第2章 悪夢の前奏曲
【3】
古旗真鑑(こばた しんがん)は珍しくあせっていた。
傍目にはまったく普段と変わらない様子で、ただ少しばかり早足で廊下を歩いているようにしか見えないかもしれない。だが本人は相当あせっていた。
――やりおったな王堂め。くそ。まさかこんなに素早いとは……。
あの使者め、どうしてくれよう。古旗は怒りに震えながら、王堂の使者との交渉が行われている座敷を急ぎめざしていた。
古旗は火錬家の軍師である。忍者であると同時に、陰陽道の呪術も修得した陰陽師でもある、という変り種だった。
その軍師が敵対勢力の使者との交渉の席を中座することなど、本来ならありえない。だが、その会談の途中で「重大な知らせあり、至急来られたし」という合図が届いたのだ。行かないわけにはいかない。
そしてその斥候からの知らせは、確かに重要、お家の一大事といえるものだった。
王堂軍に動きあり。こちらに向けて進軍開始す。
戦を回避するための交渉、などどよくも言えたものだ。交渉の使者がこちらに到着したころには、王堂の軍勢はすでに進軍を開始していたことになるではないか。
その動きを想定していなかったわけではない……が、まさかこんなに早いとは。向こうが動く時期、その一点だけを読み違えた。軍師としては痛恨の一事だ。
数ヶ月前から王堂側は繰り返し「天宇津道理と手を切り、王堂につけ。王堂の殿のために、川猪の忍術を役立てよ」と要求してきていた。
拒否するなら戦もやむを得ず。そう迫ってきたのだ。
川猪の里は、この地で生まれた“可倭威流忍術(かわいりゅうギミック)”とよばれる技を代々受け継いだ忍者の村である。
“川猪衆(かわいしゅう)”とよばれる里の男たちはすべて忍者であり、事あらばすぐさま戦闘員として戦いに加われるのだ。
以前はどこの勢力にも属さず、要請に応じて川猪衆を派遣し、一時的に自らの力――忍者の技――を貸すにとどまっていた。
だが火錬正義が頭領となってからは、天宇津家と深くよしみを通じ、他家とのつながりを絶った。
『川猪衆はもはや単なる忍者ではない、新たな鋼人である』
正義はそう唱え、技を貸すという今までの形態を捨てた。
天宇津道理は唯一、その主張を認めてくれた大名だったのだ。
以来川猪衆は、天宇津家の家臣ではなく独立した勢力という形を保ったまま、天宇津家のために働き、その見返りとして領地安堵の約束を取りつけていたのだった。
火錬家の、そして川猪衆の総意は決まっていた。
天宇津とは手を切らぬ。それは動かない。だが王堂との戦をよしとしているわけでもない。今回の使者が本当に戦回避の交渉なら、歓迎すべきことだとは思っていたのだが……。
今から思えば、あの使者めはハナからおかしかった。
こちらを軽んずる態度を隠そうともせず、傲慢な言動を繰り返した。あの時は、もしかしたら、こちらを怒らせて斬り殺されることで、開戦の口実をつくろうとしているのか、とも思ったのだが……。
なんのことはない。むこうは交渉する気など最初からなかったのだ。やつはこの里に最後通牒を突きつけに来ただけなのだ。
『忍者ごときが、われら鋼人を相手にして勝ち目があるとでも思っておられるのか?』
あの使者がそう言い放った時、部屋中に恐ろしいほどの殺気が満ちあふれた。あの時、激情のままに斬り殺してやればよかった。
いや、今からでも遅くない。部屋にもどるやいなや、一刀のもとに斬り捨ててやる。くされ鋼人ごときが――――。
小さ刀に手をかけたまま古旗が座敷に踊りこもうとした、その時。
目の前で世界が轟音とともに爆発した。
【4】
明日香は腰から下がまるで他人のもののように感じられた。
力が入らない。とても立っていられない。
今朝まで何事もなくすごしていた自分の屋敷が、その半分が跡形もなくなり、粉々になって飛び散っていた。座敷があったあたりは火につつまれ、ドス黒い煙が立ち昇っていた。
桜岳院の境内で爆発音を聞いてからの記憶があまりない。
遠くに煙があがっていた。そこを目指して走ったはずだ。たどり着いた先が自分の屋敷だったのだ。
なにが起きたのか。いったい何が起きたのか……。
明日香が我に返った時、あたりは消火にかけつけた里の者たちであふれかえっていた。
火はどうにか消し終えたようだ。だがけが人は? 父は無事なのか?
ここでようやく明日香は、自分の両手が誰かの手を握りしめていることに気づいた。ぼんやりと自分の両側に目をやった。
雪と桃だった。2人は何も言わず、黙って明日香の手をにぎり続けていてくれたのだ。
殺気立った喧騒の中、3人の少女たちは微動だにせず、その場に立ちつくしていた。
次第にこの惨事の状況が明らかになってきた。
爆発がおきたのは、王堂の使者との会談が行われていた座敷だったということ。
どうやらその使者が爆薬を隠して持ち込み、自爆したらしいということ。
そして……座敷にいた者――父と重臣たち――は誰も助からず、跡形もなく吹き飛んだのか、遺体も一部しか見つかってない、ということ。
父の死が伝えられ、その事実が頭でなく心に染みこんできた時、固まったままだった明日香の心が、ようやく動きはじめた。
なんとか……しなければ。残された自分たちが、なんとかしなければ……。
だがどうやって? 何を、どう頑張ればいい?
戸板を持ってこい、という大声が瓦礫の向こうから聞こえた。
続いて「古旗様」「古旗どの、しっかりされよ」という声が、次第にこちらに近づいてきた。
古旗真鑑が生きて見つかったのだ。
ひどい怪我で、1人で歩くこともできないが、意識はしっかりとしているという。
古旗を乗せた戸板は、運ばれていく途中で向きを変え、明日香の方へとまっすぐにむかってきた。明日香も思わず走り寄る。
「――――!」
声をかけようとして明日香は絶句した。
古旗はひどい有様だった。
着物はボロボロに引きちぎれ、焼け焦げている。露出した肌は傷だらけであちこち血がにじみ、赤く腫れあがっていた。足は骨折をしているようだ。
耐えきれず目をそむけようとした明日香の腕が、いきなり古旗につかまれた。
「ひ……めさま……」
しぼり出すような低く弱々しい声。だが、その声からは、伝えなければならない、という必死の気迫が伝わってきた。
「魔王の……軍が……くる……。迎え撃つ……のです……。あなたが……皆を率い……て……」
明日香は息をのみ、つかまれた手を引き離そうとした。だが強い力で握り締められた古旗の手は、びくともしなかった。
「こちら……の……とるべき……戦法は……ひとつ……」
気を失う寸前、古旗は軍師として重要な一言を言い残した。
「Wall……of……Death……です」
【つづく】