2匹目:
「愚民、私は反省などしないからな!!」
博士は、頭にゴキ子を乗せたまま立ち上がり、そう言い放った。力強い声だが言っている内容が負け惜しみ全開で、その姿からは『哀愁』などという言葉を想ってしまう。だからだろう博士への対応がなんとなく同情的になってしまい、
「お、おう、そうだな。振り返るだけが人生じゃないもんな」
こんな、意味不明な返答をしてしまった。
「……愚民、そういうリアクションは余計に辛いのだが」
結果として博士の心を抉るという最悪の状態を生み出してしまった。
「……」
床に膝をつき、それきり動かなくなった博士。
「……」
そんな博士に、なんと声をかけて良いのかわからない俺。
「――♪」
未だに博士の頭をガブガブやっているゴキ子。
最早、誰ひとりとして当初の目的を覚えていない。そんな状況だった。
何とかしなくてはならないと、そう思う。
しかし、片や再起不能の変態、片や思考停止噛み付き中の害虫。前者は素の部分を出しすぎて完全にキャラクターが崩壊している。後者は、あれだ、害虫時代の本能に準じているだけだろう。せめて、人の言葉に耳を傾けてくれる程度の理性が残っていることを願うばかりだ。そうでないと本当に打つ手がなくなる。
つまり、ゴキ子の正気度が高いうちに彼女を何とかしなくてはならない。
「もきゅ♪もきゅ♪」
……あの目は既に手遅れではなかろうか。あれ、止めようとしたら今度は俺が噛み付かれるパターンのやつだろ、絶対。
くっそ、厄日か? 厄日なのか? いや、昨日からだから厄日ではないな。なら、厄、厄年か一年もこれが続くのか? 身が持たない……。
考えれば考えるほどテンションが下がる。仕方がない、考えるのを止めよう。そうだ『考えるな、感じろ』って、あの有名な龍が燃えている映画で武闘家も言っているじゃないか。それに昔近所に住んでいた桑井さんも言ってた。あの人、手を使わずに物を飛ばしたり、光る剣を振り回したりで、人としてかなりアレだったけど元気にしているだろうか?
……
と、とにかくフィーリング! フィーリング大事!
Don’t think. Feel! Don’t think. Feel!
よし! テンション上がったな。このテンションを維持してゴキ子を止めよう。ただ、半分暴走気味のテンションを人に見られるのは恥ずかしい。だから、精神的にはこのテンション。しかし、言動はクールに。
クール
Cool.
Kool.
So kool.
Be kool.
Oh! Kool!!
俺 kool!!
もう何がなんだかわからないが、これはいける、確実に。
「ほら、そろそろ止めとけ。もう充分噛んだだろ?」
ゴキ子の首を掴んで博士の頭から引き剥がそうとして、しかし、
「あふぉふふぉひふぁへー」
頑なにゴキ子は博士から離れようとしなかったのだ。
「だーめーだ。いい加減にしろ」
「ひーふぁーれふー」
この害虫、予想以上に頑固である。何をそこまで博士の頭に固執するのか理解できない。いや、する気もないのだが。
このままでは埒があかない。だが無理やり引っ張ったところで外れそうにない。今も、それなりに力を込めて持ち上げているのだが、
「顎を緩めろ。博士の体まで浮いてんじゃねーか!」
恐るべき害虫パワー。博士の体重は同年代の女性と比べても軽いほうだが、それでも顎の力だけで持ち上がるものではないのだ。それほどの力で噛まれ続けている博士。
……あれ? 真面目にピンチなんじゃないかな?
「変態の頭より美味いもの食わせてやるから離れろ! このままだと冗談では済まなくなりそうだ!」
言った瞬間、ゴキ子が博士を開放した。
……なるほど、食い物か。
思いながら、ゴキ子を目線の高さまで持ってくる。彼女は今、俺に首を掴まれ、両手と両足をだらんと垂らし、大人しくしているのだが、その目は未だ輝きを失ってはいない。恐らく、俺が言った美味しいものを催促しているのだろう。
「博士を元に戻してからな」
……噛み付かれた。それも顔面に。
「痛い! 痛い! 離れろこら!!」
博士が叫んだ理由がわかった気がした。
「はなひへふぉふぃへれふぁ、はふぇほほー」
どうやら今すぐ件の食べ物を寄越せということらしい。つい数十分前に朝食を食べたとは思えない食いしん坊っぷりである。
とにかく食物を渡すのが手っ取り早く解決する方法らしい。
ゴキ子を顔からぶら下げたまま、部屋を出てキッチンへ。そこにある棚から一つの袋を確保、開き、中身を一枚、濃い赤のそれを、
「ほれ、これでも食って大人しくしてろ」
「ふぁーい」
ようやく顔から離れたゴキ子に咥えさせて、
「今のうちに博士をだな」
実は博士を元に戻すのは簡単だったりする。気が進まない、本当に気が進まないやり方ではあるのだが、今は手段を選んでもいられない。
「はー」
ため息を一つ。
部屋に戻った俺は、博士のところへ、ゴキ子は床に転がり、四肢をばたつかせながら俺が渡した物を食っている。
「……」
博士の横に膝をつき、耳元に口を寄せ、
「――」
びくん、と博士の体が震え、そのまま博士は勢いよく立ち上がり、
「ははは!! 今の言葉に二言はないな愚民! 約束したからな!」
いきなりのことに驚いたゴキ子が博士を見て目を丸くしている。ただ、その口にはしっかりと咥えられているものがある。それを見た博士が、
「なんだ、ゴキ子君、ビーフジャーキーなんか咥えて。まあいいか。それよりもだ!」
今度は足元にいる俺に視線を合わせ、
「愚民! 先ほどの言葉、絶対だからな! 忘れるなよ!
いいか愚民! 今! 私のテンションは最高潮だ! 熱いパトスが迸っている! これはもう少年や少女が神話になった程度では止められんからな!!」
心底楽しそうに言ってくるのだった。




