1匹目:
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切れ掛けた蛍光灯が明滅を繰り返す通路の上、背後から届いた聞き覚えのある声に坂田は膝をついて動けずいた。
目の前の少女曰く空き家である筈の部屋に、実は住人がいたことに驚いているわけでも、今更、土下座することを躊躇っている訳でもない。少女との関係を完全に誤解されているのは、年頃の男女が、夜中アパートの通路で痴話喧嘩という状況を客観的に見た場合、致し方ないことだろう。もし自分があと5つ年を取っていたら、俗な意味でのパパ扱いされていたかもしれない。そういった意味では現状、まだ挽回のチャンスはある。ただ、それも2つの大きな問題に目を瞑ればの話だが……。
目下第一の問題は、項垂れるこちらを覗き込むように見つめてくる自称元無脊椎動物のジェーン・ドゥ。こちらを窺うためにしゃがみ込んでいる彼女が、また妄言を吐き始めたら手の付けようがない。少女一人が相手なら言いくるめることも可能かもしれないが、恐らく、背後の女性が庄野の言を聞いてしまえば、言い訳をする間もなく警察の御世話になることになる。
しかしそれは、第2の問題である背後の女性が、真面な判断能力を有していることが前提になる。だが恐らくそれはない。今、背後にいる女は間違いなくイカれている。それも、この女と話をするくらいなら警察から尋問を受ける方が百倍マシに思えるほどのイカれ具合だ。まず会話が成立しないことを想定して動くべきだ。
「……あのー」
考え込むこちらを気遣ってか、おずおずと少女が上目遣いで声をかけてきた。少女はこちらと背後の女を交互に見て、
「お知り合いですか?」
お知り合いです、と素直に答えられるわけがないので首を振って否定する。背後の女の声が記憶の中のある人物の声と一致した時点で、彼女は、知らない間に越してきたお隣さんから二度と顔も見たくない危険人物にランクアップしている。
妄言俎板と奇人マスクメロンによるサンドイッチ。互いに頭の二字を取り払ってしまえば世の男どもが血涙流して羨ましがるかもしれない状況に、しかし一つも喜べない。実際に体験している身としては、今すぐ裸足で逃げ出したいだけの修羅場でしかない。いや、触れ合いどころか会話一つない有様などどこからどう見ても修羅場以外の何物でもなく、特殊な趣味の方々からしか羨望されはしないか……。
ただ一つ幸いなのは、こちらの顔がまだ見られていないということだ。こちらは背後の女の正体について八割がた見当がついているのに対し、彼女はこちらが誰なのかわかっていない。これは、彼女に顔を見られたら人生詰むどころか、来世でのトラウマを植え付けられかねないこちらにとってしてみれば大きなアドバンテージだ。あわよくばこのまま、背後の女と顔を合わせることなくこの場を立ち去りたい。
だが現実とは往々にして思惑通りにはならないものである。
「どうした? 人が話しかけているのに無視というのは頂けないな」
いや、と背後の女は小声で言って、何かを考え込むように間を開けてから、
「もしかすると体調が優れないのか? どれ診てやろう。これでも私は医者だ。安心したまえ」
こちらの思考とは裏腹に、何一つ安心できない言葉とともに背後の気配が近づいてくるのを感じる。
しかも今の言葉から彼女の正体は確定。なんとしてもこちらの顔を見られるわけにはいかなくなった。愈々となればアパートから飛び降りての逃走も視野に入れておくべきだ。なに二回程度の高さからなら飛び降りても大した問題にはならないだろう。
「……いや大丈夫です。お気遣いなく」
出来る限り丁寧に、あなたと私は初対面。決して知り合いなどではありませんよ、と精一杯言葉を選んでなんとか返答してみる。こちらがそうであった様に、背後の女が声でこちらの正体に気付かないかと内心ビクビク、冷や汗タラタラでの発言だったが、案外すんなり彼女の気配は動きを止めてくれた。
しかし、
「それにしても体調に問題がないのならキチンと立ちたまえ。それに人と会話をするのだから目を見てとまでは言わんが、せめて顔を見せなさい」
……望みが絶たれたー!
それも正論で、だ。これは本当に飛び降りての逃走考えなければならない。この女と相対するくらいなら両足なんて安いもの。ともあれどう動くにしてもこのままではいられない。
立ち上がるこちらに合わせて正面の少女も、よいしょ、と可愛らしい声を付けて立ち上がる。
ようやく立ち上がったこちらを見た背後の女は、やれやれというように息を吐き、
「これでまともの話が……。何故、君は頑なに私に背を向け続けるのだ?」
これまた狂人の口からでたとは思えない正論。しかし、こちらには梃子でも振り向けない事情がある。あるのだが……。
「いい加減にしたまえ。別に獲って食おうと言っているわけではない。彼女との関係をとやかく言うつもりもない。何故、私の部屋の前にいたのか聞きたいだけだ。そのためにお互い顔を見て話をしようというのは間違ってはいないだろう?」
ぐうの音も出ないとはこのことか、まったくの正論に心が折れそうになる。
何時の間にかこちらの真横に移動した少女が、こちらのシャツの裾を摘まんで引っ張っているのも、やはり振り向けということなのだろう。
「わかったよ……」
観念して女の方へと振り返ると、やはりそこには予想していた通りの人物が立っていた。
辞世の句、考えておこう……。
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