4匹目:
大の男二人が土下座とうつ伏せで微動だにしないという状況は、リビングスペースに異様な空気を醸し出していた。
そんな空気の中、その原因であるうちの一人、うつ伏せになっている坂田が口を開く。
「おい馬鹿野郎、いつまでそうしてるつもりだ」
その声に反応したのは残された一人、土下座姿の山田弟だ。
彼は伏せた身をそのままに顔だけで坂田の方を確認すると、
「姉さんから許しが出るまで?」
山田弟の答えに、これが所謂調教済みというやつだろう、と坂田は心の中で納得し、あえて触れないことを決め、兼ねてからの疑問を口にする。
「その姉さんは何をやってるんだ?」
人の家の風呂場で、とそこまで言うと土下座は、
「あー、ゴキ子ちゃんの汗を拭いてあげるとか言ってた。一人じゃ手の届かない場所もあるし、かと言って俺やお前が手伝うわけにもいかんでしょ?」
なるほど土下座の言い分は尤もだ。しかし、いつそのことを確認したのか。こちらへの拷問を終えた山田姉がゴキ子を連れて行く際に行われた山田姉弟の会話を思い出す。
『じゃあ、あとのことはよろしくね弟くん』
『はいはい、いってらっしゃい姉さん』
それだけだ。
まだ拷問の痛みに悶えている最中のことで、完璧な記憶とは言い難いが概ね正しいはずだ。つまり、姉弟の間で確認は行われていないことになる。
……テ、テレパシー?
などと有り得ない思考が一瞬頭を過ぎるが、それをすぐに否定してさらに記憶を遡る。
そうして考えるのは拷問が始まる前だ。
あの時、自分は床に正座させられており、横では状況についてこれない害虫娘が同じように座りながらあたふたしていた。対し山田姉弟は、姉の方が弟の方に何か耳打ちして、それを受けた弟がすぐに石抱きの準備を整えたのだ。
……あの時か。
と、そこでこちらを咎める声がきた。
「質問しといて黙りはないだろ」
「ああ、悪い。悪いついでにもう一つ聞くが――」
「断る」
「そうか聞いてくれるかありがとう。それでだな――」
「まてまてまて。お前、耳が腐ってんのか? こ、と、わ、る、って言ったんだよ」
「安心しろ聞こえてるから」
「だったら質問すんの止めろよ」
「聞こえてはいるが承諾はしない。大体、何故拒否する? 俺が質問を与えて、お前が答える。ギブアンドテイクだろ?」
「ギブもテイクも手前の特になるギブアンドテイク聞いたことねえよ! 俺へのテイクはどこいった!?」
山田弟の抗議に、はっ、と吐き捨てるように笑ってから、
「あるわけねえだろ馬鹿野郎。わかったら諦めて答えろ」
「最低だよお前」
言いつつ、山田弟は身を起こし、揃えていた脚を崩して胡座を組んでこちらを向く。
「土下座はいいのか?」
「……あ。い、いいいんだよ。そ、そんなことよりもも、ささ、さっさと質問しやがれ。でないと足揉むぞ! そろそろいい感じに血行戻り始めて痺れてきてんだろ!」
山田弟の反応から察するに大丈夫でないことはわかるが、それは彼ら姉弟の問題なので無視することに決める。こちらとしては大絶賛ビリビリ中の脚に触れられるのを回避するため、さっさと要件を言うこととする。
と、いうか、こちらの脚の具合を見事的中したのは彼の経験からだろうか。だとしたら嫌な経験だ……。
「お前が石の準備をする前な、姉の方が何か言ってただろ? あれ、何を言われたんだ?」
聞くと、山田弟は天井を見上げ数秒唸ってから手を叩き、
「キッチンで大量の梅干の種を見つけたから――」
こちらを指差し、
「お前を拷問する道具を揃えろ、とそんな感じだ」
……え?
返ってきた予想外の答えに対し、戸惑いを覚えたが、直様それを振り払う。最早、いつ風呂のことを聞いたのかなんてどうでもよかった。そのあたりは姉弟にしかわからない何かがあったとか、そんな適当な理由を付けて頭の隅に追いやっておく。そんなことより今は、
「俺は、そんなくだらない理由で拷問を受けたのか?」
口から出たの力ない声。
拷問が山田姉の勘違いから行われたことはわかっていたが、自分が受けた仕打ちとその理由との間にある大きすぎるギャップに、怒るとか呆れるよりも先に全身から力が抜けた。今の自分は、きっと物凄く間抜けな表情をしていることだろう。
しかし、横に座る山田弟は違った。こちらの反応を見た彼は肩を震わせて、
「本気で言ってんのか?」
眉根を詰めた表情で彼は続ける。
「念のために聞いてやるがあの梅干はお前が食べたわけじゃないよな?」
「ああ、俺じゃない。ゴキ子が食べた」
「全部だな?」
この質問に何の意味があるのかわからないが、隠すことでもないので首肯で答えを示してやる。
すると、
「お前は最低だ!」
……いやその発想はおかしい。
「なんでゴキ子が梅干食うと俺が最低になるんだ馬鹿野郎。わかりやすく説明しろ」
「いいかクズ野郎、よく聞け。今の会話をわかりやすくするとこうだ」
言葉を切って、山田弟は一度大きく息を吸い、
「従兄妹同士で間違いを犯した坂田とゴキ子ちゃんは駆け落ちを決意する。数多の刺客、張り巡らされる謀略、そんな大スペクタルズ! 艱難辛苦をともに乗り越えて、二人は漸く安住の地となる一軒の寂れたアパートへと辿り着く! その時、ゴキ子ちゃんのお腹には新しい命が! 新たな命を育む決意を固めるゴキ子ちゃん。しかし、その事実を頑なに受け入れようとしない坂田! 衝突する二人は幾度話し合っても平行線のまま。今日もゴキ子ちゃんは涙ながらに梅干を口に運ぶのであった! どうだ!?」
「どうだじゃねえよ!」
一人で勝手に盛り上がって、ジェスチャー付きで熱弁を振るっていた馬鹿を睨みつける。出来ることなら殴り飛ばしてやりたいが、脚の痺れが取れるまでは我慢だ。その代わりに口を動かす。
「さっきの会話をどう読み解いたらそうなる!? 共通点は梅干をゴキ子が食ったってことだけで、後は全部、手前の妄想じゃねえか! 梅干→酸っぱい→妊娠って、連想ゲームやってんじゃねえんだぞ!」
「俺じゃなくて姉さんのだ!」
「胸張って言うことじゃねえよ! 姉弟揃って妄想力豊かか!」
馬鹿は左手で後頭部を掻き、
「いやあそれほどでも……あるかな?」
「ねえよ! つか照れんな! ったく、どんな意思疎通の仕方してやがる。耳打ち一つでそこまで伝わらねえぞ普通」
「姉弟だからな繋がってんだよ。あ、これ心のことだぞ。お前みたいに肉体的にとかそういう話じゃないから」
「わかってるよ! 綺麗なこと言ったつもりか!? 間違った注釈の所為で台無しだ馬鹿野郎!」
「何言ってやがるパーフェクトだろうが!」
「どこがだ。一から十まで全部不正解だよ!」
「なら正解を言ってみろ!」
「ああ、いいかよく聞け――」
言って、乱れた呼吸を整える為の間を設ける。
そして、お互いの息遣いが落ち着いたところで、あのな、と言ってから、
「あれは梅干を始めて食べたゴキ子が、それを気に入って全部食っちまった残骸だ……」
こうして本当のことを口にしてみると、これはこれで説得力の欠片もない話である。実際問題、眼前の馬鹿野郎もこの話を信じられないようで、
「いやいや、高校生で梅干食ったことないって、それは無理があるだろ」
顔の前で手を左右に振る山田弟に向けてため息を吐き、
「どうしても信じられないなら本人に聞け」
いくら女性は風呂が長いとはいえ、病人で、しかもその身体を拭くだけならそう時間はかからない。そろそろ戻ってきてもいい頃だ。
そのことを山田弟も分かっているのだろう。彼はこちらの言葉に頷き、
「そうする」
「――」
と、そこでふと思い出したことがある。
馬鹿との言い争いに熱くなった所為で忘れていたこと、それは、
……あいつ風呂嫌いじゃなかったか?
二日前の夜、害虫娘は博士に拉致され、始めて風呂というものを経験した。その時の反応を考える。彼女は身体を洗うことを嫌がってタオルも巻かずに飛び出してきたのだ。
……ない、わけではないんだよな。
「おい、落ち着いたと思ったら、何突然宙を捏ねてやがる」
馬鹿の言葉にハッとなる。前を見ればたしかに自分の両手が、何もない宙を下側から揉み上げるように捏ねていた。
「き、気にするな……」
……しかし柔らか――じゃない。
頭を振って邪な思考を排除する。
そして改めて考える、昨夜はどうだったかを。
昨夜、博士は夕食を食べるだけ食べて、そそくさと帰宅してしまった。なので害虫娘は一人で風呂へと行ったのだが、
……五分と経たずに出てきたな。
ここまで考えて疑問は確信に変わった。あの害虫娘は間違いなく風呂嫌いだ。それも筋金位入りの。
「なあ」
卓袱台に戻って茶を啜る馬鹿に声を掛ける。
「なんだ?」
「先輩とゴキ子は風呂に行ったんだな?」
「ああ、元々、着替えや風呂みたいに、男のお前じゃ世話できない部分の補助のために来たわけだからな」
なるほどそれで二人が風呂に行ったことを知っていたのかと、今更疑問が一つ解決するが、最早どうでもいいことだった。
「で、それがどうかしたのか?」
続いてきた山田弟の言葉に、
「いやな、その、これまた大したことじゃないんだが――」
その先を口にしようとして、何故か嫌な汗が浮かぶのを感じた。夏の熱さからくる汗とは違う。背筋が凍るような錯覚を呼ぶ汗だ。頭の血がサッと引く感覚。嫌な予感が加速する。
言い淀んだこちらに対して山田弟が、
「言いたいことがあるなら言えよ」
その言葉に、一度喉を鳴らしてから、
「あのな、あいつ風呂嫌――」
言い切る前に嫌な予感が来た。
激しな音と共にリビングと廊下を繋ぐドアが開け放たれたかと思うと、そこを影が突っ走る。
露出した肌の色と叫びを持った影は真っ直ぐにこちらへと駆けてきて、
「坂田さーん! 助けてくださーい!」
うつ伏せになっていたこちらの背に、加速の勢いをそのままにして飛び乗ってきた。




