その感情の名は
謁見の間を後にして廊下を歩くシルティーナの後ろから足音が聞こえる。自分を追って来るその足音の主に心当たりがあるシルティーナは足を止めて小さく息をついた。
「シルティーナさん!」
「……」
シルティーナが止まった事に気が付いた足音の主が駆け足で寄って来る。
「何かご用ですか、聖女様」
「聖女様だなんて…アカリって呼んで下さい」
「そんな恐れ多い。聖女様は"聖女様"ですので、今後もそう呼ばせて頂きます」
足音の主……アカリの言葉にシルティーナは笑顔で応えた。
誰が名前などで呼ぶものか。
「そうですか……」
「それより、何かご用があって私を追いかけて来られたのでは無いのですか?」
「そうでした! 私、貴女にお礼が言いたくて」
「お礼?」
首を傾げたシルティーナに頷いたアカリが姿勢を正す。
「浄化の旅の護衛の件、受けてくれてありがとうございます」
「あぁ、その事ですか。別に気にしないで下さい」
「そんな訳にはいきません! 本当に感謝してるんです。それに私、シルティーナさんが本当に来てくれる何て思って無かったから……それも、ごめんなさい」
「……何故、私が来ないと?」
尋ねた瞬間、アカリの瞳が輝いた。シルティーナのその質問を待っていたのだろう。それに気づいていながらも、シルティーナは態とその質問をぶつけたのだ。
「だって、シルティーナさんは2年前に悪い事をしてこの国を追放されたじゃないですか。私なら、そんな国に幾ら王様からの命令があったからって平気な顔をして戻って来る事なんて出来ないです。だからシルティーナさんも来ないだろうなって思ってたんですけど、ちゃんと来てくれて、そして護衛まで引き受けてくれて……だから、ありがとうございます」
下げられた頭に、しかし誠意も感謝も微塵も含まれていない。
「そんなに感謝して貰えると私も嬉しいです、聖女様」
そんな嫌味がふんだんに含まれた言葉にシルティーナは笑って返す。
「けれど、お礼を言いたいのはこちらの方です」
「え?」
「2年前、私は貴女に嫌がらせをしたという罪を、貴女と第一王子様を始めとする者達に糾弾され、更に覚えの無い罪を着せられこの国を追われました。そんな、"自分を痛め付けた者"をよく護衛に据える事を許して下さいました。私ならばその者が再び眼前に現れた瞬間に切り捨ててます。貴女様の寛大でお優しい心に感謝致します」
「ぇ、あ、いえ、そんな……」
深々と頭を下げたシルティーナにアカリの戸惑った声が届く。下げた頭の下で、ざまぁと笑ったシルティーナはそのままの流れで別れの挨拶をして踵を返す。
ぬくぬくと守られて来ただけの彼女に、言葉ですら負ける気はない。自分が貶めた者に命を預けないといけないその意味に気付き嘆くがいい。
"依頼"だから請けるのだとアルは言った。シルティーナも言った。彼女はそれを忘れてはいけない。
自分の命が"依頼"で守られているのだということを忘れてはいけないのだ。
「シル姉上!!」
もうすぐで城門を出ようとしていたシルティーナに再びかかる声。その声に足を止めたシルティーナはもう何度目になるか分からない溜め息を吐き出す。振り返った先には2年前まで弟だった人物、テドラ・バルラトナが居た。
「テドラ・バルラトナ様、一体何のご用で?」
「家までお供致します」
「有り難い申し出ですが、必要ありません。バルラトナ公爵家の場所は覚えておりますし、寄る所もありますので」
「あの男の所ですか?」
「貴方様には関係の無い事です。また後程、バルラトナ公爵家にてお会いしましょう」
一礼の後、城門をくぐったシルティーナの横にテドラが並ぶ。
「……あの?」
「僕も行きます」
「……」
彼の意図が分からないとシルティーナは眉を潜めた。
2年前よりも伸びた背丈と少しだけ大人びた顔つき。筋肉のついた体は彼が騎士になるために頑張った事を示している。そんなテドラを暫くの間見つめたシルティーナは何も言わずに歩き出した。
家族だったのだ。情が無いわけではない。16年もの間、深い愛情を育んできた者だった。
最後まで、助けてくれるかもしれないと希望を抱いた存在だった。
けれど、そんな自分の愛情も希望も彼は……彼等は意図も容易く裏切った。
そんなものなのかと思ってしまうのが普通ではないか。
それならもう、そんな存在要らないと思うのが必然ではないか。
愛して信じたその分、裏切られた時の絶望と失望は計り知れない。
だからもう、愛さないのだ。信じないのだ。
この国の人間など、決して。
「……」
「あの、シル姉上……」
暫く無言で歩いた後、テドラが不意に話しかけてきた。
「2年前は、その……」
「私は、」
言い難そうに言葉を詰まらせるテドラにシルティーナが口を開く。
「私は貴方様の姉上ではありません。どうぞ、シルティーナとお呼び下さい」
酷く冷たい声音だとシルティーナは自分で思った。テドラは息を飲んで足を止めてしまう。その顔が悲痛に歪んでいるのをシルティーナは心底不思議な心境で見ていた。
何をそんなに悲しんでいるのか。
自分は"当たり前の事"を言っただけなのに。
だって、"姉"である自分を捨てたのは彼だ。学校から帰った後ですら自分が忙しく動き回っているのを知っていただろうに。それでも彼は2年前のあの時、アカリの側に立ち、アカリに手を差し伸べた。
その時、その瞬間から、彼は自分の"弟"では無くなったし、自分も彼の"姉"では無くなったのだ。例え家名を奪われなかったとしても、自分が彼を"弟"と思う事はもう二度と無いのだと思った。
だからこそ、彼が今している表情の意味が分からない。
「テドラ様? どうかされましたか?」
「……やはり、怒っておられるのですね」
「はい?」
「2年前に僕が貴女の味方をしなかった事を……僕達が貴女を信じなかった事を怒っておられるのですね?」
「……」
彼は、何を、言っているのだろうか?
"怒っている"などと……
そんな訳ないではないか。
そんな、
「そんな生易しい感情ではありませんよ」
そうだ。2年前からずっとこの胸の内に巣食っている感情は、"怒り"などではない。そんな可愛いものではない。
これは、
「私は、あなた方の事が……この国の事が、滅んでしまえと思える程に"憎い"です」
大好きだった。
守りたかった。
愛していた。
大切だった。
けれど、だからこそ、その存在に全てを奪われてしまえば、その感情は強い強い憎しみに変わった。
彼等はそれを分かっていない。
青ざめた顔で自分を凝視するテドラ・バルラトナに、シルティーナはただただ無感情な視線を向けるのだった。




