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日々、繰り返し

掲載日:2026/04/24

 男が一人、ソファにゆったり腰掛けている。手元には一冊の本があり、ときおりページをめくる音が部屋に響く。八畳ほどの部屋は、ベッドとソファとローテーブル、隅にトイレとシャワースペースがあるだけの、簡素なものだった。

 本を読み終わった男は、テーブルにその本を置き、立ち上がるとドア横の壁に設置されている小さな機械のボタンの一つを押した。ビーと電子音がした後、二十秒ほど待っていると、ドアの小窓が外側から開かれた。

「どうしましたか」

「新しい本が欲しいんだ」

「タイトルは?」

「ミステリなら何でもいい」

「では明日の朝食と一緒にお持ちします」

 それでは、と閉じられそうになる窓に食いつくように男がドアにへばりついて言う。

「なあ、俺はいつまでここにいるんだ」

「お答えできません。何度も言ったはずです」

「だいたいでいいんだ、だいたいで」

「お答えできません」

「せめて、何のためなのかくらい、いいじゃないか、教えてくれたって。もう六十八日間も、ここにいるんだぞ」

「お答えできません。実験趣旨を被験者には一切伝えないこと、長期にわたって施設から出ることができない可能性のあること等、最初に同意していただいたはずです」

「あの長たらしい同意書やら誓約書やらのことか?ああ、分かってるさ。最初は俺もいいと思ったんだ、思う存分、誰にも邪魔されずに好きな本が読めるならって」

「それならいいではありませんか」

「よくない、よくない。もう飽きたんだ。本を読むだけの生活は。おんなじことの繰り返しの毎日は」

「一日三食、適度な運動の時間もあります。健康には問題の無いよう、管理されています。ご要望があれば、可能な範囲での差し入れもできます。本以外も、用意できます」

「そうじゃない。なあ、一日だけでいいから、帰らせてくれって」

「できません」

「お前になんの権限があってこんなことが許されてるんだ」

「私に権限はありません。ただの世話係です」

「あんな紙切れなんて、何の意味もないだろ」

「十分な報酬も、条件に含まれているはずです」

「いつもらえるんだ」

「すでにあなたの口座に振り込まれています」

「どうやって引き出すんだ」

「外に出れば可能です」

「いつ」

「お答えできません。被験者と一分以上の接触は禁止されていますので、これで失礼します。本は明日の朝食と一緒にお持ちします」

 小窓が閉じられる。男はドアに向かって叫ぶ。待て、待ってくれ。そうしながら、何度も壁のボタンを押す。

 電子音が鳴る。

 返事はない。

 小窓も開かない。




 ふう、と息をつき、男が腕をぐっと天井へ伸ばした。

 その正面には、モニターがいくつも並んでいる。そこには、ある一室をあらゆる角度からカメラでとらえた映像が流れている。今そのモニターの中で、ひとりの男が清潔そうなベッドで眠りについたところだった。マグカップに残っている茶をぐっと飲み干して、パソコンのキーボードに手をのせる。

『記録3745

 六十八日にしてようやくループを開始。これまでのどの被験者よりも効果が表れるのが遅かった。最長記録。最短では一日目。やはりまだ個人差が大きい。明日から、何度同じループを繰り返すかの観察へ移行』

 モニタールームのドアが開き、スーツ姿の男と女が入ってくる。

「調子はどうだ」

 モニターに目をやりながら、スーツの男が聞いてくる。

「結論を出すには、まだサンプルが足りません」

「被検体集めはどうなっている」

 スーツの女が答える。

「難航しています。実験意図を隠したまま、長期間拘束することになります。長期間、社会から隔離されて平気な人間を集めるだけでもひと苦労です」

「その分、金を出しているだろう」

「その金ですが」

「なんだ」

「資金調達班からも、難航していると、報告が上がっています。現在は、外国株の取引がうまくいっているようですが、今後も続く保証はない、と」

「政府からの補助金はどうした」

「申請が通りません。現在、政府内に潜り込ませている人員からの報告では、今後さらに規制が厳しくなりそうだ、と」

「あの大臣のせいか」

「まあ、あの失言がなくとも辞任は時間の問題だったでしょうが。国民は喜んでいますが、我々には痛手です」

「すぐに撤退、ほかの方法を探せ」

「すでに準備中です」

「ならいい。随時報告しろ。それからお前は、現時点での実験結果をまとめろ。一時間後、第四会議室だ」

 はい、とそれぞれに返事をする。スーツの男だけがひとり部屋から出ていく。

「疲れてるんじゃない?昨日は眠れたの?」

 スーツの女が先ほどとは違う声音で男に言う。

「十分とは言えないな。記録を見直していたんだ」

「少しくらい休んだら。ひどい顔してるわ。どうせ、ほとんどが録画を再生しているようなものでしょう」

「ああ、そんな言い方しないでくれよ。まるで同じ行動を二回三回と繰り返している、というだけで、同じだけど同じじゃないんだ。三回目の次は四回目なんだ。そしてそれを記録することにこそ意味があるんだ。同じである、ということが。実験とはそういうものなんだ。繰り返すことが重要なんだ。繰り返されている、ということそれ自体が素晴らしいんだ。僕らにできないことを彼らは体験している。それを僕は目に焼き付けておきたい。どんな些細なことも記録に残して起きたい。できるなら僕も味わってみたい。けど、ああ、僕は観察者でなければいけないんだ」

「はいはい、あなたはいつもそう」

「ああ、ごめんよ。でも、もういいかい。もうモニターから何分、目を離してしまっただろう」

「報告を忘れないで」

「ああ」

 男はぶつぶつ言いながら椅子に座りじっとモニターに見入る。女はその背中に何か声をかけようとして、しかし黙って首を振り、部屋から出ていった。




 男はモニターを切ると、すっかり暮れた窓の外に目をやった。男に与えられている仕事用の個室からは、遠くにビル群の明かりが、水たまりのように浮かんで見えた。

 部屋の電気を消し、個室から出ると、こじんまりした共用の休憩スペースがある。くたびれたソファと長机、壁沿いに人数分のロッカー。男が出てきた部屋の左右の個室のドアが開き、同僚たちが出てくる。

「おつかれっす。もう終わってたんすか」

「今、終わったとこだ」

「お疲れ様です。やっと帰れますね」

 眼鏡の男が疲れたように吐息をこぼした。

「今日はどうだった」

「だめですね。密売ルートは完全に壊滅エンドです」

「分岐は」

「分岐作成は今日の分を入れて四十二回やりましたが、大筋を変えるところまでは難しいです」

「明日、過去の分岐データを見せてくれ」

「わかりました」

「はあ、先輩たちはまじめっすね」

「そっちはどうなんです」

「順調っすよ。つまらないくらい。分岐をいくつか増やしてみたけど、やっぱ同じエンドになりそうっす。最初の三つさえ間違えなければ、大丈夫そうっすよ。あと何日か周回したら、確定の報告ができるんじゃないですかね」

「順調なのに、何が不満なんです」

「不満、っつうか、よくわかんないんすよ。こいつらは、これで満足なんかなって。決められたルート通って、誰かが決めた通りに生きるだけって」

「お前はどうなんだ」

「え?」

「お前は今、誰かが選んだルートを生きてるのか」

「俺は、自分で選んでるっす、よ」

 急に自信を無くしたように尻すぼみに答える若い男の肩を、男は優しく叩いて笑った。

 若い男のどこか納得いかないような表情をみて、眼鏡の男が口を開く。

「僕も、最初は不安になることがありましたね、そういえば。これは本当は何回目なんだろうって。一度そういう思考になってしまうと、全てのことが、前にもあったような気がしてくるんですよ。まあそれも、いつの間にか、無くなっていましたけど」

「誰もが通る道さ」

「先輩もあったんすか」

 意外そうな顔で、若い男が問う。

「あったな。もういつだったか分からないくらい前だがな。自分に自信がなくて、不安ばかり抱えてた頃が。これでいいんだろうかって。だが、まあいいか、って割り切って生きてくしかないのさ。死ぬまで、どれだけ選択して分岐するのか、そんなのいちいち数えて、分岐の先の先まで考えて生きてたら、きりないからな。大事なのは、今、自分がどうしたいかってことだけさ」

「今、自分がどうしたいか」

「自分の意志に反する選択をするから、本当にこれでいいんだろうか、って気持ちになる。そんときは、選び直せばいいだけさ」

「そんな簡単に言いますけどね」

「はは、そうだな。まあそれに、これは俺の考えだ。お前が同じようにする必要はないさ」

「はあ、なんか、腹減ったっす」

「お前なあ」

「飯、行くか」

「どこっすか」

「いつものとこだ」

「なんだ」

「文句あるか」

「ないっすよ。あそこの飯、うまいっすからね」

「そうだろ。俺は気に入ってるんだ。仕事して、いつもの面子で、いつもの飯屋で、うまいものを食って帰る、それだけの繰り返しの日々が」

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