1匹目:
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目を覚ました少女が最初に感じたのは、背に当たる硬いマットレスの感触と、背と尻からくる鈍い痛みだった。
ベッドの上で仰向けになって眠っていた少女は、未だ醒めない意識の中、薄く開いた目を使い辺りを見回す。すると、そこには見慣れぬ部屋があった。
丸い卓袱台を中心とした洋室の片隅には、何故か大量の雑誌が積み上げられており、部屋の外からは洗濯機の回る音が聞こえてくる。西日が射し込む窓は開け放たれ、真夏の生温い風が少女の髪を揺らす。
……ここはどこでしょう?
重く軋む体を起こして考える。
自分はどうしてこんなところで眠っているのか、と。
自分は家に帰る途中だったはずだ。ただ、何かに怯え、酷く焦っていたことを覚えている。
さらに記憶を遡ってみると、家路につく前は誰かと遊んでいたような気がする。誰と、何をして遊んでいたかまでは思い出せないが、久しぶりに全力で体を動かし、とても晴れやかな気分だった。
しかし、遊び終えてから帰宅しようとするまでの記憶が曖昧だ。
「むー」
何か重大なことを忘れているような気がするのだが、どうしても思い出せない。
口をへの字にして唸ってみても、やはり思い出せないものは思い出せない。頭の中に靄がかかっているような感覚とは、こういうことを言うのだろう。
気持ちはよくないが思い出せないものは仕方がないと、そう思うことにして、少女は自身のおかれた状況を改めて確認することにした。
捲れたタオルケットを掛け直し、再び室内を見渡してみる。
綺麗な部屋だ。
生活感を感じさせる家具の上には埃一つない。テレビ横に置かれたゴミ箱の中は空っぽで、床には髪の毛一本見当たらない。ベッド脇に設置された本棚の中身は、判型毎に分けられ、さらに五十音順できちんと整頓されている。
ここに住んでいる人間は、几帳面で相当な綺麗好きなのだろうと推測できた。
「んんー?」
何かがおかしい。
目に映る景色に違和感がある。
その違和感の正体を確かめるために少女はベッドから降りることにした。
床に立ってみるとさらに違和感が増した。
だが、なんとなく違和感の正体がわかってきた気がする。
……低いですねー。
何が、と聞かれると困る。しかし全てが低い、いや小さいと感じるのだ。
もしかするともう一度眠り、目覚めると、今度は全てが自分を見下ろすほど大きくなって物語の中の主人公の気分が味わえるかもしれない。もしそうなら空飛ぶ島や、高貴かつ知的な馬の種族にも巡り合えるだろう。物語の中の彼は船旅の末、そういったものと出会ったらしいが、自分は眠るだけで、それを体験できるとは少し得した気分だ。
先程から下らないことばかり考えている自分を自覚して、ふふ、と笑みが漏れた。
思いがけず緩む口元を隠そうと手を当てると、また奇妙な感覚に襲われた。
その理由を知るために両腕を前へと突き出してみる。握り拳を作り、畳まれた指を一本一本伸ばしていく。十本すべての指を伸ばし終えると、今度は逆に一本一本折り畳む。その動作を何度か繰り返して、
「……随分、器用に動く手ですね」
言いながら全身を動かしてみる。その場で足踏みをし、腰を捻って、首を回す。
やはりよく動く身体だ。
だが何かが足りない。ただ、足りない分増えている気もする。というよりも肉体そのものが別の何かに変わってしまっている。
「これは流石に困りましたね……」
ここまでの情報を鑑みるに、自分の肉体が別の何かに変化していて、それは不足を感じる部分もあるが、最低限、機能として申し分ない。しかし、その大きさ故、
「家に帰れません」
これには困った。
帰り道もわかるし、ここに長居する理由もない。それに明るい時間帯に動くのは嫌いだ。
出来ることなら早く家に帰って休みたい。
……とりあえず試してみましょう。
何事もチャレンジだ。無理ならまた別の方法を考えようと、少女はそう思
い。何を思ったのか壁の方へと歩いていく。
少女が壁の前へと辿り着いて膝をつき、腹這いになろうと両手を床に伸ばした時、彼女は背後からする音を聞いた。
それはドアノブを回す音。
その音に反応して少女は振り返る。
そこには開かれたドアの前に立つ一人の青年がいた。
青褪めた顔の彼は、身を震わせて少女を指さし何かを言おうとしている。
口をパクパクと動かす彼の姿を、なんだか餌を求める鯉のようだなどと思いながら、少女は青年を観察していた。
なんだか見覚えのある顔だ。
何処かで会ったことがある。
青年の顔を見つめること数秒、少女は思い出した。
「あー!」
それは少女が忘れていた記憶の空白部分。少女が怯え、逃げるように家を目指していた理由。そのすべて。
「あ、あなたは」
少女が急に声を上げ、青年の身体が大きく跳ねた。
しかし少女はそんなこと気にも留めずに続ける。
「ひ、人殺しー!」
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