弟だった者の懺悔
「私は、あなた方の事が……この国の事が、滅んでしまえと思える程に"憎い"です」
その言葉にテドラは絶望した。
2年前まで自分の"姉"であった彼女は、その瞳に自分を映す事なくただ無感情に告げたのだ。そこに2年前の優しさも慈しみもない。
それが、自分のした事だった。自分の失ったモノだった。突き付けられた現実にテドラは深く深く後悔した。
2年前、確かにあった信頼も、向けられていた深い愛情も、 自分は……自分達は全て裏切ってしまったのだ。
自分はやっていないと言う彼女の言葉をどうして少しでも信じ様としなかったのか。彼女が学校から帰った後も休む暇も無く動いている事を自分は知っていたのに。
"恋は盲目"とはよく言ったものだ。自分は確かに2年前のあの時、アカリの事に対して盲目になりすぎていた。
だから気付かなかった。自分の姉が、あの時どれだけ必死にこの国を保たせようとしていたのか。学校でも家でも、全ての時間を、アカリが歪めてしまった物事の後始末に費やしていた事に。
彼女が居なくなってこの国はみるみる荒れた。生徒会が機能せず、シルティーナを最後まで慕っていた多くの生徒がボイコットに走った学園は一時的に閉鎖され、使われ続けた国税は底を尽き国政は滞った。
不作法な娘の夜会の参加にとうとう怒りを顕にした貴族達は職務を放棄し、国の重鎮達の殆どが領地から出てこなくなった。
そんな国の上位者達の変化に国民は混乱し、上がった物価と乱れて行く治安に王族への不信が募った。
魔物の被害は増え、作物の実らない汚れた土地に居た人々が避難して来た土地はあっという間に食糧難に陥り、人同士のいざこざが増えた。そのいざこざを宥める騎士団も団長と副団長を欠いては機能せず、とうとう餓死者やいざこざでの犠牲者が出始め、国はその遺体を処理する機能すら失っており、疫病が流行り始めた。
堕ちるところまで堕ちてしまったこの国の惨状にある時一人の民が呟いた。
"シルティーナ様が居てくれたなら"と。
そしてその時、アカリや未だにその取り巻きをしている者達以外の皆が気付いたのだ。
"自分達は間違ったのだ"と。
だからきっと今のこの国の現状は、彼女を裏切ってしまった自分達に対する罰なのだ。
この国の為に、自分達の為に、必死に手を尽くしてくれた者にありもしない罪を着せ、死ぬ様な思いをさせてしまった自分達への罰。
だから……だからこそ、幾ら王命とはいえ、彼女が再びこの国を訪れた事に驚いた。
"依頼"とは言え、この国の為に聖女であるアカリを守ると言った事に驚いた。
そして、同時に分かってしまった。
彼女はもう、自分の知る2年前迄の彼女では無いのだと。
肩口で短く切り揃えられた金色の髪。
強い意思を宿した薄紫色の瞳。
健康的に日に焼けた肌。
見苦しくない程度に筋肉のついた体。
そのどれもが、記憶にある彼女とは違っていた。
「、シルティーナ様」
"シル姉上"と呼びそうになり、言葉を飲み込む。
そう呼ぶ事はもう、許されていないのだ。
「謝って済む事では無いと分かっています。貴女の先程の言葉も尤もです。僕達はそれほどの事を貴女にしてしまった」
「……」
「だからこれは僕の自己満足です。聞き流してくれて構いません」
「……」
「2年前のあの時、貴女を信じる事が出来なくてすみませんでした。何の非もない貴女に……この国の為に、僕達の為に、手を尽くしてくれていた貴女の事を裏切ってしまい申し訳ありませんでした。本当に、本当に、ごめんなさい。……貴女が生きていてくれて良かった。再び会う事が出来て良かった……」
深々と頭を下げる。彼女の顔を見るのが恐かった。また、全てを拒絶するかの様な冷たい視線を向けられるのが恐かった。だから顔を上げる事が出来ず、ただ地面を見つめていた。
「……貴方は、私の弟でした」
「……はい」
静かな声が降ってくる。
「騎士になるのだと頑張っている貴方が好きでした。可愛い、自慢の弟でした」
「……」
「2年で、騎士見習いになったんですね」
「はい」
「騎士団に入り、まだ見習いとは言え、自分の夢を叶えたんですね」
「はい」
「私は、第一王子の妃となりこの国を彼と共に支えていくのが夢でした」
「……」
「より良い国にする為に出来うる限りの事をするつもりでした」
「……」
「全て、奪われてしまいましたが……」
「……」
「謝罪など要りません。全ては過去です」
「ッ!!」
彼女の言葉に泣きそうになった。
"過去"なのだ。彼女にとってはもう、この国は"過去"なのだ。
「……シル、ティーナ、さま……」
掠れた声は既に背を向け歩き出した彼女には届かない。
「……シル、姉上……」
振り返って優しく笑いかけてくれた彼女はもう、居ない。
「申し訳、ありませんでした……」
届かない謝罪を、それでも伝えなければいけないのだ。もう、それしか自分が彼女に出来る事は無いのだから。
自分達が間違ったと気付いて直ぐ、シルティーナが糾弾された"罪"の全てを調べ直した。そして分かった彼女の無実。
シルティーナは……自分の姉は、アカリが言うような嫌がらせも、国王に責め立てられていた国税の使い込みもやってはいなかったのだ。
その全てを調べるのに時間も人手も然程かからなかった。
何故なら、アカリが学園に通い始めた数ヶ月後からシルティーナは生徒会室で殆どの時間を過ごし、授業どころか昼食も昼休みも放課後も生徒会室から出てこないシルティーナがアカリと接触する所など誰も見ていなかったのだ。けれど、シルティーナが生徒会室へ入る所や、沢山の書類を抱えて職員室に向かう所などは度々目撃されており、シルティーナが生徒会の仕事に缶詰め状態だった事は、その間に提出された全てシルティーナの署名である生徒会の書類からも簡単に証明出来た。
国税に関して言えば調べるまでも無かった。そもそもの問題として、王族でもない只の令嬢が、いくら公爵家の者だからとて好き勝手に扱えるモノでは無いのだ。多くの貴族や民達からの信頼があろうと、国税を管理する者は財務大臣であり、彼の意見すらねじ曲げて使える者は王族だけなのだ。そして現に、国税を使い込んだと言われて国を追われたシルティーナが居なくなっても国税は減る一方で、寧ろ彼女がいた頃は何とか保っていられた財政は今やズタボロ状態である。
生憎とその時に財務大臣の任を担っていた者はシルティーナが居なくなってから直ぐにその席を降り、どれだけ探そうが所在が掴めなかった為、詳しい事は分からなかったが、それでも彼が残した最後の一言はシルティーナが国税を使い込んだのではないということを示すには十分なモノだった。
そんな、少し考えたら……寧ろ考える必要もなく分かる事が、あの時の自分には分からなかったのだ。
そして、彼女の無実を確信してからは多くの者にその事を伝えていった。
父はただ黙って息をついた。
母はただ静かに微笑んだ。
兄はただ唖然と口を開けた。
従者はただ悲しそうに彼女の名を呼んだ。
貴族達はただ沈黙を貫いた。
学友達はただ深く懺悔した。
民達はただ救いをと求めた。
王と王子とアカリ、そして未だにその取り巻きをやっていた数人の貴族令息だけが、ただ全てを否定した。
自分一人の力では、シルティーナの為に出来る事など限られていた。彼女が失ったモノは、自分では決して取り戻せないモノだと気付いた時、自分の無力にただ泣いた。
自分達は、2年前のあの時、彼女の信頼も愛情も希望も夢も未来さえも奪ってしまったのだ。彼女が自分達にくれていた全ての正の感情を踏みにじり、負の感情のみを与えてしまったのだ。
そんなの、許される筈がないではないか。
彼女がこうして"今"の自分を確立するためにどれだけのモノを費やして来たのか想像すら出来ない自分が、そう簡単に許されていい筈がないではないか。
それでも、自分に出来る最後の事として、彼女に謝り続けるのだ。
届かないと分かっていても、先ずは自分達の過ちを謝る事からしなければ、自分達はきっと先へは進めないから。
「申し訳ありませんでした……」
再び口にした謝罪の言葉は、やはり彼女に届く前に風に流されて消えたのだった。