バルラトナ公爵家
バルラトナ公爵家は王城より馬車で20分走った所にある。
「……」
「大丈夫ですか、シルティーナ様?」
屋敷の前で黒猫のクロを抱き締めてただ無表情で立つシルティーナにテドラが声をかけた。
「大丈夫です。行きましょう」
「はい」
扉を開けた先にはズラリと並んだ使用人達。
「「「「お帰りなさいませ、テドラ様」」」」
「あぁ、ただいま」
テドラの返事を聞いて顔を上げた使用人達の動きが止まる。テドラの横にシルティーナの姿を見たからだ。
「皆も聞き及んでいるだろう。聖女様の浄化の旅に護衛として同行するシルティーナ様だ。旅立ちまで我が家でお世話をさせて頂く事となっている。粗相の無いように」
「ぁ、えっと……」
テドラの説明を受けても、使用人達は戸惑った様に二人を見ていた。
勿論、聖女の護衛として同行するシルティーナが自分達が遣えるこのバルラトナ公爵家に滞在する事は聞いていた。彼女が2年前までこの公爵家の長女であったあの"シルティーナ様"である事も理解していた。
けれど、当の本人を目の前にして彼等は驚愕したのだ。自分達の知るシルティーナ様とは余りに変わってしまっていたから……
華やかなドレスを身に纏っていた彼女が動きやすさ重視の質素な服を身に纏い、腰には剣を提げている。長く手触りの良かった髪は短く切られ、かつての輝きはない。綺麗な刺繍を生み出していた手はあかぎれや剣ダコが出来、荒れている。彼女は、かつてのシルティーナ様ではないのだと、突き付けられたのだ。
帰参を喜ぶ言葉をかけるべきなのか、客へ対する言葉をかけるべきなのか。混乱の中、彼等はただ言葉を失ったのである。
「今日から3日間、バルラトナ公爵家でお世話になるシルティーナと申します」
言葉を発しない使用人達の代わりにシルティーナが口を開いた。
その声は凛としていてよく響いた。それは……それだけは、自分達のよく知るシルティーナ様のモノだった。
「お久しぶりにございます、シルティーナ様」
使用人達の中から初老の男性が進み出る。執事長のハーギナルだ。
「ご滞在の間、何か不便な点が御座いましたら何なりとお申し付け下さいませ。数人の侍女をつけましょう。ご用向きはその者達に」
「いいえ。侍女は必要ありません。自分の事は自分で出来ます。食事も外でとりますのでお構い無く」
「しかし、それでは何かと不便も御座いましょう」
「不便などありません。申し訳ありませんが、私は私が信用出来る者しか傍には置かない事にしているのです」
それは確かな拒絶だった。この家の者など信用出来ないと、彼女は言ったのだ。
「……左様で御座いますか。では、お部屋へ案内させて頂きます。こちらへ」
シルティーナの言葉に悲しそうに目尻を下げたハーギナルは案内する為に歩き出す。その後に続こうとしたシルティーナの腕をテドラが捕った。
「シルティーナ様、申し訳ありませんが猫は我が家には入れられません。母がアレルギーなのです」
「……そう、でしたね。クロ」
テドラの言葉に一瞬だけ懐かしむ様に目を細めたシルティーナが腕の中の黒猫に呼び掛ける。彼女の意を汲んだ黒猫がその腕から飛び出る。
地に前脚がつくかというその瞬間、黒猫は瞬く間に姿を変え長身の青年へと成っていた。黒い長髪を後ろで緩く結び、猫の時と同色の金の瞳は鋭い光を宿している。
「……え?」
唖然とした顔で今目の前で起こった出来事に思考が追い付いていないテドラと使用人達をグルリと見渡して、黒猫だったモノはその余りの間抜け面を鼻で笑った。
「見てみろシルティ。人間とはここまで間抜けな面が出来るのだな」
楽しそうに笑った青年がテドラへと近づく。
「バルラトナ公爵家の次男よ、我は屋敷に入れぬ黒猫か?」
「……ぃ、いえ。アナタは、一体……」
上から覗き込む様にしてテドラと視線を合わせた青年の問いに、テドラは震える声で何とか答えた。
「彼は私の使い魔です」
「そう。我はこやつの意に従い、こやつの為だけに動く、こやつの使い魔。名を"クロイツ"と言う」
「使い、魔?」
「なんだ、この国には使い魔すら居らんのか?」
「使い魔召喚の魔法が無いのよ。私もギルドに入って初めて知ったんだから」
「成る程。脆弱な人間の中でも更に脆弱な存在と言うわけか」
「魔法に乏しいだけよ。それより、テドラ様にきちんと説明して差し上げて」
「"使い魔"という存在は召喚した者と盟約で結ばれた者の事だ」
「盟約?」
「召喚した者の"願い"と召喚された者の"願い"。それぞれの"願い"を叶える為に結んだ協力関係、ですよ。分かりやすく言えば」
「シルティーナ様も彼に何か願いを?」
「使い魔とその主の間で交わされた盟約を他言する事は違反行為です。私達の"願い"は私達だけのモノなんですよ」
「……そうですか。あの、彼は人間ではない、のですよね?」
「えぇ。彼は…彼等はこの世界とは別の世界の住人です。ルラン王国では彼等の事を"魔族"と呼びます」
「魔族……」
「さて、話はもういいか?」
飽きた、と言わんばかりに欠伸をしたクロイツに余りの出来事に放心していた使用人達がやっと動き出した。目の前で例え何が起ころうとも動じずに仕事をこなすのがバルラトナ公爵家の使用人の心得だ。だからこそ自分達は今、ただ驚きに固まっているだけではいけないのだ。先程までの動揺が嘘の様にテキパキと動き出した使用人達にテドラも、そしてハーギナルも同様に動き出す。
「お部屋にご案内致します」
再び歩き出したハーギナルにシルティーナもテドラもそしてクロイツも、今度は無言で従った。
ーーー
ー
「シルティーナ、貴女……」
「また、随分と……」
「シル……」
「シルティーナ様……」
「……」
テドラにどうしてもとせがまれ、夕食だけはバルラトナ公爵家の面々と共にとることになったシルティーナはその場に集まった者達の反応に、心の底から面倒臭いと、ただそれだけを思った。
「今日から数日間お世話になります、シルティーナと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」
動かない面々にやはりシルティーナが先に言葉を発する。
「あ、あぁ。ゆっくりしていってくれ。……ところで、」
バルラトナ公爵家当主であり、シルティーナの父親だったガルド・バルラトナがチラリとシルティーナの腰に提げられている剣へと視線を向けた。
「食事の場での帯剣をお許しください。例えここがどの様な場であっても、これを手放すという事は私の命を死に晒すのと同意義なのです。どうか、ご容赦下さいませ」
ガルドの意に気付いたシルティーナがそう言って頭を下げる。
「構わない。少し気になっただけだからな。して、そこの方は?」
頭を下げたシルティーナに許しを与えたガルドが続けて彼女の後ろに付き従っているクロイツへと視線をやった。
「ご紹介が遅れました。彼はクロイツ。私と共に在る物です」
「従者か何かか?」
「いいえ。その様な希薄な繋がりではありません。もっと深く、強い繋がりがあります。……けれど、そうですね。この国の言葉で現すなら"従者"が適切かもしれません」
「従者……」
"従者"という言葉に反応したのは、かつてシルティーナの従者をしていたユージンである。
「その者は信用出来るのですか?」
「……少なくとも、貴方様よりは」
「!!」
ユージンの問いに僅かに目を細めたシルティーナは平淡な声音で答えた。それに息を呑んだのはユージンだけではない。あからさまに驚きを露にしたユージンとは対照的に静かに、けれど確かに表情を凍らせた人物。バルラトナ公爵家の長男であり、かつてシルティーナの兄であったジルド・バルラトナは動揺に揺れる自身の心を鎮めるべく深く息を吐き出した。
「シル、お前、戻って来る気はないのか?」
「戻るとは、一体どこにですか?」
「どこって、お前……」
「今の私の帰る場所は、クロイツとアルハルトが居る場所です。他には必要ありませんし、かつて私の事を切り捨てた者達の元へなど、戻る気はありません」
「……償う事も許されないか?」
「望んでいません」
「……では、何故再びこの国へと戻って来た?」
「王命があったから、と答えたい所ですが、貴方様は謁見の間での私と王との会話を聞いていたのでしたね」
王命であろうが従う気はないと言ったシルティーナに、次期宰相としてその場に居り、その言葉を聞いていたからこそ、ジルドは問いかけた。
何故再び、自分を苦しめた国に足を踏み入れようと思ったのか。そこに、一体どんな意図があるのか。
「ただ、見せつけたかっただけですよ」
「見せつける? 何を?」
「2年前、あなた方が見捨てたシルティーナ・バルラトナは、今や王命ですら自らの意思で断る事が可能な程の力を持つシルティーナであるという事を、ですよ」
「自らを強者と傲るか」
「傲りなどではありませんよ。私やクロやアルが本気でこの国を獲りにかかれば、この王都だけなら3日とかけずに落とせます。王族や主要な貴族だけを狙えばもっと早いでしょう。例えば、私とクロが今ここであなた方の首をとろうとしたならば、」
キィン、とシルティーナがコインを上へと弾く。
そのコインにシルティーナとクロ以外の者の意識が一瞬向いたその瞬間、部屋の中を疾風が駆け抜けた。
「ほら、こんな風に一瞬で終わるのですよ」
「「「「「!!??」」」」」
風の魔法によって動きを封じられたテドラとユージンにシルティーナによって首元にナイフを突き付けられているジルド。ガルドとその妻の首元にもクロイツによってそれぞれ鋭い刃先が当てられていた。
「お分かり頂けましたか?」
「ぁ、あぁ」
頷いたジルドからスッとシルティーナが離れれば、クロイツも何事も無かったかの様に彼女の傍へと戻って行く。気が付けばテドラとユージンにかけられていた魔法も解かれていた。
「ね? 2年前の私とは違うでしょう?」
そう言って笑ったシルティーナの笑顔は、けれど確かに、彼女のものだった。
ーーー
ー
「シルティーナ」
「……何か御用でしょうか、公爵様」
夕食後、与えられた部屋へ戻ろうとしていたシルティーナを呼び止めたのは、かつての父でありバルラトナ公爵家の当主のガルド・バルラトナだった。
「本当に聖女様の旅に同行するつもりなのか?」
「はい。依頼を受理致しましたので、そのように」
「……」
「ご安心を。全ては滞りなく進んでおります。多少のズレはあるでしょうが、私の心も、やる事も、何も変わっていません」
「……そうか」
静かに、ガルドは息を吐き出す。
2年前、この国の者達は確かに間違いを犯した。けれどそれは、2年よりもっと前、聖女と呼ばれる様になった異世界の少女がこの国に来た時から既に始まっていた。自分達は最初から。それこそ、スタート位置に並んだその時から間違っていたのだ。
だからこそ、彼女は…………
「ジルドとテドラはどうするのだ?」
「あなた様にお任せいたします。彼等はもう、私にとっては兄でも弟でもない存在ですので」
「本当に許す気は無いんだな」
「……許す、許さないではないのです。例え、こうなる事が予測できていたとしても、私は賭けていました。信じていました。"こうならない事"を望んでいました。けれど、結果はこの通り。私は賭けに負け、信じていた者達に裏切られました。許す、許さないではないのです。もう、私がこの国の者達を信じられないのです。2年前、私を信じて動いてくれた者達以外はどうでもいいと思ってしまう位に、私はこの国が憎いのです」
「……そうか」
「彼等をあなた様が許したいというのならばそれに異を唱えるつもりはありません。好きになさってくださ。けれど、彼等の為に私が何かする事はありません」
彼女の中の"大切な者"にもうこの国の殆どの人間は含まれていないのだ。何よりもこの国を大切に思っていた彼女にここまで言わせてしまえる程に、この国の人間達は堕ちてしまったのだ。
魔物や穢れなど無くても、この国は何れ滅びる定めにあるのだろうと、ガルドは既に背を向けて歩き出したかつての娘を見送り思ったのだった。