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5 坂崎(兄)の事情


*********************************************


 やる気が出ない。

 脱ぎ捨てた黒子衣装をぼんやりと見ながら、雪斗は本日何度目になるか分からぬ溜息をついた。

 最近見世が上手くいかない。師匠の優里の傘持ちをする傍ら、雪斗は単独で見世を開いている。傘持ちも何もいない、簡素で地味な見世だ。

 雪斗の見世は、優里の見世に訪れる客とは段違いに人数が少ない。むしろ足を止める客がいる時の方が珍しいくらいだ。

 自分の技量が拙いとは思わない。優里のように数十年傀儡師をしているような者は別として、同年代の傀儡師の中ではむしろ上手いぐらいだと思っている。

 無理やり頼み込んで優里の押しかけ弟子となってから六年。単独で見世を開くようになって一年になる。

 見世を開き始めた当初は、客が少なくてもまあこんなもんかと楽観していた。だがそろそろ一年にもなろうというのに、最初の頃と変わらぬ客の入り。

 焦燥が胸を焼く。もっと上手くせねば、もっともっと魅せなければ。

 だがどうすれば良い? どうすれば客は足を止めてくれる? 他の若い傀儡師はどうやってる? 何故あいつの方が客入りが良い? オレよりもずっと下手なのに。

 抑えきれぬ汚い妬心。自分で自分に嫌気が差す。

 今日の見世は失敗だった。思い通りに指が動かない。思い通りに唄えない。客の足は遠のく。引き止めなければ。だが傀儡を上手く操れない。

 遠くで見ていた優里は、見世を終えた雪斗に言った。しばらく休め、と。傘持ちも他の奴にやらせる、と。

 声を失った。何とか搾り出すようにして、何でだと聞いた。優里は答えてくれなかった。

 今まで何度も何度も怒鳴られ罵られてきた。しかし、何も言ってもらえなかったのは初めてだ。

 捨てられたと、そう感じた。

 逃げ去るようにして長屋へ帰ってきた。練習しなければいけない。もっともっと腕を磨かなければいけない。もっともっと傀儡を美麗にしてやらなければいけない。

 その一心で帰ってきた。だが黒子衣装を脱ぐと同時に、熱を失ってしまった。何をどうすれば良いのか分からなくなった。何をしても無駄だと思った。

(あいつもこんな気分だったのかな)

 仲良くしていたという訳ではない。顔見知り、会えば適当に言葉を交わす程度、という傀儡子がいた。

 彼は有機溶剤に逃げた。

 最近見ないな、と思っていた。しばらくは見世以外で銭稼ぎをしているのだろう、と思っていた。雪斗も同じ傀儡師、見世の収入だけで食いつなげる程の実入りは無いと知っている。

 ある日雪斗は日雇いの仕事の帰り、その男の住まう長屋に何となく立ち寄ってみた。

 男の変わりざまに雪斗は息を呑んだ。

 解けた歯。合わない焦点。引掻き傷まみれの肌。

 男は雪斗を見て言った。誰だ、と。

 思わず逃げた。怖かった。

(……オレは、ああはならねぇからな)

 逃げるものか逃げてなるものか。

 大丈夫だ。今はただ、そういう時期なだけだ。大丈夫いつかはきっと上手くいく。上手くいくに違いない。

 大きな嘆息と共に身を横たえる。下着一丁だった雪斗は、もそもそと手を伸ばして袷を被せた。腕を通すのも億劫だ。

 目を閉じる。香具師の声が聞こえる。星売り(金平糖を売り歩く商人)の声が聞こえる。

 その全てに苛立ちを感じた。そんな些細な事に苛立つ自分に苛立つ。

 目を閉じていても眠気は訪れてくれない。訪れるのは焦燥ばかりだ。

 こんな事をしている場合ではない。腕を磨かなければいけない。

 分かっている。分かっているのに。

「くっそ……」

 漏らした声は自分でも驚く程に弱々しかった。

 肌寒さを感じ、雪斗は身を起こして袷に腕を通した。

 ぼんやりと荒れた部屋を見つめる。作りかけの傀儡の頭がこちらを見ていた。

「もしもしーもしもーし雪斗ー」

 どんどんと戸を叩く音と間延びした声がした。紫呉だ。

 ちらりと戸口を見る。音は止まない。

 面倒臭い。雪斗は無視を決めこむ事にした。そのうち諦めるだろう。

 しかし。

「いるのは分かってるんですよ」

 雪斗の期待は打ち破られる。がらりと戸が開いた。

「無視しないで下さいよ……って、何故脱いでますか」

 だらしのない雪斗の格好に紫呉は瞠目する。

「どうかしましたか? 元気ありませんね」

「……うるせぇよ」

 気遣う声が煩わしい。雪斗は舌を打って背を向けた。

「ほっとけ。うぜぇよお前、帰れって」

「おや。機嫌悪いですね」

「うるせぇっつってんだろ!」

 床を拳で叩く。

 しん、と沈黙が落ちた。

 しばらくの後、静かに戸を閉める音が聞こえた。

 罪悪感に雪斗は肩を落とす。紫呉は何の関係も無いのに。

 と、もう一度からりと戸が開いた。僅かに顔を覗かせ、紫呉は隙間から何かを投げた。

「雪斗の馬鹿野郎」

 勢いよく飛んできたそれは、雪斗の額に命中してから床に転がった。金平糖の包みだ。

 ぴしゃりと戸が閉じられる。

 包みを拾い上げ、雪斗は呻く。腹が立つやら申し訳ないやらだ。

 髪を掻き乱し、雪斗は立ち上がった。まだその辺りに紫呉はいるだろう。

 戸を開き勢い込んで一歩を踏み出……そうとした。

「い……っ……てええええええ何やってんだよこんな所でぇ!!」

「いえ……こはぜが外れそうだったんで……」

 戸口でしゃがみこんでいた紫呉の頭にぶつけた脛を雪斗は抱えた。紫呉は雪斗に蹴られた頭を屈んだまま押さえている。

「まさか雪斗に蹴られる日が来ようとは……」

「わ、悪ぃ。わざとじゃねぇぞ?」

「わざとだったら許しません……」

 恨めしげな声で呟いて紫呉は立ち上がった。腰に手をあて小首を傾げる。

「では改めて……。何かあったんですか? 様子がおかしいですけど」

 表情は相変わらず薄いものの、不機嫌そうなその顔は年相応に幼い。

「あー……別に、何も……」

 蹴ってしまった以上強く言う事も出来ず、また先程怒鳴ってしまった手前何となくバツが悪く、雪斗はしどろもどろと視線を彷徨わせる。

「……つか、お前こそどうしたんだよ。何しに来たんだよ」

「別に。近くに用事があったのでついでですよ。先日雪斗が落ち込んでいるようでしたから、様子を窺いに来ただけです」

 どことなく紫呉も気まずそうだ。そういえばさっき捨て台詞(それから金平糖)を投げつけられたのだった。

「まあ……うん……上がれよ……」

「……ではお言葉に甘えて」

 気まずい。

 紫呉は胡坐をかいて、こはぜを止め直している。

 中途半端な格好をしている事に気付き、雪斗は帯を拾い上げ適当に締めた。

「あー……用事って?」

 気まずい沈黙に耐え切れず、雪斗は無理に会話の接ぎ穂を探し出した。

 紫呉は無言で懐から何かを取り出す。読売だ。人差指でとんとんと指し示された箇所を覗き込む。

「闘技場? ……ああ、何か最近この辺に出来たって聞くな。お前が絡んでるって事はやばいのか?」

「いえ、ただの興味です」

「なら良いけどよ……」

 会話終了。

 また無言だ。雪斗は無意味に眼鏡を外し袖で拭いた。かけ直し、指先で頬を掻く。

「……悪ぃ。八つ当たりした」

「いえ。……どうやら僕は嫌がられたり抵抗されたりするのが好きなようなので」

「お前…………」

 まさかの変態発言に雪斗は引いた。紫呉から体を引いて遠ざかる。

 そんな雪斗の様子を見て、紫呉は僅かに口の端を持ち上げ、楽しげに肩を揺らした。

 からかわれたのか。彼の思惑通りの反応をしてしまったようだ。髪を掻き乱し悔しさを紛らわせる。

「冗談はさておき。僕は立場上どうしても上だの下だのの関係ばかりですから、横広がりの関係が新鮮でして。抗われたり刃向かわれたりとかは尚更ね。なので、ついからかいたくなってしまうわけで」

 悪い癖です、と紫呉はゆるゆると首を振る。

「……改める気ないだろお前」

「いいえ? 大事な友人を失ってしまっては本も子もありませんし」

「そうかよ……」

「そうなんです」

 実に嘘臭い笑みに雪斗は肩を落とす。

 気付けば先程までの気まずい空気はどこへやら、だ。ふざけた紫呉の物言いを少しばかり有難く思った。

 紫呉は読売を折り畳み懐に仕舞う。その代わりに包みを取り出し、雪斗に軽く投げた。

「ま、とりあえずは疲れた時には甘い物ですよ」

「おー……」

 金平糖の包みを受け取り、雪斗は苦笑する。三つも年下の奴に慰められている自分がおかしかった。

「それから、ちょっと遠ざかって気晴らしするとかね」

「おー……。あーもーいっそ忘れられたら楽なのによ」

 それは出来ぬと知っているが。

「…………そうですね」

 思いもよらぬ硬い返事に、雪斗ははたと目を瞠る。雪斗の視線に気付き、紫呉は表情を和らげた。

「ではまた来ます。今度は無視しないで下さいよ」

「……機嫌が良けりゃな」

 今更ながら、八つ当たりしてしまったのが恥ずかしく思えてきた。それを誤魔化そうと、どうしてもぶっきらぼうな声になってしまう。

 手を振る紫呉を見送り、雪斗はごろりと寝転がった。

 紫呉の傷は治っていた。先日の来訪時はまだ頬が腫れていた。

 しかし本日、計らずも傷を負わせてしまった。雪斗の脛は青痣ができている。結構な勢いで蹴ったようだ。これだと、紫呉の頭も相当に痛むだろう。

 申し訳なく思いつつ、おあいこだとも思う。雪斗の脛も随分痛むし、金平糖を投げつけられた額も結構痛い。

 傷はあちらが一つで、こちらが二つ。ならばこちらの勝ちだ。

 いったい何の勝負だと、雪斗は自分で自分に苦笑した。

 金平糖を口に放り込む。表面のざらつきを舌で溶かしながら傀儡に手を伸ばす。服を脱がし、袖口で磨いてやった。

 少し気が晴れたようだ。何も解決はしていないが、随分と気が楽になった。

 粒の無くなった甘い塊を噛み砕き、雪斗はもう一粒口に放り込んだ。



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