1匹目余談:勘違いとちょっと真面目な博士
「なぜ、そんなに嫌がる?」
与えられた問いに対して、ゴキ子が思うことは一つ。何故、理解してもらえないのか、だ。
それはもしかすると、彼らにとって、体を洗うというのは当たり前のことだからかもしれない。だが、ゴキ子にとって、その行為は命に関わることだ。
その理由は自分の体、いや、正確にはその肌を覆う油膜にあった。
この油膜は、ゴキ子が人間の体を得る前、つまり、まだ彼女がゴキブリだったころ、彼女を細菌や化学物質などから守っていたものだ。体を洗うということは、その守りを失うということであり、著しい免疫能力の低下を意味する。
しかし、これはゴキ子の勘違いであり、実際のところは違う。ゴキ子は体が人間になった時点で、油膜は消え、人と比べて遜色ない免疫能力を手に入れている。つまり、ゴキ子が行っている抵抗は、全くの無意味である。
その事実に誰も気付かないまま話は進む。
「体を洗ってしまうと、私の体を覆っている油膜が流されてしまいます。そうなれば、私は死んでしまうかもしれません」
目尻に涙を浮かべ、ゴキ子は思いのままを口にした。
だが、ゴキ子の下敷きになっている坂田は、ゴキ子の言葉の意味がやはり理解できていないのだろう、困り顔でゴキ子を見上げるだけだ。
「ゴキ子君、君はどうやら、大きな勘違いをしているようだ」
二人の会話を聞いていた博士が口を開いた。
博士はゴキ子の発言を聞いて一つのことに気がついたのだ。そのことを未だ理解できないゴキ子に説明する。
「まず結論を言おう。ゴキ子君、君の油膜は人の身体に変わった時点で消えている」
「え?」
ゴキ子が素っ頓狂な声を上げる。
無理もない。これまで自分を守ってきたものが、失われている事実に、彼女は今まで、気が付いていなかったのだから。
「いいかね、言いたいことは山ほどあるだろう。だが、その前に私の説明を聞きたまえ」
一息を置いて博士は続ける。
「いいか、今のゴキ子君は人間なのだ。君は、その意味を正しく理解する必要がある」
「正しく理解ですか?」
「そうだ。君は現在の体と、今までの体との違いについて知らねばならない」
「さて、ここから先の説明は長くなる。一旦、風呂へと戻ることにしよう。いつまでもこの状況では愚民も辛かろう?」
見やる視線の先にはゴキ子の下敷きにされた坂田の姿がある。
坂田は白目をむき、顔を赤くして動かなくなっていた。博士は敢えて無視し続けていたが、彼は少し前からこの調子だ。
異性への耐性を持たないの青年の上に全裸の少女が被さり、剰え、そこで組んず解れつしているのだ。坂田にとっては強すぎる刺激だったのだろう。
「さ、坂田さん!?」
ゴキ子は、博士の言葉で自分の下にいる坂田の状態に気付き、驚きの声を上げた。
ゴキ子が口を開いたということは、ゴキ子の体が多からず動きを得るということで――
「うっ……ふぅ」
それは坂田の状況を悪化させていた。
「これ以上は本当にまずいな」
坂田の危機を感じ取った博士は、ゴキ子の首根っ子を掴み、
「はーい、お風呂に戻るぞー」
「え、あ、ちょ、博士!?」
ゴキ子を浴室へと引き摺っていった。