1匹目:
◆
結局、少女を送り届けるという当初の計画は見事に頓挫し、トリップしたままの少女と、こちらの話に耳を傾けようともしない博士を、半ば引き摺るようにして帰宅することとなってしまった。
「さあ洗い浚い吐いて頂きましょうか……」
そして始まる尋問タイム。
「なんだその覇気のない喋り方わ。聞きたいことがあるならハッキリ言いなさい」
他人の部屋で思いっきり寛ごうとしやがった博士を、とりあえず正座させたまではよかったのだが、不遜な態度は変わらぬまま、一切反省の色を見せようとしない。当人の中では謝るようなことはしていない、とそんな認識なのだろう。
腹は立つが博士の傍若無人な振る舞いを一々気にしていると、それだけで夜が明けてしまう。
「なら単刀直入に聞くが、国民的害虫を他人様の部屋に放流したんだな?」
「君の言うその害虫がゴキブリのことならその通りだ」
ゴキブリという単語に、博士の横で同様に正座していた少女の肩が跳ねるのが見えた。妄想癖のある少女もやはりゴキブリは苦手らしい。
「あれのどこがプレゼントだ!」
アレのお陰で貴重な休日が一日潰れたんだぞ、と付け足して博士を睨みつける。
すると博士は目を見開いて、
「ま、まさかアレを駆除してしまったなんてことはあるまいな」
またわけのわからんことを……。
日本全国津々浦々、十人に聞いて十人が見つけたら駆除すると答えるであろう害虫王者が、自宅の中を闊歩していたのだから、それは当然、
「駆除したに決まってるだろ……」
「あ、アレはな。アレは――」
いつも冷静な博士が酷く取り乱して言葉を詰まらせていた。何をそこまで狼狽えているのか、先程まで驚いて目を丸くしていた彼女の顔から、どんどん血の気が引いていくのが見て取れる。
「――アレは大事な被検体だったんだぞ!」
なるほど。オーライ。これで全てが繋がった。
この狂人は、あろうことか他人の家に、なにやら細工を施した害虫を送り込み、得体の知れない実験に興じるつもりだったらしい。わざわざ隣の部屋に引っ越してきたのも実験の経過観察をやり易くする為だったのだろう。おそらく謎の少女も博士の仕込みだ。まったく傍迷惑な話である。
そしてあの落胆の仕方から察するに、サンプルは件のゴキブリ一匹だけで二匹目は用意していないと推測できる。仮に二匹目を準備しようにも、それには相応の時間と経費が掛かる筈だ。経費の方は問題ないだろうが、時間に関しては、例えあの狂人を以ってしてもどうしようもない。
「どんまい!」
「いい笑顔で言ってくれるな。そんなに私の実験の邪魔をしたことが嬉しいのか……」
そんなことは言うまでもない、と大きく頷いて見せると博士は肩を落とした。
意図せず彼女の目論見を打ち砕いた高揚感は、今日一日で溜まった疲労と比べてみてもお釣りがくるほどだ。
あとは博士の横で大人しくしている少女を連れ帰ってもらうだけだ。そうすれば慌しかった一日も終わる。今夜はさぞ気持ちよく眠れることだろう。
「さ、話も終わったし、さっさとその娘を連れて帰ってくれ。んで出来れば明日以降、俺に関わらないでくれ」
まあ後者は叶わぬ願いだ。あの狂人は、これから先も必ず家に押しかけては迷惑をかけていく。それでも今は少女を連れて帰ってくれるだけで万々歳なのでよしとする。
しかし、俯き落胆していた博士はキョトンとした表情で顔を上げ、少女とこちらを交互に指差しながら言う。
「なにを言っている? 彼女を招いたのは君だろう?」
「え?」
「え?」
会話が噛み合っていない。少女を博士の仕込みだと思っていたこちらと、本当にこちらが少女を連れ込んだと思い込んでいる博士。そのどちらも間違いだとしたら、一体全体この少女は何者なのか……。
「まてまて博士が仕込んだんじゃないのか?」
「失敬な。私が仕込んだのはゴキブリだけだ。こうゴキブリの腹にプチュッと――」
言いながら、博士は右手で注射を打つジェスチャーをして、
「――あ、」
ばつが悪そうに黙り込む。
顎に手を当ててなにやら考え込み、
「いやいやそれはない。ないないない。いくらなんでも……、なあ」
……なあ、じゃねえよ。
いきなり同意を求められても困る。
どうやらゴキブリにプチュッとした何某が少女の存在と関係あると考えたようだが、既に死んだ害虫が人間に影響を与えるなどと、仮にそんな説明をされても、そうですね、とは答えられない。というかプチュッて何だ……?
だが、そんな有り得ないを現実にしてしまうのが目の前の狂人の恐ろしいところである。
つまり、
「なんだ!? 何の薬をゴキブリにプチュッとしちゃったんだ!?」
それはその、と博士が口籠もり、人差し指の先を合わせながら、
「生物の細胞をちょーっと変化させる薬を……」
「その薬を打つと具体的にどうなる」
「昆虫が人間に変態したりとか……?」
それは細胞以前に遺伝子や染色体レベルで創り変わっているのではないか……?
いや、そんなことより今は、
「結局お前が原因か! 何!? なんで、そんな物を気軽にプチュッとしっちゃったわけ!?」
「こ、好奇心で……。だが、プチュッとするときは細心の注意を払ってだな――」
「言い訳無用! 上目遣いで言えば何でも通ると思うな!」
こちらの怒声に博士は、くっ、と顔を顰め、
「なんだ君は。これでは私が一方的に悪いみたいではないか!」
「どう考えてもお前が悪いわー!」
この期に及んで開き直るとは恐れ入る。
「だいたい彼女があのゴキブリだと決まったわけではないんだぞ!」
「ゴキブリですよー」
「それはそうかもしれんが……」
……残念なことに心当たりが多すぎる。
「だからゴキブリですって」
「そもそもあの薬は試験段階で、そこまでの効果は見込めん。せいぜいサイズが変化する程度で、仮に予想以上の効果が出たとしても――」
「あれー? 聞こえてないんですかー? だから私がそのゴキブリなんですよー」
「――ゴキブリが人間に、なるなん、て……」
「……」
二人の視線が少女に集まる。
別に少女の声が聞こえていなかった訳ではない。努めて無視しようとしていただけだ。臭いものに蓋を、とそういう考えである。
「あ、ようやく気づいていただけましたか」
それでは改めて、と少女は立ち上がり、
「――!?」
崩れた。
「何だあれは?」
呆れたような表情で博士が、尻餅をついた少女を指差す。
「痺れたんだろ……」
ああ、と納得したように頷く博士。
見事に出鼻を挫かれた少女は、目尻に涙を溜めて、それでも痺れる足でなんとか立ち上がる。そして平坦な胸を張り、
「私がそのゴキブリです」
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