䍺が来る…
その客桟の掌櫃は言った。
「この街は夜が早くて驚いたろう」
確かに、出店の主人たちが店を畳む支度をし始めたのは、日晡の頃だった。茶楼に至っては金烏が天高く昇る時に戸を閉め、夜に稼ぐ妓楼ですら紅灯が灯っていない。
「ここ最近、夜になると出るんだ」
出る? 何が?
「怪物さ」
掌櫃が深刻な声色で言った時──、小さく、ずん……、と床が揺れた気がした。
「来やがったぜ、嬢ちゃん」
帳台に置かれた蝋燭の火が、風もないのにふらりと揺れる。猫は微かな揺れを感じ取り、耳をピンと立てる。
ずん……という響きは徐々に大きくなってゆく。天井からぱらぱらと埃が落ちて来て、家がみしみしと音を鳴らし始めた。
なんだろうか。
地震ではない。
言うなれば、何か、大きなものが──、
こちらへと近寄って来ている……。
まさか、大熊?
それとも象?
「バカを言うんじゃねえっ。そんなありきたりな動物じゃねえやっ……!」
掌櫃は冷や汗を頬に伝わせながら続けた。
「怪物って言ったら怪物なんだ。信じられねえなら、そこの窓から外を見やがれ!」
夏は大堂の格子窓から外を眺めた。
一切の灯りの無い街、夜の帷。強い風が吹いている。窓から見えるのは街の中心でもある辻で、通り沿いに並ぶ、芽の膨らんだ槐の枝が風を切る音が聞こえている。天に輝くは青い月、あまりに細すぎる繊月。
何があるようにも見えないが、ずん……という厭な響きだけが、少しずつ、確実に、大きくなっている気がした。
「ほら、見ねえか! あれだよ、あれ!」
掌櫃が夏の後ろから窓を覗き込んで、焦ったように言った。
夏は目を細めて、掌櫃が見上げる先、夜空を凝視した。細い月がゆっくりと闇に飲まれる。次いで星々の瞬きも闇に消えてゆく。
(……雲がかかっただけのような?)
一瞬そのように思ったが、直ぐに心の中で否定した。
何と言えば良いか、楼のようなものが星も月も隠してしまったような気がした。たとえば元宵節の山車が移動していて、それが星空を遮ってしまったかのような──。
(……え?)
それを見つめている内に外の暗がりに目が慣れて、空を遮るものの正体がわかった。わかったと同時、夏は目をまんまるに見開き、次いで、片肩にかけていた背負袋をぼたりと落とした。
「お、大きい山羊」
二足歩行をする巨大な山羊であった。高さは楼なんかよりもよっぽど大きく、10丈(30メートル)はあるだろう。
それはゆっくりと右足を前に出し、大街に下ろす。ずしん。客桟が激しく揺れる。
次にゆっくりと左足を前に出し、街の中央を流れる川の中に足を下ろす。ばしゃん。川の水が激しく跳ねて、客桟の屋根に降り注いだ。雹が降って来たかのような重い音がした。
山羊は街を横断してゆく……。
のったりと、のっそりと、横断してゆく……。
「今ん所、建物が潰されたりはしてねぇが、いつかはぺしゃんこになっちまうんじゃねぇかと、気が気じゃねえや」
巨大な羊男は街を過ぎて闇の中に消えていった。ずしん、ずしんと、地響きも遠ざかる。
「噂じゃあ、あれは䍺とか言う怪物らしい」
䍺とは、洵山という金と玉を産む魔山に住む怪物である……、と言い伝えられる。
「でも、怯えるのも今日までさ。明日にゃあ、あの怪物を追い払えるはずだ」
「明日?」
「ああ。俺たちの訴えを朝廷が聞いてくれたらしい。禁軍が明日到着するんだ。なんと一卒(100人)だとよっ!」
禁軍とはつまり国軍のことで、朝廷の勅命にて動くものだった。
夏が思うに、まあ多分、恐らく、府城にいる曹佾が働きかけたものと思う。基本的に朝廷は、異民族相手でないと禁軍を動かしたがらないものだ。戦争と違い、獣の類を退けたとて土地や財産が手に入るわけでもないので、恩賞を与えにくい。
「へへへ。あのデカブツも、天下無敵の禁軍相手じゃあ歯が立たねえだろうぜ。安心して眠れる日も近ぇや……」
翌日の日暮に、禁軍一卒が小岸県に入城した。
旗持ちが掲げるのは真紅の旗。真紅は禁軍を表す色で、中央に『行営』の文字が書かれている。つまりは遠征軍を意味した。
禁軍は華々しく迎え入れられた。街のあらゆる住民、それから城壁の外に住む農民までもが大街に集まって、まるで凱旋と見紛うほどに大騒ぎ。女たちは兵の屈強な面構えに湧き立つ。それから、軍列には大きな投石機が5機もあって、子供達は目を輝かせていた。
「すごい騒ぎだ」
夏も人の波の中で爪先立ちをして、禁軍の姿を見ようと背を伸ばす。
軍を率いているのは黒い巨馬に乗った無骨な男らしい。いかめしい虎の変わり兜を身に付け、赤い鎧を纏っている。腹呑は睨みを効かせた虎で、砂避けの黒い外套を羽織っていた。
隣で掌櫃が目を輝かせながら言う。
「ありゃあ雷将軍よっ! 男なら誰でも憧れる益荒男だっ!」
人々が『雷将軍、雷将軍』と一斉に唱和する。
雷将軍はふんと強気に笑って、梅花斧──見事な梅の装飾の入った巨大な斧──を雄々しく天に突き上げた。西に沈み行く赫赫とした三烏が刃を赤に染める。
「この『鬼斬斧の雷千山』が見参したからには、怪物の好きにはさせんッ!」
誰もがわあと湧き立つ。感動で涙を流す者もいる。熱気は最高潮に達した。掌櫃も拳を振るって興奮している。
「こりゃあ䍺も終いだな! 煮て焼いて食っちまおうぜっ! どっからでもかかってこいってんだッ!」
禁軍一卒は辻に陣を構えた。
投石機には軍付きの方士が術を施した砲弾『震天雷』が設置されている。直撃すれば大爆発を起こし、城壁が木っ端微塵となる代物だった。兵は各々、弩を手に敵を待つ。
兵は土人形のようにぴくりともしない。緊張感が漂う陣の様子を、掌櫃は宿屋の窓から眺めていた。
「さあ、そろそろ奴さんが現れる時間だぜ。頼むよ、禁軍……」
夏も同じように外を見ている。猫は夏の頭の上でだらりと垂れて、時折欠伸をしていた。暇らしい。
「──来たようだ」
夏が言って、ずん……と地響きがした。昨晩と同じく、振動が徐々に大きくなる。
そして䍺は闇の中から現れた。考えていたよりも巨大だったのか、或いは感情のない長方形の瞳に慄いたのか、兵たちは唖然とした。
雷将軍は恐れることなく『放箭!』号令を発した。激しく銅鑼が打ち鳴らされ、兵が矢を放つ。
一斉に放たれた矢はひゅんひゅんと闇を切り裂き䍺へと一直線、撃ち漏らしなく、どれも直撃したように思えた──。
「や、やったか!」
掌櫃の顔が喜色に綻ぶが、
「ダメだ。効いていない」
直ぐに夏は否定した。確かに䍺の体の至る所に矢は刺さったが、びくともしない。血も出ていないように見える。
雷将軍が『曳索』と声を上げ、兵が綱を引く。次いで『放砲』の声と共に、投石機から震天雷が放たれた。
䍺の体に、顔に、胸に、肩に、股に、それぞれが直撃。チカッと真っ赤な閃光が走り、爆発炎上した。がぁんと耳を聾さんばかりの音が街に響き渡り、䍺の姿は煙に消えた。
「こ、今度こそやっただろう!」
䍺は凄まじい声量で『めえ』と鳴くと、唾を撒き散らしながら煙の中から現れた。夏の目には、やはりまるで効いていないように見えた。闇の中では断定しずらいが、毛皮に焦げすらないようにも思える。
そして䍺は禁軍の布陣していた辻に右足を下ろした。兵らの殆どが衝撃で弾き飛ばされ、直接踏み潰された者もいた。投石機は横倒しになり、竿も架台も折れてしまった。雷将軍も䍺を見上げることしかできない。
䍺はそのまま街を横断してゆくと、また闇の中へと消えてしまった──。
「あ、あれ? まさか、もうおしまい……? じゃあ、つまりは、その……、禁軍は負けちまった……、ってこと……?」
夏は腕を組んでうーん、と唸った。禁軍は出来る限りの働きをしたとは思うが……。
続きます。
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