4匹目:
仁王立ちのゴキ子が放った言葉の後数秒の間、全てが停止していた。
馬鹿を黙らせて鍋を食べることに集中していた坂田も、一度起き上がり、丁寧な動作で食器を卓袱台に戻し、わざわざ倒れ直してからのたうちまわっていた山田弟も、ゴキ子に餌付けを続けていた山田姉さえも笑顔のままで硬直していた。
そんな空気の中でただ一人。したり顔のゴキ子だけが、同年代女子の平均に比べて幾分小さな胸を張っている。
しかし、固まる三人に気づいたゴキ子は首を傾げ、
「あの、皆さんどうかされましたか?」
「……お前はちょっと黙れ」
これ以上、下手なことを言われたら事だ。
だが自分の言った言葉の重大性を理解できていないゴキ子は困惑し、こちらと山田姉を交互に見て、
「え? え? どうしてですか? 坂田さん。お姉さんも、なんで何も言ってくれないんですか?」
「ゴキ子ちゃん……。取り敢えず座って黙りましょうね」
「ええ!? ひぃ……」
山田姉にまで黙れと言われたゴキ子は涙目で、山田姉からあからさまに距離を取って座った。ゴキ子が山田姉から離れたということは、こちらとの距離が縮むということで、
……まずい。
腕に絡みついて密着状態のゴキ子ではなく、山田姉の状態が非常にまずい。いやいや、前者も精神衛生上、非常に宜しくないのだが。
椀を前に置いて、箸を揃えてその上に乗せた山田姉は、顔を俯かせ小刻みに震えている。正面から僅かに見える口元は弓を描き、確かに笑の形なのだが、あれは――、
……間違いなくキレてる。
「ふふ……」
証拠というように山田姉が口の端から声を漏らす度、彼女に背を向けるような体制になった弟が頭を抱えて激しく震えている。流石、日頃から折檻を受けている人間は違う。気配というものに敏感だ。
「坂田くん……。お話があります」
怒りの対象が自分ではないことがわかった弟が、こちらに親指を上げて来るのをフックで黙らせる。
「念の為に聞きますが、言い訳を聞いていただけますか?」
「いいわよ――」
言い訳という名の事実説明を許可され、ほ、と息が出た。だが、
「――全部聞いてから全て却下するけど」
……予想以上にお怒りでいらっしゃるー!?
よく考えてみると、こちらは悪いことは一つもしていないわけで、怒られる謂れはないのだが、それを言ったところで無駄だろう。
山田姉は、俺がゴキ子に“そういう言葉”を教えたと思っているはずだ。実際には博士が吹き込んでいるわけだが、ここでそのことを説明しても信じてもらえるとは思えない。それどころか博士の所為にするとは何事かと、余計な説教を食らう羽目になる可能性さえある。
厄介なのは山田姉がゴキ子の正体を知らないことだ。彼女の中では、ゴキ子は俺の従兄妹ということになっている。博士との関係は、仲の良い教え子の従兄妹に世話を焼いている、とその程度にしか考えていないだろう。
ゴキ子の正体を隠すためならそれでいいのだが、今はその所為で、ゴキ子の知識の殆どが博士による刷り込みだという言い訳が使えない。
それともう一つ問題がある。
ゴキ子がどこであんな言葉を仕入れてきたのか、本当の出処が明確ではないということだ。
当然、俺が教えた記憶はない。
博士が吹き込んだ前提で思考しているが、万に一つの確率で違うかもしれない。
最後はゴキ子自身がどこかで学んだ場合。これも考え辛い。なにせ彼女がこの家に来てから、ほとんどの時間を共に過ごしている。その間に仕入れたのであれば俺が知らないはずがない。
……どうする?
自問して、やはり答えは得られえない。
この二つの問題をクリアして、尚且つ山田姉が納得いく説明が出来なければ、結果は葱折檻だ。それも今まで見たことのないレベルで行われること請け合いの。正直なところ生きてもどる自信がない。
「せ、せめて食後にしませんか?」
兎に角少しでも時間を稼ごうとしての提案。これが通れば、なんとか山田姉の怒りを沈める手立てを思いつくかもしれない。
「そうね。そうしましょう。その方がゆっくりお話もできますし……。ええ、他にも聞きたいことがありますから、まとめて済ませてしまいましょう」
一息。
「命の問題でもありますから」
……なにか途轍もない誤解が生まれている気がする。




