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戦いはその熾烈さを増していた。
原型を失い床に投げ捨てられた雑誌は優に二桁を超え、さらに増え続けていた。
青年は飛び散る汗を気にも留めず、床にある雑誌を拾って丸めて握りしめ、敵に向かって叩き付け、得物が使えなくなれば投げ捨てて、また新しい得物を振りかぶる。
当初、利き手だけで繰り返されていた一連の動作は、今や両手を用いた二刀流での猛連撃だ。
しかしそれさえも、敵はひらりひらりと躱してしまう。
舞を舞うような優雅さで宙を行き、地を駆けて、そして最後は決まって卓袱台の上へと戻り行く。まるでここが私の舞台だと言わんばかりに。
その姿は、追い縋る青年にとって挑発以外の何物でもなかった。当てられるものなら当ててみろ、とそう言われているようで腹立たしい。
はっ、と短く吐き捨てて両の得物を投げ捨てる。
そして次の得物を握り込む。この雑誌が最後の二冊。これで仕留められねば敗北必至。二年間という短期間で築き上げた青年の小さな理想郷は、一匹の黒い害虫によって征服される。
許すわけにはいかない。大学入学を機に実家を離れ、ようやく掴んだこの自由を見す見す手放すようなことを出来るはずもない。
もはやこの戦場に後退の二字はない。
覚悟は決まった。
策はある。
あとは当たって砕けるだけだ。
行く。
右の雑誌を振りあげ、見っともない咆声を引き連れて。
狙いは卓袱台中央、こちらを見上げる憎き敵。
突撃する。
全身全霊を込めた右の一撃が黒の体躯を穿ちに走る。
「――!」
天板にヒットした雑誌が真ん中から折れ曲がるほどの一撃を、しかし敵は回避した。
背の羽を羽ばたかせ、低い空へと躍り出る。
青年にとってそれは見知った動き。雑誌を振り抜き動けぬ彼の顔面を狙うカウンター。
その通りに敵は来た。
だから青年は次の動きを作る。
右足、今、左足で踏み込んだために体の後ろ側にあるその足には、ほとんど体重が乗っていない。その足を滑らせたのだ。幸か不幸か、彼の足元には脱ぎ捨てられていたシャツが一枚、床はフローリング。これなら素足だろうと関係ない。
果たして右の足は床を滑り、バランスを崩した身体が右へと倒れ込んでいく。
躱す。
いや違う。これは回避のための動きではない。これこそが青年の策。飛来する弾頭の如き敵に対し、最後の一撃を見舞うため敢えて転ぶことを選んだのだ。
「くらえ!」
今までの感情に任せた咆哮とは違う。明確な意思を持った言葉とともに、最後の一撃が敵に向かって放たれる。
倒れ行く中、重心の呪縛から放たれた上半身を強引に回し、左手の得物を敵の真横から突き入れた。
「……やったか?」
手ごたえはあった。
しかし視線の先に敵の姿はなく、代わりというように雑誌の手元から黒い体躯が零れ落ちた。
落ちた影は、きっちり床に着地して戦場から遠ざかろうとしている。
「――っ」
倒れた青年は苦悶の声を漏らしながらそれでも考える。
どうして?
確実に攻撃は当たったはずだ。しかも何故、雑誌の先端ではなく手元から敵は落ちてきたのか。
その答えは彼の握る雑誌にあった。
丸められた雑誌はたしかに振りやすく、叩き付けるのには向いていた。だが、その中心は他の鈍器と違い空洞になっている。そこをつかれたのだ。
青年の攻撃はたしかに敵にヒットした。見た目には完全だったそれは、しかしその実、敵の尻側を穿ったにすぎない。それも頭側を雑誌の空洞部分に置いた状態で、だ。
その結果、敵の身体は空中で回転。頭部が雑誌へと向いたタイミングで敵は羽を畳んで空洞へ逃げ込み、あとは知っての通りである。
ただダメージはあった、今、ついに逃走を始めた敵の動きは酷く鈍い。
すぐにでも起き上って追撃すればあるいはとも思うが、やはり無理だろう。遅いと言っても先程までと比べればという程度で、青年の状態を考えれば充分すぎる速度は保っている。
なにか手はないだろうか……。
敵の速度を上回り、なおかつ仕留める威力を持ち、しかも倒れたままで繰り出せる。そんな夢のような攻撃手段が……。
「……」
ある。一つだけ思い当たるものが。
しかし、それを成す為の武器がない。雑誌では駄目だ。速度とは出ても威力が足りない。仮に足りても敵まで届かない。
空にした両手であたりを探っても、床に落ちているのは雑誌と衣類だけで代わりになりそうなものがない。
万事休すか、と諦めかけた時だった。右手に触れるものがある。握ってみるとそれは円筒形で適度な重さと硬さがある。
ペットボトルだ。未開封500ミリリットル入りの炭酸飲料。
これならいける。威力も速度も申し分ないものが出せる。敵まで確実に届く。
時間がない。だから、
「うらっ!」
倒れたまま身体だけを回して敵の方へ向け、放った。
正真正銘最後となる一撃。
それは投擲だった。
小細工はない。
猪口才な策など以ての外。
理想的な投球姿勢など望むべくもなく、無様に放たれた最終兵器は、しかし敵へとまっすぐ飛んでいく。
そして、その背を捉え、今度こそ、その小さな命を刈取った。
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