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幼馴染の前だけ口が悪くなる。

 朝の通学路で、佐倉航平が私の顔を見た瞬間、少しだけ眉を上げた。


 航平は歩調を緩め、私の頭の少し上へ視線を向けながら、わずかに首を傾げた。


「おはよう、こはる。今朝はずいぶん派手な寝癖がついてるぞ。家を出る前に鏡を見なかったのか?」


 からかうような声だったけれど、そこに悪意はない。


 白井こはる、高校二年生。


 佐倉航平とは家が近く、小学校も中学校も同じで、高校まで同じになった。


 つまり、世間一般で言うところの幼馴染である。


 そして私は、その幼馴染のことが好きだった。


 かなり好きだった。


 どのくらい好きかというと、朝の通学路で名前を呼ばれただけで、心臓が一度だけ変な跳ね方をするくらいには好きだった。


 だから今も、本当なら素直に聞けばよかった。


 おはよう。教えてくれてありがとう。どこについてるの?


 少し照れながら髪を押さえて、「自分じゃ見えないから、直してくれる?」とでも言えたなら、少女漫画のような爽やかな朝になっていたかもしれない。


 航平が私の髪へ手を伸ばし、その指先が触れるか触れないかのところで二人とも赤くなる。


 そんな展開だって、可能性としては存在していた。


 なのに。


「は? 朝から人の顔をじろじろ見て、何考えてるの? 私のことが好きすぎて、寝癖まで気になっちゃったわけ? ちょっとキモいんだけど」


 私の口は、今日も私の意思を無視して敵対行動を取った。


 言い終えた瞬間、口元に浮かべていた得意げな笑みが引きつる。自分が何を言ったのか、その意味が数秒遅れて脳へ届いた。


 違う。


 ありがとうと言う予定だった。


 私の脳内の予定表では、感謝から始まる爽やかな朝だったはずだ。


 それなのに実際に出てきたのは、好きな人へ向けるには鋭すぎる暴言である。


 私の恋愛偏差値は赤点どころか、答案用紙を自分で燃やし、その灰を校庭へ撒いていた。


 航平は伸ばしかけていた手を止めた。


 ほんの一瞬だけ、顔から表情が消える。


 たぶん、他の人なら気づかない。でも私は知っている。


 航平は傷ついた時、ほんの少し目を伏せる。子供の頃、野球で負けた時もそうだったし、飼っていた金魚が死んだ時もそうだった。


 今、その顔をさせたのは私だ。


「……そっか。朝から嫌なことを言って悪かった。もう寝癖のことは気にしなくていいから」


 航平は静かに手を下ろすと、いつものように小さく笑った。


 けれど、その声は普段より少し低く、笑みもどこか無理に形を整えたように見えた。


 胸の奥が、ちくりと痛んだ。


 そうじゃない。


 ごめんと言わせたかったわけではない。


 私を見てほしかっただけだ。航平が誰より早く寝癖に気づいてくれたことが、嬉しかっただけなのだ。


 けれど、口から出た言葉は取り消せない。


 私は慌てて髪を押さえながら、どうにか失言をなかったことにしようとした。


「ま、まあ、絶対に見るなって意味じゃないけど。航平は昔から私の変なところばかり見つけるし、幼馴染だから多少は仕方ないかなっていうか……特別に許してあげてもいいけど?」


 必死に軌道修正したつもりだった。


 しかし、どう考えても感謝や好意を表す言葉にはなっていない。


 航平はそれ以上こちらを見ようとはせず、通学路の先へ視線を戻した。


「うん。それじゃ、学校へ行こう。遅刻したら困るし」


 私の横を歩き始めた航平の速さは、いつもと変わらなかった。


 肩が触れない程度の距離も、傍目には普段と同じだったと思う。


 けれど、その時の私は、少し気まずくなっただけだと思っていた。


 *


 最初に気づいたのは、三日後だった。


 朝、家の前に航平がいなかった。


 いつもなら登校時間の五分前くらいに門の外から声をかけてくれる。別に約束しているわけではない。けれど、小学校の頃から何となく続いてきた習慣だった。私が寝坊すれば航平が待ち、航平が忘れ物をすれば私が文句を言いながら付き合う。それが、私たちにとっての普通だった。


 なのに、その日は玄関を出ても、門の前には誰もいなかった。


 教室へ着くと、航平はすでに席に座り、高瀬亮と宿題の話をしていた。私に気づくと「おはよう」と笑ってくれたけれど、いつものように髪型や宿題や朝食のことを気にしてくれる言葉は続かなかった。


 私の方から聞けばよかった。


 どうして先に行ったの。

 一人で歩くのは寂しかった。

 明日は、いつものように待っていてほしい。


 けれど、口を開きかけた瞬間、また余計な言葉が出そうになって、私は慌てて唇を噛んだ。


 その様子を横で見ていた高橋琴音が、眉間を押さえる。


「こはる。今、自分が何を言いそうになったか分かってる?」


「……航平って、最近私に構ってこないよね、って」


「言わなくてよかったね。それ、寂しいじゃなくて責めてるだけだから」


 可愛らしい顔に似合わず、親友の言葉は今日も容赦なく急所へ刺さった。


「好きな人に嫌われるような言葉を投げておいて、隠れている好意だけ都合よく見つけてほしいなんて無理でしょ。航平くんは、こはるの心を読む係じゃないよ」


 私は何も言い返せなかった。


 *


 昼休み。


 私は購買で買ったパンを胸元に抱え、航平に声をかける機会をうかがっていた。


 今度こそ、普通に話す。


 変なことは言わない。


 責めない。からかわない。攻撃しない。


 こんにちは、はおかしい。朝から同じ教室にいるのだから、今さら挨拶するのは不自然だ。


 パン買ったんだ、と言うのも変だ。航平は私の手元を見れば分かる。


 いや、会話なんてその程度のことでいいのかもしれない。自然な会話をしようと考えすぎるから、余計に不自然になるのだ。


 私は心の中で何度も練習した。


 航平、一緒に食べない?


 これだ。


 短くて素直で、攻撃性もゼロ。


 完璧である。


 私は意を決し、窓際にある航平の席へ近づいた。


「航平、その……今日のお昼なんだけど――」


「あ、佐倉くん。少しいいかな?」


 私が最後まで言い終える前に、横から柔らかな声が重なった。


 振り向くと、藤田美羽が数枚のプリントを手に立っていた。


 同じクラスの女子で、肩まで伸びた髪と、ふんわりした雰囲気がよく似合う、普通に可愛い子である。


 藤田さんは航平の机の横へ立つと、手に持っていたプリントを差し出した。


「これ、文化祭実行委員の分。先生が佐倉くんにも渡しておいてほしいって言ってたの。それから、放課後に倉庫から机を運ぶみたい。数が多くて大変そうだから、必要なら私も手伝うよ」


「ああ、ありがとう。男子だけだと人手が足りないかもしれないから、その時は頼ませてもらうよ」


 航平が笑った。


 何も気にしていない時の笑い方だった。


 最近、私にはあんなふうに笑ってくれない。


 そのことに気づいた瞬間、パンの袋を持つ指先がわずかに冷たくなった。


 藤田さんはそこで私に気づき、少し首を傾げた。


「白井さんも佐倉くんに用事だった? ごめんね、話の途中だったかな」


 本当は、うんと答えればよかった。


 一緒にお昼を食べようと思っていた。


 それだけ言えばよかったのだ。


 けれど、藤田さんに航平を取られたような焦りと、直前まで声をかける練習をしていたことを知られる恥ずかしさに追い詰められ、私はまたしても地雷を踏み抜いた。


「べ、別に用事なんてないよ。航平が一人で寂しくパンを食べてないか、幼馴染として様子を見に来ただけだから。まあ、余計なお世話だったみたいだけど」


 言った直後、心の中で膝から崩れ落ちた。


 なぜ。


 どうして、「一緒に食べない?」が「一人で寂しく食べてないか見に来た」になるのか。


 私の口は、完全に私の管理下を離れている。


 航平の表情が、一瞬だけ止まった。


 騒がしい教室の中で、その一瞬の沈黙だけが妙に鮮明に感じられた。何も言わずに伏せられた目が、私の心臓を鋭く削る。


 航平は机の上にあったパンの袋を静かに手に取った。


「心配しなくても、亮と食べることになってるから大丈夫だよ。俺は向こうで食べてくる。藤田、プリントを持ってきてくれてありがとう」


「うん。準備のことは、また後で相談しようね」


 航平は立ち上がった。


 その時、ほんの一瞬だけ、私の手元のパンへ視線が落ちた。

 何か言いかけたように唇が動く。けれど、すぐに閉じられた。


 航平はそのまま私の横を通り過ぎていった。


 すれ違う時も、その視線は私へ向かなかった。


 ただそれだけのことなのに、胸の奥がひどく苦しかった。


 藤田さんは航平の背中を見送ってから、少し困ったように私を見る。


「白井さんって、佐倉くんのことが嫌いなの?」


「は?」


 思わず声が裏返った。


 藤田さんは私の反応に驚いたようだったが、それでも不思議そうな表情を崩さなかった。


「だって、いつも佐倉くんにだけ、きついことを言ってるでしょう? 幼馴染だから遠慮がないだけかもしれないけど、さっきも少し嫌そうに見えたから」


 悪意のない言葉だった。


 私を責めているわけでも、航平との仲を見せつけようとしているわけでもない。ただ、藤田さんの目には、本当にそう見えているのだ。


 私が航平を嫌っているように見える。


 好きなのに。


 誰よりも大好きなのに。


 これからも、ずっと隣にいたいと思っているのに。


 けれど、外から見れば、私は航平にきつい言葉ばかり投げつけている女子でしかなかった。


「……嫌いじゃないよ。むしろ、その逆というか……とにかく、嫌ってるわけじゃないから」


 かろうじてそれだけ言うと、藤田さんは少し驚いたように瞬きをした。


「そうだったんだ。私、勘違いしてたみたい。ごめんね」


 藤田さんは深く追及することなく、自分の席へ戻っていった。


 私はパンの袋を握りしめたまま、その場から動けなかった。


 藤田さんには、私が航平を嫌っているように見えていた。


 それなら、航平本人にはどう見えていたのだろう。


 朝、話しかけるたびに突き放されて。

 気にかけるたびに、キモいと言われて。

 一緒に食べたいと言われるどころか、一人で寂しく食べていないか見に来ただけだと言われて。


 好きの裏返しなんて、私の中にしかなかった。


 航平に届いていたのは、私が口にした言葉だけだ。


 そう気づいた瞬間、手の中のパンが潰れかけていることにも、ようやく気づいた。食欲なんて、すっかり消えていた。


 入れ替わるように、教室の後方から琴音が歩いてくる。


 琴音は私の顔を見たが、今度はため息さえつかなかった。

 ため息をつく段階はもう過ぎた、という顔だった。


「……気づいた?」


「うん」


 私が小さく答えると、琴音は私の手の中で潰れかけていたパンをそっと取り上げた。


「じゃあ、次は逃げないこと」


 それだけだった。


 いつものように長く叱られるより、ずっと痛かった。


 教室のざわめきが、少し遠く聞こえた。


 *


 その日の放課後も、私は航平に声をかけられなかった。


 文化祭準備で教室中が騒がしくなっても、航平は男子たちと机を運び、私は装飾用の紙を折りながら、その姿を目で追うだけだった。重そうだから手伝おうか、と言いたかった。けれど、口を開けばまた余計な言葉で傷つけてしまいそうで、結局何も言えなかった。


 そんな私を見て、琴音が小さく言った。


「こはる。これ、たぶん今のうちに止めないと、二人の関係を戻しにくくなるよ」


「戻しにくくなるって……航平は、そこまで私を嫌いになったのかな」


「嫌っているようには見えない。でも、怒っていないから平気、ではないと思う」


 琴音の言葉は、いつものツッコミよりずっと静かだった。


 航平は怒鳴らなかった。責めなかった。だから私は、勝手に大丈夫だと思っていた。


 でも、怒らなかったことと、傷つかなかったことは同じではない。


 私はようやく、自分がずっと航平の優しさに甘えていたことを認めざるを得なかった。


 *


 その日の帰り道、私は校門の近くで航平を待った。


 けれど、航平が亮と並んで校舎から出てきた瞬間、足がすくんだ。謝らなければいけない。そう分かっているのに、声をかけたらまた余計なことを言ってしまいそうで、喉が動かない。


 私に気づいた亮は、航平に先へ行くよう促すと、すれ違いざまに低い声で言った。


「白井。あいつは、何を言っても平気なわけじゃないからな。昔から優しいから我慢してるだけで、ちゃんと傷つくんだぞ」


 その一言だけで、十分だった。


 私は結局、航平を呼び止めることができなかった。


 *


 翌日、私は一日中、まともに航平の方を見られなかった。


 琴音には、朝一番で事情を聞かれた。


 昨日も何も言えなかったと白状すると、「今日中に謝らなかったら、私がこはるを航平くんの前まで運ぶ」と真顔で宣言された。


 冗談には聞こえなかった。


 しかし、昼休みになっても、私は席から立てなかった。


 放課後まで何度も声をかけようとしたが、そのたびに足が止まった。


 そんな中、文化祭の準備で使う道具の買い出し係を決めることになった。


 担任は教卓の上で名簿を確認すると、何でもないことのように顔を上げた。


「佐倉と白井、悪いけど二人で文房具店へ行ってくれるか。模造紙とテープ、それから紙皿も頼む。数量はこのメモに書いてある」


 教室の空気が、わずかに揺れた。


 私と航平は同時に顔を上げ、お互いの方を見た。


 視線がぶつかったのは一瞬だけだった。航平はすぐに目を逸らし、担任から買い物用のメモを受け取る。


 教室の後ろでは、琴音が私に向かって小さく親指を立てていた。


 逃げるな。


 今度こそ言え。


 その顔は、はっきりそう告げていた。


 私は緊張で固くなった指を握り込み、ゆっくりとうなずいた。


 *


 学校近くの文房具店へ向かう道は、妙に静かだった。


 夕方の空は淡い赤色に染まり、長く伸びた私たちの影が、歩道の上を並んで進んでいる。


 隣を歩く航平との距離は、以前より半歩ほど遠い。


 たった半歩。


 手を伸ばせば届く程度の距離なのに、今の私には、途方もなく遠く感じられた。


「あの、航平。昨日の話なんだけど、私から言わなきゃいけないことがあって……」


「うん。聞いてるよ」


 航平は歩く速さを少しだけ緩めた。


 言え。


 今度こそ言え。


 まずは謝る。


 好きだと伝えるところまで行けなくても、傷つけたことを謝らなければならない。


 私は大きく息を吸った。


「私、いつも航平にしてもらってたことを当たり前だと思ってたけど、本当はずっとありがたくて――」


「あ、佐倉くん。白井さんも一緒だったんだね」


 その時、背後から声がした。


 振り返ると、藤田さんが小走りで近づいてくる。片手には、私たちが持っているものと似た買い出し用のメモが握られていた。


「先生に追加の買い出しを頼まれて、私も同じ店へ行くことになったの。よかったら、一緒に行ってもいいかな?」


「もちろん。ちょうどこれから向かうところだし、買うものを確認しながら一緒に回ろう」


 航平がうなずくと、藤田さんはほっとしたように笑った。


 私は途中で止まった言葉の続きを、結局言えないまま飲み込んだ。


 文房具店で買い物を済ませた帰り道、航平は大きな袋を両手に持っていた。


 模造紙や紙皿が中心とはいえ、量が多いのでかさばっている。私は何度も手伝おうと口を開きかけたが、どう言えば嫌味にならないのか考えているうちに、機会を逃してしまった。


 その横で、藤田さんは航平の荷物へ気づくと、ためらうことなく手を伸ばした。


「佐倉くん、一人で全部持つのは大変でしょう? その袋なら軽そうだから、私が持つよ。学校までまだ少し歩くし、無理をして落としたら困るから」


 その瞬間、胃の奥がまた重く沈んだ。


 まただ。


 私がずっと言いたかった優しい言葉を、別の女の子が当たり前のように航平へ届けている。


 何もできないまま見ているだけの自分が、どうしようもなく嫌だった。


「ちょ、ちょっと待って!」


 気づいた時には、大きな声が出ていた。


 二人が驚いたようにこちらを見る。


 顔中に熱が集まっていくのを自覚しながら、私は勢いのまま叫んだ。


「航平は私の幼馴染なんだから、荷物を持つなら私が持つ! 藤田さんが悪いわけじゃないけど、私だって航平の役に立ちたいし、ずっと他の子に任せて見てるだけなんて嫌なの!」


 言った。


 言ってしまった。


 何だそれ。


 最初の部分だけ聞けば、幼馴染という立場を利用した所有権の主張である。


 幼馴染は資格でも身分証明書でもない。


 しかし、いつものように嫌味でごまかさず、最後まで自分の気持ちを口にした。


 藤田さんは目を丸くしている。


 航平も驚いたように私を見つめたまま、しばらく動かなかった。


「……こはる。それは、どういう意味で言ってるんだ?」


 航平の声は静かだった。


 けれど、昨日までとは違い、その目は私から逸らされていない。


 逃げたくなった。


 いつものように、冗談にしてしまえば楽だった。


 何を本気にしてるの?


 別に深い意味なんてないし。


 航平って、本当に私のことが好きだよね。


 そう言えば、この場から逃げられる。


 航平を傷つけて、全部をごまかし、何もなかったふりをすることができる。


 けれど、琴音の言葉が頭の中に響いた。


 好きな人に嫌われる言葉を投げつけて、隠れている気持ちだけ気づいてほしいなんて無理だ。


 航平は、私の心を読む係ではない。


 私は強く唇を噛んだ。


 藤田さんは私と航平を交互に見ると、何かを察したように一歩下がった。


「私、追加分の荷物を持って先に学校へ戻るね。先生にも、二人は少し遅れるかもしれないって伝えておくから」


「でも、藤田一人に持たせるのは――」


「これくらいなら大丈夫。それより、白井さんは佐倉くんと、今ここで話をした方がいいと思う。たぶん、ずっと言えなかったことがあるんでしょう?」


 藤田さんは私を責めることなく、小さく笑った。


 悪役なんかではない。


 航平を奪おうとしていたわけでもない。


 ただ、相手を思いやる気持ちを素直に言葉にできる、ごく普通に優しい子だった。


 だからこそ、自分の不器用さが余計に情けなくなる。


「藤田さん……ありがとう」


 私がかろうじて礼を言うと、藤田さんは少し驚いた後、嬉しそうにうなずいた。


 その背中が学校の方へ遠ざかっていく。


 夕方の道には、私と航平だけが残された。


 風が吹き抜け、袋の中に入っている模造紙をかすかに鳴らす。


「こはる」


 航平が私の名前を呼んだ。


 以前なら、それだけで嬉しかった。


 今は、逃げてはいけないという緊張で胸が痛い。


 私はすぐには顔を上げられなかった。


 それでも、今度は逃げなかった。


「ごめん。私、今まで航平にひどいことをたくさん言った。本当は昨日すぐに謝らなきゃいけなかったのに、怖くて何も言えなかった」


 最初に出てきたのは、謝罪の言葉だった。


 声が震えていた。


 けれど、いつものように余計な冗談を挟むことなく、まっすぐに航平へ向けられた。


「私、航平のことが嫌いなわけじゃない。嫌いじゃないどころか、本当は全部逆なの」


「……逆って、どういうこと?」


「航平のことが好きだから、変なことを言ってた。話しかけてもらえるのが嬉しいのに、嬉しいって知られるのが恥ずかしくて、いつも意地を張ってた」


 言ってしまった。


 今度は間違えなかった。


 航平が息をのむ気配がした。


 喉の奥が張りつくように乾いている。


 それでも、ここで黙れば、また航平に全部を察してもらおうとしてしまう。


 私は震える息を飲み込み、どうにか言葉を続けた。


「構ってほしくて仕方なかった。朝、家の前で待っててくれるのも、寝癖に気づいてくれるのも、宿題の心配をしてくれるのも、本当は全部嬉しかったの。でも、ありがとうって言うだけで、航平のことが好きなのが伝わりそうで怖かった」


 これまで自分が口にした言葉が、次々と頭の中をよぎった。


 キモい。


 私のことが好きすぎて、寝癖まで気になっちゃったわけ?


 一人で寂しく食べてないか見に来ただけ。


 どれも私にとっては、好意を隠すための冗談だった。


 けれど、航平へ届けたものは好意ではない。


 ただ相手を傷つけ、自信を奪う言葉だった。


「私は冗談のつもりだったし、航平なら本当の気持ちを分かってくれると思ってた。でも、それは航平が優しいことに甘えていただけだった。何を言っても離れないって、勝手に決めつけてた」


 声が少しずつ濡れていく。


 泣きたくなかった。


 泣いて許してもらおうとしているように見えるのは嫌だった。


 けれど、目の奥に集まった熱を抑えることができない。


「ごめん。何度も傷つけた。航平がどんな顔をしても、次の日にはまた話しかけてくれるから、大丈夫なんだと思い込んでた」


 私は両手を強く握った。


「でも、大丈夫だったわけじゃないよね。私が気づこうとしなかっただけだよね」


 航平は黙っていた。


 その沈黙が怖かった。


 けれど、私は逃げずに顔を上げた。


 今度はきちんと、航平の目を見る。


「……私は、航平が好きです。幼馴染としてだけじゃなくて、ずっと前から、一人の男の子として好きでした」


 風が吹き、航平の前髪をわずかに揺らした。


 彼はすぐには答えなかった。


 いつものように困った笑みを浮かべることもない。


 しばらく私を見つめた後、ゆっくりと目を伏せた。


「俺、本当にこはるに嫌われてると思ってた」


 その言葉に胸が痛んだ。


 けれど、目は逸らさなかった。


「うん。そう思わせたのは、私だから」


「こはるに話しかけるたびに、俺は何か間違ってるのかなって考えてた。今日は機嫌が悪かったのか、俺の言い方が悪かったのか、それとも本当に俺と話したくないのかって」


 航平は一度言葉を止め、手に持っていた袋を握り直した。


「こはるのことが好きだったから、余計にきつかった。嫌われてるなら離れなきゃいけないと思うのに、次の日になると、やっぱり話しかけたくなってた」


 喉の奥が詰まった。


 航平は私を責めるような口調ではなかった。


 静かに、自分がどう傷ついてきたのかを話している。


 だからこそ、私は一つも言い訳をせず、きちんと受け止めなければならなかった。


「今も、こはるのことが好きだよ」


 航平は静かに告げた。


 私は思わず息を止めた。


 喜びが胸へ広がりかける。


 けれど、航平はすぐに言葉を続けた。


「でも、正直に言うと、少し怖かった。こはるのそばにいたいのに、また同じことを言われるんじゃないかと思うと、前みたいに気軽には話しかけられなかった」


 その一言の方が、ずっと深く入ってきた。


 好き。


 でも、怖い。


 航平の中には、その二つが同時にある。そうさせたのは、私だ。


「また同じことを言われたら、今度も笑って流せるかは分からない。こはるが照れ隠しで言ったのかもしれないって考えるより先に、本当に嫌われたと思うかもしれない」


「流さなくていい」


 私はすぐに答えた。


「私がまた航平を傷つけたら、笑って許したふりをしないで。嫌だったって言ってほしい。私がちゃんと気づいて、直さなきゃいけないことだから」


「こはる……」


「すぐに全部直せるとは言えない。たぶん、これからも照れるし、変なことを言いそうになると思う。でも、傷つける言葉を口にする前に止まりたい。もし止まれなかった時は、意地を張らずにその場ですぐ謝る」


 言葉にするたび、胸を覆っていた怖さが少しずつ薄れていく。


 素直になることは怖い。


 けれど、傷つけた事実をなかったことにする方が、もっと怖かった。


「もう、幼馴染だから分かってくれるなんて甘えない。私の気持ちは、私の言葉で伝える」


 私は一度息を吸い、震える指先を握り直した。


「だから、勝手なお願いだって分かってるけど、もう一度だけ私を信じてほしい」


 航平は長い間、何も言わなかった。


 車の走る音が遠くを通り過ぎる。


 学校の方からは、運動部の掛け声がかすかに聞こえていた。


 夕方の道に、私たちだけが取り残されたようだった。


 ほんの数秒だったのかもしれない。


 けれど、私には永遠のように感じられた。


 拒絶されることが怖くて、握りしめた手のひらに汗が滲む。


 やがて航平は、ゆっくりと息を吐いた。


「それじゃ、もう一回だけ信じる。こはるが今言ってくれたことを、俺もちゃんと信じたい」


 その言葉を聞いた瞬間、膝から力が抜けそうになった。


「……本当に?」


「ああ。俺も、今まで嫌だったことを何も言わずに、一人で勝手に離れようとしたから。これからは、傷ついた時にはちゃんと伝えるよ」


 航平はそこで、少しだけ頬を緩めた。


 今度の笑みは、傷ついた顔を隠すために無理に作ったものではなかった。


「それから、幼馴染としてだけじゃなくて、ずっと前から好きだった」


 心臓が止まるかと思った。


 実際には止まっていない。

 けれど、本当に一瞬だけ心臓が動き方を忘れた。


 私は口を開けたまま、何も言えなくなった。


 さっきまであれほど必死に話していた口が、肝心なところで職務を放棄している。


 航平は、固まった私の顔を不安そうにのぞき込んだ。


「……こはる? 今の返事、嫌だったのか?」


「待って。今、人生で一番重要な情報を処理してるから、少しだけ時間をちょうだい」


「情報って、俺がこはるを好きだって話か?」


 私は何度も小さくうなずき、自分に言い聞かせるように呟いた。


「航平が私を好き。航平が、私を、好き……」


「どうして二回言ったんだ?」


「一回では脳の奥まで届かなかったの。今もまだ半分くらいしか理解できてない」


 航平はこらえきれず、小さく笑った。その笑い声を聞いて、私もようやく息を吐くことができた。


「それで……こはる」


「なに?」


「俺たち、付き合うってことでいいんだよな?」


 今度はさすがに、答えを間違えるわけにはいかない。


「……うん。私も、航平と付き合いたい」


「よかった」


 航平がほっとしたように笑った。


 私たちは荷物を持ち直し、並んで学校へ戻った。


 まだ距離には少しぎこちなさが残っていた。


 けれど、さっきまでの半歩遠い距離ではなかった。


 教室へ戻るまでの道で、航平はいつものように歩幅を少しだけ私に合わせてくれた。


 前なら、私はきっと茶化していた。


 なに、そんなに私と並んで歩きたいの。

 しょうがないなあ。


 そんな言葉が、舌の上まで出かかった。


 けれど、私はそれを飲み込んだ。


 代わりに、隣を歩く航平の横顔を見上げる。


「……ありがとう」


 声は、自分でも驚くくらい小さかった。

 それでも、航平には届いた。


 航平は足を止めかけ、驚いたように瞬きをした。

 それから、少し照れたように笑う。


「どういたしまして」


 たったそれだけのやり取りだった。


 でも、航平は嫌そうな顔をしなかった。困ったようにも笑わなかった。私の言葉を疑うこともなく、ただそのまま受け取ってくれた。


 胸の奥が、じんわり温かくなる。


 ちゃんと言えば、ちゃんと届く。


 当たり前のことを、私はようやく覚え始めた。


 *


 文化祭の準備を終えた頃には、空はすっかり夕焼け色に染まっていた。


 校門を出て、いつもの通学路を航平と並んで歩く。


 恋人。


 たぶん、今の私たちは恋人になったのだと思う。


 幼馴染から、恋人。


 その言葉を心の中で転がすたびに、足元が少し浮くような気がした。


 さっき、私は航平に「ありがとう」と言えた。

 小さな声だったけれど、航平はちゃんと受け取ってくれた。


 それが嬉しくて、恥ずかしくて、何度も口元が緩みそうになる。


 もっとも、私の口が今後も事故を起こす以上、私の恋愛はまだまだギャグ寄りだ。


 しばらく無言で歩いていると、航平が小さく息を吸った。


 私の横顔を確かめるように見た後、遠慮がちに右手を差し出してくる。


「こはる。恋人になったばかりで急かもしれないけど、嫌じゃなければ手をつないでもいいか?」


 心臓が大きく跳ねた。


 手。


 航平と手をつなぐ。


 ものすごく恋人らしい。


 というか、恋人そのものだ。


 私は顔が熱くなるのを感じた。


 いつもの癖で、口が勝手に動きかける。


「な、なに? そんなに私と手をつなぎたいの? 航平は昔から私のことが好きすぎて、本当にしょうがな――」


 途中まで言ったところで、航平の手がすっと引っ込んだ。


「やっぱり、まだ早かったみたいだな。今日はやめておこう」


「待って待って待って! 今のは違うから!」


 私は全力で慌てた。


 航平の前へ回り込み、航平が引っ込めた右手を両手で指し示す。


「手はつなぎたい! 航平がつなぎたいんじゃなくて、私がつなぎたいの! いや、航平にもつなぎたいと思っていてほしいけど、とにかく嫌がったわけじゃないから!」


 通りすがりの下級生たちが、驚いたようにこちらを見た。


 知るか。


 私は現在、恋愛偏差値の補習授業中なのだ。


「今のは本当に照れただけで、航平を馬鹿にしようと思ったわけじゃないの! 言い方は非常に不適切でしたが、悪口を述べる意思は一切ありませんでした!」


 私が必死に弁明すると、航平は口元を押さえた。


「その謝り方、恋人への弁明というより、不祥事を起こした人の記者会見みたいになってるぞ」


「だって航平が手を引っ込めるから! 私は今、心から反省しています。だから、どうかもう一度だけ手を差し出してください!」


 半泣きで訴えると、航平はとうとうこらえきれなくなったように笑った。


 ひとしきり笑った後、私の前へもう一度手を差し出す。


「それじゃ、今度はこはるからつないで。俺が差し出すと、また勘違いされるかもしれないから」


 私は赤くなった顔のまま、その手を見つめた。


 昔から何度も隣にあった手。


 転びそうになった時に支えてもらったことも、子供の頃に一緒に走り回ったこともある。


 けれど、今は少し違って見えた。


 私は一度ためらってから、そっと自分の手を重ねた。


 航平の指が、逃がさないように優しく私の手を包む。


 温かかった。


「……つないだ。本当に航平と手をつないでる」


「うん。今度は途中で変なことを言わずにできたな」


 航平が嬉しそうに笑う。


 その顔を見ただけで、胸の奥がくすぐったくなった。


「何というか、すごく恋人っぽいね」


「恋人になったんだから、恋人っぽくていいだろ」


「その言い方は破壊力が高すぎるから、事前に警告してほしい」


「そんな警告制度はないよ」


 航平の笑い声に重なるように、私も小さく笑った。


 たぶん私は、これからも失敗する。長い間染みついた癖が一日で消えるわけがないし、実際、ついさっきもやった。


 でも、もう航平の優しさに甘えて、「本当は好きなんだから分かって」では済ませない。好きなら好きだと分かるように言う。嬉しかったら、変に茶化さずにそう言う。もしまた傷つけたら、その場で謝る。


 それくらいは、ちゃんとしたい。


 その日から、私の照れ隠しは少しだけ減った。


 ただし、航平の前でだけは、今でも時々事故を起こす。


 そのたびに私は慌てて言い直し、航平は呆れたように笑いながら、それでもつないだ手を離さないでいてくれた。


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