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戦場は拡大していた。
始め卓袱台の上を主戦場としていたその戦いは、今や床や壁を筆頭にベッドやテレビ、他部屋中のあらゆるものを巻き込んで繰り広げられている。
青年は丸めた雑誌を一冊右手に握って振り下ろす。
対し敵は、卓袱台の上、黒い体躯を滑らせるようにして回避。端しに追いつめられると飛び降りて、床の上を疾駆する。ときには散乱した雑誌や脱ぎ捨てられた衣類を遮蔽物として、それでも回避が追い付かないと悟ると今度は壁へと飛び立つ。
薄く透けた茶色い羽根を羽ばたかせるその姿は悪魔のように見えて恐ろしく、彼の焦りを加速させる。
「――!」
悲鳴にも似た咆哮を上げた青年は、全力の一撃を標的へと叩き込む。
だが彼の放った一撃は、いとも容易く躱されてしまう。
そして反撃と言わんばかりに敵は来た。
壁から離れ、一直線に青年へと向かい空を翔ける。
全力で雑誌を振ったのが失敗だった。彼の体は左前方へと折れていて避けようにも体を動かせない。
判断は一瞬。
彼は振り抜きの勢いを殺すことなく、手にしていた雑誌を投げ捨てた。そのまま身を回し、空になった右手で床に脱ぎ捨てられていた一枚のTシャツをホールド。そのまま体を一回転。数日前に着用していたそれを、敵に向かって投げ付ける。
汗が乾いた所為かわずかに酸い臭いを放つそれは、空中で大きく広がり見事に敵の猛突を防いで見せた。
ほ、と安堵の息を吐くのも束の間、敵は既に次の動きへと移っていた。
床に落ちたシャツから抜け出し、青年の足元を駆け抜ける。
僥倖。
敵の動きは青年にとって千載一遇のチャンスだった。
敵は彼の足元、足を上げて踏みつけてやれば、それですべては終わる。
踏みつけろ、本能はそう命令してくる。しかし理性がそれを否定する。お前は素足でアレを踏みつけるつもりか、と。
出来ない。
彼には出来なかった。汚れ足は後で洗えばいいとか、そんな単純な話ではない。
想像してしまったのだ。踏みつける瞬間に足裏を襲うであろう感触を。
真上からの圧力で足が折れ、触覚は千切れ、それでも逃れようとのた打つ敵の身体から中身が飛び出す感触を。
砕けた甲皮と飛び出した内臓の感触など、想像しただけで鳥肌が立つ。実際に体験してしまえばトラウマものだろう。
そのうえ後始末までしなければならない。足の下でバラバラになった敵を自分は直視できるだろうか? 否。不可能。足裏にこびり付いた破片の処理も加えれば尚更無理だ。とても耐えられない。
そこまで考えて悍ましさに身が震えた。
その一瞬の隙を敵は見逃さない。
行った。
脇目も振らず全力で敵が彼の足元を抜けていく。
しまった、と後悔してももう遅い。
敵は高速で、あっという間に彼との距離を稼いでいく。
もう何をしても間に合わない。今から振り向いたところで敵は遥か彼方にいることだろう。如何に膂力で勝る人間でも、速度の一点においてソレに敵うはずもない。いやもし同じサイズで相対したのであれば、筋力でも圧倒されることだろう。
逃げられた。
悔いる心の片隅で青年はこれでよかったのではないか、とそう思ってもいた。
このまま敵が逃げ帰ってくれればこの争いは終わる。あとは散らかった部屋を片付ければ元通りだ。
部屋のどこかに隠れる敵に怯えて過ごすことになるが、それも一週間もすれば忘れてしまうだろう。
ああ、それでいい。いやそれがいい、と頷き、緊張で硬くなっていた身から力を抜いていく。
一度大きく伸びをして、部屋の片づけをしようと壁に背を向ける。
すると振り返る動きの中で視界の隅に妙なものが見えた。
それは、そこに居るはずのないもの。居てはならない黒い影。
何故? どうして? などと疑問しても答えは返ってこない。
ただ、振り返った先には認めたくない現実がこちらを向いて鎮座しているだけ。夢か幻であってくれ。そう願ってみても、そこにあるものが消えることはない。
頬を抓れば痛いあたり、やはりこれは現実だと認めざるをえないらしい。
青年は再び床から雑誌を拾い上げる。
もう考えるのは止めようと、アレが逃げなかった理由や、再び卓袱台の上に陣取っている理由なんて考えるだけ時間の無駄だ。そんなことをする位なら、アレを一刻も早く駆除する手立てを考える方がよっぽど建設的である。 と、そんな風に思ってみても、彼の頭では叩き潰す以外の手段を見つけることはできず、結果としてもっとも原始的な方法をとることが決定した。
そんな青年の決定を知ってか知らずか、卓袱台の上の敵は動かぬまま、二本の触覚を優雅に揺らして彼を見上げていた。
時刻は正午。外では元気に蝉が鳴き、テレビの中ではスーツ姿のグラサンがウキウキウォッチングの真最中。観客のリズミカルな拍手が終わるとともに、こちらは第二ラウンドと洒落込もう。
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