夕方の図書館
「ねぇ。過去に、まーったく、カスリもしない、恋愛って、あった?」
また、彼女はこんな突拍子もないことを聞いてくる。
「ううん。あったような気もするけど。そっちはどうなの?」
僕は教科書に目を落としたまま、顔の向きも変えないまま聞き返した。
「わたしはね、あったよ。」
彼女の話し方には特長がある。文字にしたら多過ぎるくらいに句点が入る話し方なのだ。動きは特別遅い訳ではないが、話し方だけは時間の流れが違うのかと思うくらいに遅くなる。
この話は終了したのではないかという疑問がわく程の長い間を空けて、彼女はやっと次の言葉を発した。
「一人目は、中学の先輩。部活の、一つ上の先輩で、顔がかっこよかった訳じゃないけど、かっこよかったんだよなあ」
どっちだよ。心の中で突っ込みながら僕の斜め上に位置する彼女の方を見ると、彼女もまたさらに斜め上を見ていた。僕から見た彼女の延長上には沈みゆく夕陽があり、まだ強い光を放っていたから、まぶしくてすぐにそらした。
「そんで、もうひとりはさ、」
長い髪が揺れて、彼女がこっちを向いたのが分かった。考えるよりも早く、そらした目線をまた上に戻した。視線が音を立ててぶつかったような気がして目を閉じた。
鼻先に彼女の細い指。
「秋。あなただよ」
僕は嫌な予感が当たったのを感じながら目を開けた。
「先端恐怖症なんだ。その指よけて」
「知ってる。ごめん」
笑いながら謝って彼女は手を自分の腿の上に置いた。半分はスカートで隠れているけど、もう半分は伸ばせば届く距離に、無防備なままの太ももがある。心から謝る気がないことだけは分かる。
「たった、二人だけだよ。中学のときの先輩と、秋。本当に、ほしいと思って、手に入らなかったのは、秋、あなただけよ」
まっすぐに射るような目つきでこんなことを言う。こうやって彼女はいつも、僕の心を平気で揺さぶっていくのだ。無神経なのか、わざとなのか。
僕はいつも手のひらで転がされている。なのに君は、僕は手に入らないという。どっちが気付いていないのか。気付いていても、知らないふりをしてるだけなのか。彼女には一生かなわない気がする。
僕は心の中で彼女の問に答えた。カスリもしない恋愛なら、ずっとここにある。
その小さな手の中に入ることは出来ない。届く距離にいながら、手を伸ばすことさえ、僕には出来ないのだ。
その時、彼女の鞄の中で微かに振動するものがあった。素早く彼女は振動の出所を掴み上げ、何も言わずにそこに映し出されるものを見ていた。
「じゃあね、秋。サッカー部の練習、終わったみたい」
彼女のゆっくりとした話し声を夕暮れの図書室でずっと聞いていたい。僕だけのために話し続けて。口に出さない願いは伝わるはずもなく、彼女は図書室を出ていった。翻るスカートのすそを見ながら、僕の目の前に在った太もも、置かれた手、頭上から聞こえた声を忘れるように僕はまた教科書に目を落とした。