第4章 侵攻・ダメ・絶対
【8】
朝日が木々のすきまから差し込み、きれいな光の縞模様を作り出していた。
その木漏れ日の中に、小さな社がひっそりと建っていた。狛犬の代わりに置かれているのはキツネの石像だ。
ここは“キツネ様”を祀っている社なのだ。
キツネは人を惑わす、人を化かすという。それが忍者と相通ずるとされ、古より川猪衆はキツネを守り神として崇めてきたのだ。
その社の前で3人の少女が静かに手をあわせていた。
3人が身につけているのは、一昨日父に着せてもらった赤と黒の、あの異国の服だ。
唯一変わったのは、胸から腹にかけて、身を守るための簡易的な胴丸が――うろこ状になった丈夫な革と、薄い金属箔でできている――付けられていることだった。
着替えるヒマがなかったわけではない。ただ脱ぎたくなかったのだ。父がわざわざ取り寄せてくれた服だから。女の子らしい可愛い格好をするのは、これで最後になるかもしれないから。
――キツネ様。どうか私たちと里のみんなに武運を。
明日香は一心に祈る。
――大勢の敵を前にして、火錬の姫らしく堂々と振舞えますように。どうか足が震えませんように。どうか大きな声が……出せますように。
明日香も雪も桃も、忍者としての訓練をうけている過程で、小競り合い程度の戦闘は何度か経験していた。
近隣の村を襲った野盗の集団と戦ったこともある。
だがこんなに大きな戦いは初めてだ。その上、明日香は川猪衆全軍の総大将なのだ。その細い身体にかかる重圧は、どれほどのものか……。
――でも、やるしかない。逃げるわけにはいかないのだから。
祈りを終えて隣に目をやると、雪が手のひらに『人』という字を書いて飲み込む仕草をしていた。つい笑みがこぼれる。
「さあ、行きましょう。私たちが命を懸ける場所へ――」
3人は仲良く手をつなぎ、曽似川にむかって歩きはじめた。
【9】
国境にそって流れる川、曽似川。
戦場となる地は、山中にもかかわらず広大な河原と中州があり、その一帯は“曽似洲(そにす)”と呼ばれている。流れはこの時期、くるぶしまでの深さしかない。
7月5日午前6時。川猪軍と王堂軍は、川をはさんで陣を敷き、対峙した。
王堂軍は足軽、傭兵を含めた戦闘要員、約6000人。対する川猪軍はおよそ300人。戦える里の男たちを総動員して、ようやくその人数だった。
「おやおや、なんとも大した眺めではないですか」
川猪軍の軍勢を見た兵斗刑部は、楽しくてたまらぬといった様子で、大げさに驚いてみせた。わざわざ隊列の前に出て、大声でわめきたてる。
「見てごらんなさい、やつらの隊列を。横一列に並んでいるでしょう? いやはや驚いた。“Wall of Death”ですよ! やつらは大それたことに、この我らを“Wall of Death”で迎え撃つ気なのです。あの少人数で!」
ここで兵斗はいったん言葉をきり、囃し立てよというふうに、背後の足軽たちを煽る。
足軽たちは調子にのり、ここぞとばかりに川猪軍にむけて野次と嘲笑をあびせる。兵斗はさらに声を張り上げる。
「20分の1! 20分の1の兵力で“Wall of Death”ぅ? 笑わせる。話になりませんね。正気の沙汰ではありません。ネズミごときが虎に戦いを挑むなどと――」
その時。川猪軍の背後に広がる森の中で何か動いたのが、兵斗の視界に入った。足軽たちもそれに気づき、囃し立てる嘲りの声がとまる。
なんだ? なにが出てきている――? 兵斗は目をこらした。
森の中からゆっくりと姿を見せたのは、戦支度をした足軽らしき兵だった。
1人だけではなかった。その後ろからさらに続く。何人も何人も。
あきらかに川猪衆ではない。どう見ても農民にしか見えない男もいる。武将クラスの鋼人と思われる者もいる。
そういった見た目も素性もバラバラの男たちが、続々と森の中から現れ、川猪の隊列に加わってゆく。
「な……なんだ、やつらは……?」
“盟徒(めいと)”と“父兄(ふけい)”。彼らはそう呼ばれる。
川猪の里が危機に見舞われたとき、彼らは駆けつける。
今は亡き火錬家の当主、火錬正義の人柄を慕う者。正義に恩をうけた者。里の者たちに親切にされた者。命を救われた者。
近隣の農民から傭兵、野盗、物乞い、サンカに至るまで、さまざまな素性の男たち。
火錬家と明確な主従関係は持たないが、何かあればその力を惜しみなく貸す。それが盟徒だ。
そして父兄とは、桜岳院から子供を養女として引き取った家の、文字通り父兄である。
彼らは桜岳院の熱心な支持者であり、院の危機を黙って見過ごすことなど決してない。
彼らが加わったことで、川猪軍の総数はおよそ1000人ほどに膨れ上がった。
王堂軍の足軽たちに、わずかな動揺が走る。
目の前で敵がみるみる増えていく様を見せつけられたのだ。不安になって当然である。
それを察した兵斗は、苛立ったように声を張りあげた。
「何をうろたえているのです! 相手の心理作戦に乗るんじゃありません。向こうの思う壺ですよ。よく考えなさい。兵数はまだこちらのほうが圧倒的に多いのです。6倍も多いのですよ!」
そう一気にまくし立てた後、兵斗はもとの酷薄そうな顔つきにもどり、吐き捨てるようにつぶやいた。
「ふん……忍者ごときが、この場に出てきたことだけはほめてやる。何をたくらんでいるのかは知らんが……どんなことを仕掛けてこようと、我らはその上をゆく。鋼人に歯向かうことの愚かさを、教えてやるわ……」
兵斗は副将たちに指示を出し、自軍の陣形を改めさせた。それは川猪軍と同様に、横一列の隊列が幾重にも重なったものだった。
王堂軍も“Wall of Death”を受けて立ったのだ。
【10】
川猪軍の古参である宇佐は、相手が“Wall of Death”の陣形をとったのを見て、ひとまず胸をなでおろした。
――古旗殿の言われたとおりだ。傲慢な相手ほど、こちらの挑発に乗ってくるわい。
あとは明日香様にすべてを託して、我らは力の限り暴れまわるだけだ。
宇佐は先ほどから武者震いが止まらなかった。まわりの川猪衆も、盟徒、父兄たちも皆同じであろう。
6倍の兵力が何ほどのものか。1人が6人屠ればすむことだ。
両軍の緊張が、限界に近づいてゆく。ピリつく空気の中、ふくれあがった静寂を破ったのは、王堂軍から上がった鬨の声だった。
あたりを圧する地響きのようなウォークライ。
川猪の里の命運をかけた決戦の幕が――切って落とされたのだ。
来る。王堂軍の人の壁が押し寄せてくる。
宇佐たちはほとばしる気合を懸命に押さえつけ、自軍の号令を待った。
だが、王堂軍は声をあげるだけで、動こうとはしなかった。そのかわり、隊列の中央が大きく横に割れた。
次の瞬間、その開口部から烈風のごとく黒い巨大な塊が飛び出してきた。
「重装甲騎馬隊だ――――ッ!」「騎馬隊が出たぞぉお――――!」
川猪軍がどよめく。敵には素直に“Wall of Death”を受けてたつつもりなど、最初からなかったのだ。
緒戦に主力の騎馬隊を投入し、一列に整列している川猪軍を蹴散らし、一気に戦いの趨勢を決するつもりなのだ。
くさび形に展開し、怒涛のごとく川猪軍に殺到する重装甲騎馬隊。
鎧袖一触、触れるものすべてを粉砕する、黒い鋼の殺戮者――。
丘の上の本陣から、その光景を見つめていた兵斗は、狂喜し叫ぶ。
「忍者どもめが、まんまと裏をかかれおったわ! そっちの戦法につきあってやる義理などないのだよ、バカめが! わが騎馬隊に蹴散らされるがいい! ふははははははは!」
兵斗のその高笑いが、途中で凍りついた。
川猪軍の隊列も、その中央が大きく横に割れたのだ。それはまさに、突進してくる騎馬隊の真正面であった。
「なに――――?」
兵斗はあわてて異国の望遠鏡を取り出し、その隊列の開口部の奥をのぞく。
そこには――黒と赤の衣装を着た3人の少女が立っていた。
【11】
敵はしょっぱなに重装甲騎馬隊を繰り出してきた。なにもかも軍師・古旗殿の想定通りだ。
あとは……あとは火錬の姫、明日香様にすべてがかかっている。
宇佐は祈るような思いで、2つに割れた隊列の中央に立つ少女を見つめた。
明日香は、道をあけよ、とばかりに両手を大きく前から横に広げ、自分の前の人払いをうながしていた。
いよいよだ。いよいよ目の当たりにすることになる。宇佐は息をのむ。
川猪の里に、火錬家の女系に、代々伝わる可倭威流忍術の奥義。
咆(ほう)――――。
古参の宇佐でさえ、その“咆”という奥義を見たことがない。
火錬の直系である明日香は、幼い頃から特別に訓練を受けてきたはずだが、宇佐は正直、今このときまで不安だった。
そんな古の奥義とやらを、まだ少女の明日香が成せるのか、と。
だが今、この場に立ち、明日香をこの目で見て――その不安は消し飛んだ。
なんという目。なんという凛々しい顔で、押し寄せる敵を睨みすえているのか。これが……これが子供たちにポンコツとからかわれている姫か……?
宇佐の心は震えた。
――やれる……。この娘ならきっとやり遂げる……。
明日香は、得体のしれない熱い塊が、自分の胸の中でどんどん大きくなっているのを感じていた。
これは……怒りだ。
卑劣な手段でわが父が殺されたことに対する怒り。
なんの躊躇もなく、一方的に他者を蹂躙する者たちに対する怒り。
われらは新たな鋼人であるという信念を嘲笑し、理由もなく蔑む者たちに対する怒り。
胸の奥の熱い塊は、今にも喉から飛び出しほとばしりそうだ。
明日香は、この命を懸けた戦場で、こんな気持ちになれる自分に驚いていた。
左右に目をやる。雪も、桃も、うなずいてくれた。
明日香は視線をもどし、突進してくる騎馬隊を睨みつける。
ねじ伏せる。
自分の力で……自分の声で……目の前の敵を――ねじ伏せてやる……!
受けてみよ。これが私の渾身。私の全身全霊。可倭威流奥義!
絶対火錬咆(ぜったいかれんほう)――――!
大きく息を吸い、明日香は、真正面から突っ込んでくる黒い鋼の騎馬隊にむけて――声を放った。
刹那、周囲の川猪衆たちは、澄んだ歌声を聞いた気がした。
次の瞬間、強い指向性をもった超振動の壁が――彼らの横を音速で疾りぬけていった。
【12】
騎乗の重装鋼人たちは、何か目に見えない壁が、自分たちにぶつかってきたことだけは感じとれた。
「――――?」
最初はそれだけだった。重装鋼人たちは皆、鼻で笑った。
ふん、何かおかしなことを仕掛けてきたかと思ったが、なんだこの程度の――
と、ここでかすかな異変に気づく。
着込んだ鋼の鎧が……わずかに振動している……?
その振動は次第に大きくなる。馬に装着している鎧も、自分たちが着ている鎧も、はっきりと感じられるほどに強く大きく震えはじめていた。
「な……なんだこれは――――!」
今や彼らを覆っている鎧は強烈な振動をおこしていた。
そんなものの中にある生身の肉体は――人も、馬も――たまったものではない。決して耐えられない。
馬上の重装鋼人たちは、絶叫しながら次々と転げ落ち、はじけ飛んだ。馬たちも狂ったように暴れ、つんのめるように倒れこんでいった。
物質には、その物質特有の“固有振動数”というものがある。
その振動数で共振させることで、巨大な建造物さえ破壊することができる。
“咆”という可倭威流の奥義は、その固有振動数を自らの喉で再現し、発することができる術なのである。
戦国最強と謳われた王堂軍の重装甲騎馬隊200騎は、ほんの数秒で壊滅した。
あまりのことに兵斗は、目の前で起きたことを受け入れられないでいた。
「そんな……バカな……。そんな……そんな……」
彼は呆然と同じ言葉を繰り返していた。
今見たことが信じられないのは、川猪衆たちも同じだった。
「すげぇ……これが……これが絶対火錬咆……」
誰かのつぶやきで宇佐は、里に古くから伝わっている詞を、ふと思い出した。
「至極に達す 無敵の威力 まさに上々なり
絶対火錬 ゆえに不敗 明日へいざ行かん……」
ここでようやく我に返った宇佐は、ぼんやりと立ち尽くしている明日香に、大声で呼びかけた。
「姫さま! 明日香様! 号令を。全軍に号令を!」
この声で明日香も我に返ったらしい。宇佐と目をあわせると、大きくひとつうなずいた。そして右手を振り上げると、決然として叫んだ。
「猛襲!」
川猪軍はこの号令に即座に反応した。
「猛襲!」「猛襲ッッ!」「モ―――――――ッッシュ!」
全員が口々にそう叫びながら、はじかれたように飛び出し、王堂の隊列へと殺到していく。
目の前で、主力である重装甲騎馬隊のあまりにもあっけない壊滅を見て、完全に気勢をそがれたはずの王堂軍だったが、さすがに機敏に反応し、迎撃を開始した。
圧倒的な数の人間の壁が、川猪軍にむけて突進していく。
曽似洲の中央で両軍は激突した。
【13】
人々の怒号が、激突する音が、遠くから地響きのように聞こえてきた。
「ふん……ようやく始まりやがったか」
安地半兵衛(あんち はんべえ)は、面白くもなさそうに、そうつぶやいた。
曽似洲にほど近い険しい山の中。ここはすでに岩城の領内、川猪の里の中である。
安地は王堂軍の別働隊としてやとわれた、緋田国の忍者である。
本来、彼の任務は川猪衆たちが里に立てこもった場合に、後方に回りこみ、やつらを里より追い立てる、というものだった。
川猪衆が曽似洲での合戦を選択した今、その任務は当初の目的とは変わっている。が……やるべきことは同じだった。
川猪の里に侵入し、川猪軍を後方から撹乱するのだ。
「川猪衆……可倭威流忍術……。ふん、名前だけは有名だが、実際どれほどのものだというのだ……」
そんなものより、緋田の忍者のほうが優れているということを見せてやる。
安地率いる7人の忍者たちは、木々の間を驚異的な速さで駆け抜けていった。
彼らの目指す先には――桜岳院があった。
【つづく】