ふたつの魂が交わる時
夜明け前、街はまだ静まり返っていた。
私はバッグに、蓮がくれたスケッチブックと古文書の写しを入れ、そっと玄関を出た。
空はわずかに白み始めており、遠くの山々の稜線がゆるやかに浮かび上がっている。
待ち合わせの駅前には、すでに蓮がいた。
大きなキャンバスを収めたケースを背に、いつものようにすっと立っている。
「……行こう」
私は頷く。
そして――私たちは電車とバスを乗り継ぎ、古文書に記されていた『神域』へ向かった。
彼岸花の群生地を過ぎ、苔むした石段を登りながら、蓮がぽつりと口を開く。
「ここ……初めて来たはずなのに、何度も夢で見ている」
「私も、そう――何度も見ている場所」
風が草木を揺らし、揃い咲いた彼岸花の花弁がゆらりと舞い上がる。
空気が変わったのを、ふたりは同時に感じた。
石段を登り切ると、崩れかけた祠がぽつんと立っていた。風化した木々に囲まれ、石碑の文字はほとんど読み取れない。
だが、蓮は迷わずその前へ進み、手を触れた――その瞬間、彼がふらつき、頭を抱える。
目は見開き、息も荒く、ただ低くつぶやく。
「君が――炎の中に崩れ落ちるのを見ていた。俺は、助けられなかったんだ。――やめろ……もう、やめてくれ……」
膝をついた蓮の額に、私はそっと手を添える。
「――見たのね、あなたの『始まり』を」
彼はゆっくり顔を上げる。目の奥にあるのは、悔恨を抱えた暗い色。
「何度も、何度も……守ろうとして、守れなかった。神に逆らって、罰を受けて、でも、あきらめられなかったんだ――君を」
私の胸の奥がきゅっと痛む。
その言葉が、あの夢の中で聞いた声と重なる。
「お前を、守る……。何度でも――」
過去は繰り返すものじゃない。
でも、それを選び直すことは、きっとできる――。
神殿へ続く最後の道。両脇を彼岸花が赤い絨毯のように彩っていた。
「ずっと怖かったの。運命なんて、変えられないって思ってた。でも……」
私は誓うように言葉を続ける。
「運命を変えるって、『誰かを救うこと』じゃなくて、『自分で未来を選び直す』ことなんだよね」
蓮がスケッチブックを開く。
そこには、何気なく描き溜めていた絵があった。
古びた神殿。その前で手を取り合う男女。
今の私たちの姿に、あまりにもよく似ていた。
神殿の門が見えたとき、ふと風が、止まった。
一面の彼岸花の中に、ひとつの影が立っていた。
人のようでいて、どこか人ならざるもの。
その姿は――蓮に似ていた。
「また来たのか」
低く、くぐもった声がする。
「何度誓っても、お前は彼女を失う。神に逆らった罰は、終わらない」
私が一歩、それに近づこうとした瞬間、蓮が遮る。
「やめろ。こいつは――過去の俺だ。守れなかった、選ばなかった俺自身だ」
影の目がぎらりと揺れる。
「ならば証明しろ。【意志】が【定め】を超えられるか――」
次の瞬間、影は一面の彼岸花の中に溶けるように消えた。
残された静寂のなか、彼が私の手をぎゅっと握る。
神殿の門が、静かに開かれる音がした。
そして、彼は重い口を開いた。何かを決意したような声で。
「選ぼう。今度こそ、終わらせるために。――君と、生きる未来を」
神殿の扉は、静かに軋む音を立てて開かれた。
中はひんやりとした空気に満ち、外の光を拒むようにほとんどが闇に包まれていた。
だが、一歩足を踏み入れた瞬間――私の足元に、淡く赤い光が灯る。
彼岸花を模した文様が、床に浮かび上がっていた。
「……これは」
蓮が手にした古文書を開く。そこにはこう記されていた。
『誓詞の地、記憶の核にして始まりの扉。ふたつの魂が交わる時、定めは新たに書き換えられん』
文様は私たちの歩みに合わせて徐々に光を広げ、やがて神殿の奥へと導いていく。
その先に現れたのは、円形の石の壇と、中央にある古びた祭壇だった。
祭壇の上には、二本の杯と、赤い封蝋で閉じられた古い巻物が置かれている。
そっと手を伸ばすと、封蝋が音もなく崩れ、巻物が開かれた。
『これは誓詞の儀。魂を交わらせることで、過去の輪廻を閉じるもの。ただし、扉を開くには――【片方が代償を負うこと】』
その言葉に、私たちは言葉を失う。
『代償』――それは、単なる痛みではない。
もう片方の魂を現世に縛り付けるため、一方が未来を断たれるという意味だった。
「つまり……どちらかが、生きる時間を手放すってこと?」
私の声はかすかに震える。
蓮は静かにうなずいた。
「だから、過去の僕たちは何度も儀式を前に、躊躇して……結局、選べなかった」
私の中に、かつての私――古代の巫女の記憶を思い出す。
儀式の場で、炎に包まれながら振り返った、あの哀しげな瞳。
『私たちは……また来世で。それしかできなかったの』
その選択が、数百年にも及ぶ輪廻を生んだ。
出会っては引き裂かれ、想いだけが残る幾度もの別れ。
私は静かに杯を手に取る。
「じゃあ、今度こそ。私たちの手で、終わらせるしかない」
蓮が顔を上げる。
「でも七海、代償は――」
「……その覚悟は、ふたりで決めるもの。今度はどちらかだけが背負うなんて、もうやめよう」
私たちは向かい合い、杯を掲げる。
杯に注がれた透明な水は、彼岸花の花弁が溶けるように赤く染まっていく。
「誓いの言葉を述べよ」
神殿の奥から、誰のものとも知れぬ声が響いた。
それは神か、過去の自分か。
私はゆっくりと口を開く。
「すべての過去を知った上で――あなたと、『今』を選びます。もう逃げない。何があっても、あなたと生きる未来を諦めない」
蓮もまた、杯を持ち上げた。
「何度も過ちを繰り返した。でも今度こそ、君を守ると、誓う。そのためには、俺を――この魂を差し出してもいい」
ふたつの杯が触れ合った瞬間、神殿全体が光に包まれる。
床の文様が揺れ、赤く咲き誇っていた彼岸花が、一本、白く変わった。




