなかった。爪にマニキュアをしていたほどだった。いまでは顎に無精ひげが目立ち、顔の肉もだいぶ弛んできている。ひどいのは真っ赤に充血した目だった。
「上じゃ、まだ」フランシスが言った。「馬鹿どもが騒いでるのか?」
「つまり?」
「戦争だよ。今日から始まった。あいつら、お国のために張り切ってただろ?」
「そのようだね」
「馬鹿どもめ。馬鹿が寄り集まって、馬鹿な知恵を寄せ集め、馬鹿なことをしでかす。馬鹿の尻拭いは馬鹿自身にやらせればいいんだ」
フランシスは懐から一枚の紙切れを出した。徴兵通知だ。
「今日これが届いた。このフランシスさまが兵隊になるんだってよ。一度だって戦争に賛成したことのないこのおれが兵隊にされるんだよ。クソ素晴らしい。おれは作家だ。劇作家だ。劇のための台本を書き、大根役者のケツを蹴飛ばして、劇を仕上げるのがおれの仕事だ。くそっ。そのおれが兵隊だなんて」
フランシスはがっくり頭を垂れた。
「そこでお前に質問なんだがな」フランシスは続けた。「銃を撃つってのは難しいのか?」
殺し屋は答えた。「ただ撃つだけなら簡単だよ。当てるとなると少し面倒だけどね。まあ、距離と的の大きさによる」
「おれはこれから人間を撃つんだ」
殺し屋の注文を運んできた給仕がぎょっとした。殺し屋はテーブルの上に放り出された徴兵通知を指差した。給仕は納得して神妙な顔でさがった。
フランシスは火酒をグラスに注ぎながら続けた。「距離は、そうだな、遠ければ遠いほどいい。反撃されたくないからな。できるだけ遠くから撃ち殺して、とっとと安全な場所にトンズラしたい。死ぬのはごめんだ」
「となると、狙撃兵志願だね」殺し屋は言った。「フランシス、両手を前に出してみてくれないか」
「どうして?」
「適性を見たい」
フランシスは言われたとおりにした。差し出された手は黒ずみ、小刻みに震えていた。
「フランシス」殺し屋は残念そうに言った。「君は狙撃兵向きじゃない。おそらく軍当局もそう思うだろう。酒が過ぎたんだ」
「まあ、そんなこったろうと思ったよ」フランシスはグラスをあおった。「君が食い終わったら店を変えよう。いい店を知ってるんだ」
三十分後、二人は路上にいた。
空はピンク色に染まり、風は止んでいた。
町は薄暗くなり、街灯が点り始めていた。
相変わらず男たちはカフェや広告塔のまわりに集まって激論を戦わせていた。
二人は皇太子記念通りを南に下り、港のほうへ出た。
港沿いの倉庫を改造した店がフランシスのいうおすすめの店だった。
店の入口には釘からゴムでつくったネズミの模造品がぶら下がっていた。フランシスはその扉を二度叩いてから、間をおいて一度叩いた。
すぐ錠を開ける音が聞こえ、二人は中に案内された。
中には大きな柵囲いがあり、そのまわりを男たちが集まって怒鳴りながら帽子をまわし、賭け札と紙幣を入れていた。
殺し屋とフランシスは最前列に割り込んだ。ストップウォッチを持った男が山高帽をかぶった年寄りに何か言うと、年寄りはもぞもぞ動く大きな袋を抱えて柵の中に入っていく。
老人は袋を開いて柵の中にぶちまけた。
ネズミだ。
何十匹ものネズミ。
その灰色の小さな生き物たちは突然光の当たる場所に放り出されたことで明らかに混乱していた。ネズミたちは柵の中を四方八方走り回った。
老人が柵から這い上がると、入れ違いにテリア犬が柵の中に放り込まれた。
「さあ、ショーの始まりだ」フランシスはうきうきして言った。
殺し屋もショーを見た。犬は足が地面につくや否や走り、一番太ったネズミに飛びかかり、噛みついた。
犬は首を左右にふり、ネズミを地面に叩きつけた。テリア犬は明らかに訓練されていた。死んだネズミには見向きもせず、生きたネズミだけを狙った。
テリア犬は灰色の小さな生き物たちを食いちぎり、噛み砕き、切り裂いた。ネズミたちは恐慌をきたし、柵の四隅を登り始めるが、あらかじめ打たれていたネズミ返しの板に弾き返され、地べたに落ちる。それでもネズミたちは諦めずに登ろうとする。押し合いへし合い重なり合ううちに柵の四隅には逃げようとするネズミのピラミッドが出来上がった。
テリア犬はそこに突っ込んで、殺戮を続ける。小さなネズミの手足がちぎれ、血が飛び散ると犬も観客も興奮した。フランシスも同様だった。
「殺っちまえ!」彼は叫んだ。「殺せ! 殺せ! ぶっ殺せ! 一匹残らず殺しちまえ!」
五分四十七秒で勝負はついた。五十匹のネズミは全滅し、六分以内に勝負が決まるほうに賭けた連中に金が払い戻された。
フランシスも五分以上六分以内に皆殺しにされるほうに賭けていた。
二人は店を出た。フランシスはすっかり落ち着いていた。
フランシスは下宿の前で殺し屋に別れの挨拶を送った。足を引いてきれいにお辞儀をしてみせた。
「明日からは兵舎暮らしだ。このしみったれた下宿ともおさらばだよ」
フランシスが玄関に消えると、殺し屋はホテルへ帰るために棕櫚の樹通りを一人で歩いた。
蒸し暑い夜だった。
海軍街からはまだ行進曲が聞こえていた。