プロローグ
庭園の池に浮かぶ島で、楽師が雅楽を奏でる音色が聞こえてくる。
青々とした芝生の上に、着物の裾を広げて腰を下ろした女性が、優雅に水面でも眺めているんだなと想像した。
天然の岩壁を挟んだ反対側には高貴な庭園とは対照的に、荒磯を表した大きな池と、芝桜が花を咲かせているだけの殺風景な庭園が広がっていた。
池の中州でヴレイは体術の構えを保っていた。
ヴレイと向き合っている少年も、その時を待っていた。
二人の手首に巻き付く金色のブレスレットが、鈍く陽を反射した。
庭園に流れ込んだ通り風は池に静かな漣を立てる。一匹の鯉が飛び跳ねた瞬間、水を打ったような静けさは破かれた。
ヴレイは地面を蹴って、相手の顔目掛けて拳を突き出した。
瞬時に相手の拳が殴りかかってきたので、ヴレイも拳で弾き返した。
拳の打ち合いが続いた後、両者の脚がお互いの腹部を蹴り上げる。
相打ちかと思われたが、ヴレイの脚は相手の脇に捕らえられた。
だが相手の脚は、肩を直撃する前に、腕でガードした。
激しい息づかいを繰り返したまま、しばらく睨み合いが続いた。
「いつまでやってる、そろそろ時間だ」
長身の男が二人を乱暴に呼びつけてきた。
「続きは俺達が戻ってきてからだ。遅刻すると団長にどやされるからな」
「どやされるほどの仕事じゃないじゃん、どうせ俺達は留守番だろー」
パッとヴレイの脚を離した少年は、口の中の血を唾と一緒に吐き出した。
十歳のヴレイより三歳も年上となると、頭一個分の身長差は仕方ないのかもしれない。
唾を吐く姿でさえ、かっこよく真似できない、ギュッペェと変な音を立ててヴレイは唾を吐き出した。
「つまり、ザクロさんをお守りする大役は、自分達には楽勝すぎてやりたくないと、団長に伝えておくよ」
ヴレイと少年は襟足を鷲掴まれ強引に引きずられた。あまりにも男の腕力が強かったので、どうにか抵抗しようと少年と一緒に、子犬のように騒いだ。
「いやぁ、それはないぜー、留守を任されるほど頼られてるってことだろ、やっぱり留守番って立派な仕事だぁ、なヴレイ」
苦笑いの少年が男に向かって上目遣いした。
「そ、そうそう、立派な仕事だね、僕たちにしかできない仕事だからね、って強く掴まないでよぉ、痛いよ首っ、もっと手加減してー」
あまりにも強く首根っこを掴むので、ヴレイは男の腹部を本気で殴るがビクともしなかった。
見えない鎧を殴っているみたいで、殴る拳がジンジン痛くなった。
「お前らずいぶん態度がデカくなったなぁ」
「だろ、いつまでもガキじゃないんだぜ、時間通りに帰るからさ、なあヴレイ!」
「うん。絶対に遅れないからさ。次こそザイドに勝てそうだったのに!」
「お前のへなちょこパンチじゃあ俺に勝てるわけないよ」
「そんなことないよ次は絶対に勝てるよ。パンチのスピードにだって追いついてるもん」
ヴレイとザイドは口ケンカしながら、男に問答無用で連れて行かれた。
反対側の気品ある庭園に着いてから、「ほらよ」と犬を離されるが如く、自由の身になった。
池と池を結ぶ橋の麓で、着物姿の女性がヴレイとザイドの姿を見つけるやいなや、花が咲いたような眩しい笑顔を見せて、小走りで駆け寄って来た。
「やっと来てくれたのね、待ちくたびれたわ」
「ザクロ様聞いてよ、今日も途中で止められて勝負がつかなかったんだぜ!」
唇を尖らせたザイドはザクロの手を握って、滝壺が見えるいつもの浮島へ歩みを進めた。
「そうなんだよ、今日こそはと思ったのに!」
ザイドと同じように唇をすぼませたヴレイも、ザクロの手を引いた。
やることはいつもザイドと同じで、いつもザイドより一歩遅くなる。
「そうなの、でもあなた達はお友達同士なんだから、傷つけ合わないようにしなきゃ、いつも戦ってばかりじゃない」
「大丈夫だよ、こいつ結構丈夫だし、俺のパンチも避けれるようになったんだぜ、なヴレイ」
「当たり前だよ。いつか僕の拳でザイドに参ったって言わせてやるんだ!」
すると何故か、やれやれと言った感じで肩を落としたザクロが、自分たちと同じ目線になるように膝を折った。
「確かにお互いに磨き合うのはいいことだけど、お友達を傷付けることは、決していいことではないのよ、かけがいのない大事な人なのよ、それを忘れないこと」
お互い目を合わせて、なんとなく恥ずかしくなり、歯に噛んで笑った。
「「はい」」
似たようなことを何度言われたのか分からないが、何度もザクロの言葉を胸に響かせては、絆の大切さを実感していた。
時は流れ、ザイドとの決着がつかないまま三年が過ぎた頃、ヴレイの元に使者が現れた。
黒背広の男達と、軍服に身を包んだ女は全てを見知ったような顔をしていた。
「ヴレイ! ここから出ていくって本当か? 団長はなんて」
「了解済みだ。ザイドも「アゲハ」から退団しろ、いつまでも匪賊やるつもりないだろ」
頭一つ背の高いザイドは表情を曇らせた、ヴレイには渋る理由が分からなかった。
「今はまだ匪賊として仕事はしてないけど、いつかやらされるんだぞ。殺しや窃盗なんて、したくないだろ?」
「まあな」とザイドは頭を掻いた。
「いつか抜けるよ」とだけ答えると、縁側から外へと出ていった。
ザイドの広い背中を見送ったヴレイは、それ以上の言葉を掛けなかった。
「じゃあな、またどこかで」
届かないとは分かりつつ、ヴレイは親友にささやかな言葉を送った。