世界で1番優しい不協和音
01. 街の調律師
スラムの朝は、錆びた配管が叩き出す不規則なビートで始まる。
俺、ゼノはこの街――アコードで「調律師」と呼ばれている。
「ゼノ、そっちの調子はどうだい?」
「最高だよ、おじさん。ここの階段の軋み、少しリバーブ(残響)が深すぎるから、隙間を埋めておいたよ」
俺の手には、自作のデバイスがある。
科学的に言えば、すべての物質は固有の振動数で震えている。俺の仕事は、その震えに干渉し、分子同士の結合力を一時的に緩める『低域周波数シフター』を使って、壊れた街の歯車を噛み合わせることだ。
「ゼノはいいやつだよな。腕は一流なのに、一銭にもならない仕事ばっかりしてさ」
通りがかりの連中が笑う。
ああ、俺は自分でも認める「いいやつ」だ。お節介で、お人好し。街の誰もが奏でるささやかな協和音を愛している。
だが、その「優しさ」が、取り返しのつかない不協和音を招くなんて、その時の俺は思いもしなかった。
02. 致命的なミス、あるいはラッキースケベ
「……よし、波形を滑らかなサイン波に固定して……」
昼下がり、俺は裏通りの古びた防壁に面した配水管を修理していた。
そこで俺は、ある科学的なジレンマに直面する。
壁の分子結合を完璧に強固なものにするには、特定の高周波を流し込む必要がある。しかし、その周波数は、壁のすぐ裏側にある幼馴染――リアの部屋の、古びた貯水タンクと『共鳴』してしまうのだ。
「……このままじゃ、リアの大切なタンクが、振動の倍音で粉々に割れちゃうな」
リアは昨日、「やっと手に入れたアンティークなんだから」と嬉しそうに話していた。
俺は迷わず、デバイスの設定を『ソフト・ニー(緩やかな減衰)』に変更した。
リアの宝物を守るため、壁の強度を犠牲にし、内部に微細な『脆弱なノイズ・ポケット』を残す設定。
その時だった。
「ゼノくーん! お裾分け持ってきたわよー!」
「あ、ありがとうございますっ……わわっ!」
背後から声をかけられ、お節介な俺の体が勝手に反応した。
振り返ろうとした拍子に、デバイスを握る指先が滑る。
――ズガガガガガッ!!!
放たれたのは、暴走した超低周波。
俺が加減して脆くなっていた壁は、不協和音を起こして砂のように崩れ落ちた。
そして、その先には――。
「…………え?」
湯気をまとい、まさにバスタオルを巻こうとした瞬間のリアが、石像のように凍りついていた。
一瞬の全休符。
「ゼノ……。あんた、死刑よぉぉぉ!!!」
彼女の放った最高音のフォルテシッシモが街中に響き渡り、俺の「最初のミス」は、最悪のハプニングとして幕を閉じた。
03. 扉は開かれた
「ごめんよ、リア。すぐに再構成するからさ」
夕暮れ時、俺は真っ赤な顔のリアに絞られた後、申し訳なさそうに壁を修理した。
見た目には、壁は元通りになった。
だが、動揺していた俺は見落としていた。その壁の内側に、敵の牙を通すための「致命的なノイズ」が残されたままだったことを。
その夜。平和な眠りは、血も凍るような低周波の地響きによって打ち砕かれた。
帝国音響兵器軍『レゾナンス』の急襲。
敵の放った重音子砲が、まさに俺が「適当に直してしまった箇所」に着弾した瞬間。
本来なら街を守るはずの防壁が、巨大な音響増幅器へと変貌し、街を内側から粉砕し始めた。
「嘘だろ……。僕のせいで……!」
崩れ落ちる街並み。悲鳴。そして、瓦礫の下で血を流すリア。
平和な協和音は、たった一晩で壊滅的なディストーションへと書き換えられた。
燃え盛る炎の中で、俺は己のデバイスを握りしめた。
お節介で、お人好しな「いいやつ」だったゼノは、あの日、死んだ。
「……消してやる」
震える声は、やがて低い、地を這うような重低音へと変わる。
「この世界の不協和音……僕がすべて、消し去ってやる」
これが、後に「沈黙の死神」と呼ばれる俺の、最初の旋律だった。




