噛み合う記憶のピース
ギャラリーのドアベルが鳴る、かすかな音に反応して、蓮が顔を上げた。
「……七海?」
ふいに現れた彼の顔は、驚きと、どこか安心したような表情が浮かんでいる。
私は、昨日の服装のままだったことも忘れていた。ただ、どうしても、急いで彼に伝えたかった。
「……話がしたくて、来ました」
蓮は、軽くうなずいてキャンバスの前から離れる。
ギャラリーの隅、窓際に置かれた小さなベンチへ並んで腰かけた。
「変な話に聞こえるかもしれないけど、聞いてほしいの。あの絵を見てから、夢を見始めたの」
私は静かに声を出す。
燃える建物、叫ぶ声、抱きしめられた温もり――そして、「お前を守る」という言葉。
「……夢の中で私は、あなたのことを知ってる気がしたの。名前は思い出せないのに、心が覚えてるみたいに」
蓮は黙って聞いていた。
ただ、時折、視線が揺れる。何かをこらえるように、唇を引き結んでいる。
「俺も……夢を見るんだ。君の言う夢と、似ているかもしれない」
彼は、静かに話を続ける。
「火の中で、誰かを探している。何度も名前を呼んでる。だけど顔は思い出せない。ただ、その人だけは、なぜか……君に似てるんだ」
言葉の間に、胸の奥が熱くなる。
私は手を強く握りしめた。震えそうになる指先を、見せたくなかった。
「私たち……前にも、どこかで会ってたのかな」
ぽつりとこぼしたその言葉に、蓮がゆっくりと首を振った。
「初めて会った気はしなかったよ。それなのに、どこか懐かしくて……」
ふたりの間に、静かな沈黙が流れる。
窓の外では、夕暮れが街を橙に染め始めていた。
私はゆっくり立ち上がる。
「……ありがとう。話して、少し楽になった。変な話を信じてくれて」
蓮は小さく微笑んだ。
「変な話じゃないと思うよ。俺も、信じたいから」
ギャラリーを出た七海の背中に、風が通り抜けた。
どこか懐かしいような、あの言葉がまた心に残っていた。
「お前を、守る――何度でも」
その日、私はまた夢を見た。
しんとした夜の静寂。
焚かれた香の煙が、白い布をまとった私の髪をなでていく。
私は神殿の石段にひとり座り、祈りを捧げていた。
背後では、鈴のような音。
一面の赤い彼岸花が夜に揺れる。
その中心に、自分はいた。
「この身を、神に。捧げます……」
刹那、ぎゅっと掴まれるような感覚が全身をかけめぐる。
冷たい風が、その時を告げるように私の額に触れた。
その時、ひとりの男性が声を上げて近づいてくる。
「――ここにいてはいけない――!」
その声。
夢なのに、なぜか心が震える。
「あなたは、だめ……神に触れた者は、呪われる……!」
「――お前を、守る。――何度でも」
彼と走り出した瞬間、背後で火が上がった。
神殿が燃え、鈴の音が歪んだように聞こえる。
誰かが叫んでいる――いや、自分だ。
そして炎の中、手を離された瞬間――。
私の意識は、現実に戻った。
呼吸が止まりそうで、苦しい。
汗をかいた手で、ぎゅっとシーツを握りしめる。
私は意識がはっきりとしないまま夢の中で呼ばれた名前と、守るという言葉が、心の奥に深く残っているのを感じていた。
それは、夢物語でもない、私たちの過去。
私たちは、何度も――出会っていた。
そして、そのたびに、彼は――私を、守ってくれていたんだ。
胸の奥が、熱を帯びていた。
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数日後、再び訪ねたギャラリーはいつもより静かだった。
平日の昼間、訪れる人もほとんどいない。
私は足音を忍ばせるように中へ入った。
前回来たとき、片隅に立てかけられていた未完成のキャンバス。
それが、今は照明の下で展示されていた。
キャンバスの中心に立つ、一人の女性。
長い黒髪を風に揺らし、白装束に身を包んでいた。
背景には、燃えるような彼岸花の群れ――そして、遠くに見える社殿。
まるで夢で見た光景、そのままだった。
「……あれが、君なんだね」
背後から声がした。振り返ると、蓮が立っていた。
私は絵から目を離さずに口を開く。
「この人、私に似てるよね」
「……うん。描いてるときは、誰だかわからなかった。ただ、どうしても描きたくて……筆が止まらなかった」
振り返ると彼の目の奥には、複雑な思いがにじんでいた。
「俺の夢の中に、いつも現れる。白い衣を着た君が、誰かに追われて。火の中を走っていて――」
彼の声がわずかに震える。
「なのに、顔が見えなかった。ずっと。……この絵で初めて、ちゃんと見えたんだ」
私は再び絵に視線を戻した。
その瞬間――強烈な光と熱が、頭の中を突き抜けた。
遥か古代――。
神の巫女として捧げられるはずだった私は、その運命を、心の奥底で拒んでいた。
夜明け前、神殿の奥で身を清める最中、誰かが、禁じられた扉を開いた。
「ここにいてはいけない。お前を、死なせない」
現れたのは、山村の青年。
神職に仕える者ではない、部外者。
それだけで、この神域では重罪とされる存在。
「あなたは、だめ……神に触れた者は、呪われる……!」
「お前を、守る……何度でも。たとえ罰を受けても」
手を引かれ、逃げ出した巫女。
それは、「神の意志」に逆らう行為――。
宿命の破綻だった。
【神の怒り】は、神殿を火で包んだ。
燃え広がる炎、咲き誇る赤い彼岸花。
血のように、罪の色のように、揺れていた。
逃げ場を失った先で、男が叫ぶ。
「お前だけでも、生きろ――!」
その声が最後に残った。
そして、闇に包まれる。
意識が戻った時私はふらつき、思わず壁に手をついた。
彼が慌てて倒れそうな私を支える。
「……見たの。私……神の巫女だった。あの人に助けられて、でも……彼は……」
「俺も見た。夢の中でずっと。君を助けようとして、何度も、何度も――火の中に消えていく姿を」
私たちは沈黙のなか、彼岸花と巫女の絵の前に立つ。
その時、頭に言葉のような感覚が浮かんだ。
『神に逆らった者は、永遠に引き裂かれる……! それでも愛を選んだ罪を、輪廻で贖え――』
「……私たち、罰を受けてるのかな」
「でも、出会い続けてる」
私がぽつりと呟くと、彼はそっと頷いた。
「何度生まれ変わっても、君に会って、君を守ろうとして……けど、いつも最後には……失ってる」
ぼんやりと絵の中の彼岸花が揺れている気がした。
それは、季節外れに咲く、境界の花。
【あの世】と【この世】、夢と現実、過去と今――すべての狭間で、ふたりを繋ぐ記憶の花。
私の目が、また熱くなる。
「もう、失いたくない」
蓮がそっと手を伸ばし、ふわりと私の手を包む。
そうして、私たちは再び巡り合った『今』を、静かに確かめ合う。
――この時を、決して無駄にしないために。




