1匹目:
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「せっかく感動の再会シーンだというのに君は何故逃げ出そうとしたのか――」
こちらの顔を見た瞬間、眼前に立つ白衣姿の狂人はそう言った。
美しく長い黒髪に整った顔立ち。釣り目気味の大きな瞳は泣きぼくろと相俟って蠱惑的。胸元の大きく開いたブラウスから覗く谷間には、男なら誰でも目を奪われるだろう。さらにその上から羽織った白衣には、染みどころか皺ひとつない。浅いスリットの入ったタイトスカートから延びる長い脚は、黒のタイツに包まれている。
そんな、道を歩けば性別に関わらず十人中十人が思わず振り返ってしまうような完璧なプロポーションを持つ美女こそが、青年坂田の恩人であり天敵であった。
見た目年齢は二十代後半。職業医師で自称科学者。それが坂田の知る彼女の情報だ。その他、経歴はおろか実年齢や本名さえ知らない。
彼女に出会った当時、周囲の人間が彼女のことを『博士』と呼んでいたのに倣い坂田もそう呼んではいる。幼いころ本名を尋ねたこともあったがはぐらかされて聞き出せず仕舞い。それ以来今に至るまで、特に不便を感じることもなかったので彼女の呼び名は『博士』のままだ。
「――とりあえず言い訳くらいは聞いてやろう」
「いきなり現れたと思ったら訳の分からんことを……。俺が逃げる理由がどこにある? あと感動の再会は取り消せ」
嘘だ。本音を言えば今すぐ逃げ出したいところだが、ここは何とか誤魔化して、この場を切り抜けるのが先決。ただでさえ、横に立つ少女の扱いで手一杯なのに、これ以上、面倒事を抱え込むのは御免だ。
「夜中にアパートの通路で未成年と痴話喧嘩。そんな状況を本妻に目撃されたら、男は一目散に逃げ出すか、その場で土下座するしかないと思うがね」
「どこの誰が本妻だって?」
「私だ」
さも当然のことと言わんばかりの態度で答える狂人。
結婚はおろか婚約だってした覚えはない。と言うか、いくら詰まれてもこの女だけは願い下げだ。命がいくつあっても足りはしない。
横に立つ少女が、博士の言葉を聞いて、修羅場、修羅場ですね、などと嬉しそうに宣いながら頬を染めてクネクネしているのは無視して、
「黙れ既婚者。旦那が泣くぞ」
「心配するな。うちの旦那は寛大だ」
妻の重婚を認める夫が本当に存在するのなら、それは寛大ではなく変態だ。
「旦那が許しても国が許さないんだよ!」
「国がどうした? そんなもの私の力で認めさせよう」
これだからこの狂人と話したくないのだ。こいつは自分が世界の中心であるかの様にものを言う。しかもそのすべてが罷り通ると信じて疑わず、しかも大抵のことは実現してしまうのだから性質が悪い。
そんな狂人とごく普通の大学生である自分とで会話が成立するわけもない。だが、はじめてしまった以上、聞きたいことは全て聞いておく必要がある。
「もうその話はいい」
最初の会話を無理やり切りに行く。もとより理屈を言っても勝ち目はない。会話に必要な知識の量で圧倒的に負けている。屁理屈はさらなる屁理屈で捻じ伏せられ、正論は暴論によって殺される。アレはそういう相手だ。
だが、問えば答えは返ってくるのだから会話のすべてが無駄ではない。ようは選択だ。必要な会話だけを選んで進め、それ以外は言いくるめられる前に切り捨てる。
「どうして博士がここにいる?」
「引っ越してきたからに決まっているだろう?」
「わざわざ引っ越してきた理由を聞きたいんだが?」
再度の問いかけに博士は、ああそんなことかと、と頷き、
「愛しい愛しい患者を追いかけて来たに決まっている。まったく進学先も伝えずに消えるから探すのに苦労させられた」
ここでいう患者は俺のことで、進学先を伝えなかったのは博士と関わり合いになることを避けるためだった。
そもそも、彼女とその夫から逃れるために始めた大学生活と一人暮らしだ。高校だって彼女たちに知られないよう、地元から離れた全寮制の学校を選んだ。今更、当の本人に、進学先を伝えるわけがない。彼女に知られないため出来る限りの手を尽くしもした。それでも一介の学生にできる根回しなどたかが知れている。それでも高校時代から数えて5年の間ばれなかっただけでよくやったと言えるのかもしれないが……。
「ご苦労さん。数日中にまた消えてやるから次は探すなよ」
「彼女を置いてかね?」
彼女? と問い返してみると、博士はこちらの左手側を指さした。
そこには、未だに恍惚とした表情で妄想世界にトリップしたままの少女がいる。当然と言えば当然の勘違いを、どうやら博士はしているらしい。
「そいつとは今日初めて会ったんだ。迷子らしいから家まで送ろうとしてただけで、そういう関係じゃない」
「行きずりの――」
「黙れ。それ以上言ったら叩き落とすからな……」
出来るだけドスを利かせて言ったつもりの言葉も、博士にとってはどこ吹く風。軽く笑い飛ばし、目を細めて彼女は言う。
「まあそれならそれでいいだろう。それで――、これは仮定の話になるが、君が数日中に姿を眩ましたとして、この私から逃げ切ることができると?」
「――っ」
思わず言葉が詰まった。当たり前だ。逃げ切る自信などありはしないのだから。
冷静に考えればわかることだ。これまでの五年間だってそう。博士がその気になれば探し出すのに一週間、いや三日と掛からないだろう。要するに、逃げ切ったと思い込んでいただけで、実際には相手にされていなかっただけのこと。そして今、君はよくやった、と釘を刺されているわけだ。
ここまで見事に道化を演じきった自分には、怒りよりも笑いが込み上げてくる。
「わかった……」
両手を上げて降参を示すと、博士は満足げに頷き、
「物分りのいい子は好きだよ、私は。そうでなくては引っ越し祝いのプレゼントを贈った意味がない」
もちろん博士からプレゼントを受け取った記憶はない。仮に受け取ったとしても、そんな怪しさ満点なもの、開けずに捨てているだろう。
訝しむこちらに博士は、右手を開き、手のひらにに小さな円を描き、
「なんだ届いてないのか? これくらいの黒くて長いしょっ――」
「やっぱりお前の仕業か!」
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