4匹目:
説教を終えて大人しく休み始めたゴキ子を余処に、ここ数日で溜まっていた雑事を片付けていると約束の時間はすぐにきた。
ゴキ子に断りを入れたあと、改めて一時間の短さを感じながら部屋を出て変態白衣の部屋へと向かったのだ。
同じアパート、それも隣室に行くのに然程時間はかからなかった。
変態白衣の部屋の前に立つと、ドアノブに掛かったビニールが目に入った。中身が、ゴキ子用の薬だということは確認せずともわかった。
変態白衣が直接渡しに出てこない理由まではわからないが、昨夜の件で、何となく顔を合わせ辛いこちらとしては有難いことだった。
ドアの隙間から筆舌し難い色の煙が漏れ出ていたが、
……あれは見なかったことにしよう。
どうせまた碌でもない実験をしているに違いない。
そんなことを考えつつ自分の部屋へと戻ったのだが、
「……何をしているんですか?」
そこいるはずのない人物がいた。
まったく何処から侵入したのか。
自分が外に出ていたのは数分程度。それも隣室のドアの前までだ。短時間の外出だったので部屋に鍵はかけなかったが、自室は二階の階段から近い角部屋で、登ってきたのを見落とすほうが難しい。
……忍者かなんかか?
くだらない思考を打ち切って、言った言葉の行く先は、ゴキ子のいるベッドの上、眠るゴキ子に覆い被さる黒髪だ。
抵抗するゴキ子を押さえつけた黒髪は、こちらの声に振り向き、
「あらー、おかえりなさい。今、良いところだから少しだけ待ってね?」
笑を帯び間延びした声の主は山田姉だ。
そして、姉がいるということは、
「姉さーん、家主がいないからって好き勝手やっちゃダメだよ」
聞こえてきた男の声は、しかし部屋の中で発されたものではない。
発生源は正面にある窓の外。お世辞にも広いとは言えないテラスからだ。
見ればテラスには手摺がある。そして、そこには下から脚立が掛けられており、
「姉さーん、聞こえてるー?」
続く言葉と同時に登ってきた金髪がいた。
手摺の向こう頭だけ出した金髪と目が合う。すると金髪は、
「おー、おかえり」
引きつった笑みを見せてそう言った。どうやら、自分たちの行いが責められて然るべきと、それくらいのことを理解する頭はあるらしい。
「ただいま馬鹿野郎。覚悟はいいな?」
問いかけの答えを待たずにベランダへとダッシュ。幸い一直線で遮蔽物は卓袱台だけ。
こちらの動きを見た金髪は焦った動きで脚立を登りきろうとするが、
「おいおい焦ると危ないぞ」
言いながら卓袱台を左に避ける。
ベッドの横を通り抜ける時に、姉の方があらあら、などと声を上げているが当然スルー。
「待て待て! これには天保山より高く、アゾフ海より深い事情があるんだ!」
……オーケー。その事情は低さも浅さも世界一だ。
窓枠を超えてテラスへ出る。
身体の右側を金髪に向けて、
「奇遇だな。こんなところで会うなんて」
「そ、そうだな。すごい偶然だ!」
「ああ、その通りだ」
「あれ? お前、天文学的確率で巡り合えた御友人様の頭を掴むって、それおかしくね?」
「そんなことはない。俺はこの感動を伝えたいんだ。部屋の中で病人押さえ付けてる姉の分もまとめてな」
「姉さーん! 姉さーん! 可愛い弟が貴女の分まで痛めつけられそうですよー」
金髪がこちらの向こう、ベッドでお楽しみ中の姉へ救いを求める声を飛ばす。しかし、姉は、んー、と唸ってから、
「坂田くん、やっちゃって」
金髪の顔が青く染まると同時に、
「どんまい」
右手に全力をぶち込んだ。
「いてええ! マジ! マジで痛いから! 離せって!」
ヘッドロックを食らった金髪が暴れ、その所為で掛かっていた脚立が外れて倒れた。
金髪はなんとか手摺にしがみつくが、こちらはそれに構うことなく、彼の懇願通りに右手に込めた力を緩めていく。
「うわ! やばい! 坂田、これはマジでシャレにならん」
「どうした? 離して欲しいんだろ?」
「待て!」
「待て?」
「うわ!? すいませんでした! 待ってください!」
「よし」
こちらの言葉に安心したらしく、一度息を吐き、
「持ち上げやがってくださいますね?」
上からなのか遜っているのか分かりづらい問いに、
「そうだな。折角だからお姉さんに聞いてみるか?」
顔だけを姉の方に向けると、彼女がこちらに向けて右の親指を立てた。
だから手を離し、
「弟、残念だ」
しがみつく金髪の腕を殴りつけた。
「姉さんの人でなしー!!」
叫びとともに金髪は背から落ちた。




