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彼岸の恋文  作者: 凪砂 いる


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3/10

赤い夢は扉のように

 ――夜勤明けの朝。

 ふと、昨日と同じバスに乗っていた。

 体は疲れているのに、心のどこかが落ち着かず、まるで何かに呼ばれているようだった。


 気づけばまた、あのギャラリーの前に立っていた。


 中に入ると、空気は変わらず静かで澄んでいた。

 けれど、展示されている絵が一部入れ替えられていることに気づく。

 あの――彼岸花の中に立っていた『私に似た女性』の絵は、もうなかった。


 代わりに、一枚の絵が壁の中央に掛けられていた。


 その絵は、どこか懐かしい風景を描いていた。


 夕暮れの駅舎。古びた木のホーム。遠くに煙を吐く蒸気機関車。

 手前には、赤いスカートをはいた女性が背を向けて立っていた。

 長い黒髪。うなじが少しだけのぞいている。

 隣には軍帽をかぶった青年の横顔――その表情に、どこか蓮の面影があった。


 私は息を呑む。


(この景色……知ってる……?)


 絵の中の空気が、肌に触れるような気がした。頬に風が吹いた気さえする。

 その瞬間、視界がぐにゃりと歪んで、景色が変わった。


 ――カン、カン、と鐘が鳴っている。

 汽笛が鳴り、蒸気の音が辺りを包んだ。


 着物の裾が風で揺れる。線路の向こうには赤く咲いた彼岸花が揺れている。

 絵の中の女性――いや、『あの頃の私』は、目の前の青年の手を握り締めていた。


「お願い、行かないで……」


 嗚咽混じりに声がこぼれる。けれど青年は、苦しげに微笑む。


「君を巻き込みたくない。……また、必ず会える。信じて待っていてくれ」


 そう言って、彼は手をほどいた。


 汽車が動き出す。金属音が遠ざかるたびに、胸が引き裂かれていく。

 振り返った青年の目――そこには涙があった。


 そして、視界が赤に染まった。

 咲き乱れる彼岸花。

 まるで別れの花のように、燃えるような赤が世界を包んでいた。


「……お客様、大丈夫ですか?」


 ギャラリーのスタッフの声が、私を現実に引き戻す。

 気づけば頬に涙が伝っていた。


「……すみません、なんでもないです」


 慌てて袖で目元をぬぐう。

 でも、なぜ涙が出ているのかわからなかった。

 いや、本当はわかっている気がする。ただ、まだ口に出す勇気がないだけだ。


「この絵、今朝運びました。作家さんが『何となく筆が動き出して描いていた』って言ってました。不思議ですよね、理由もなく描くなんて」


 その言葉に、蓮の声が重なる。


『理由なんて、あとからついてくるものだよ。たとえば——誰かを思い出した時とかね』


 ギャラリーを出ようとしたとき、ふと視線の端にひっかかった。


 ギャラリーの一番奥の目立たない場所に立てかけられた、一枚のキャンバス。

 白いカバーが半分だけめくられている。偶然にも風が吹き、布の端がはらりと落ちた。


 私はふと足を止める。


 そこに描かれていたのは、炎だった。

 真っ赤な火柱が立ちのぼる夜の街。焼け落ちる建物。空を焦がすような紅。

 その中心に、影のように立ち尽くす誰かの姿。

 輪郭はまだぼやけていて、顔もはっきりとはわからない。


 けれど――。


(この光景、見たことがある……)


 喉の奥が、きゅっと締め付けられる。

 鼓動が、強く、重く鳴った。

 絵の中から熱があふれてくるような錯覚。

 手の甲が、じんわりと熱くなり視界が赤く滲む。


 私は目をそらせなかった。

 火の中に立つ影。その姿が、自分自身のような気がして――。

 同時に、誰かが、自分の名前を叫ぶ声が、耳の奥でこだました。


「七海――!」


 気づけば震えていた。

 けれど、それでもなぜか、目が離せなかった。


 その夜――。


 再び、七海は夢を見た。

 焼け落ちる家、崩れる柱、煤けた空。

 火の海の中、彼の手が、確かに自分を引いていた。


「お前を、守る……。何度でも――」


 その声は、私の心の中にずっと残っている聞き覚えのある声。


 蓮の声だった。


 ――部屋の中に、まだ夢の気配が残っていた。

 私は、夢の中で聞いた声にうなされるように目を覚ました。


 呼吸が浅い。手のひらに熱を感じる。

 夢だったはずなのに、どこか体の奥底で覚えている。


 ――炎。

 ――名前を呼ばれた。

 ――「お前を守る」……誰かが、そう言った。


「あの夢……」


 私は毛布を払い、手のひらを見つめた。

 そこにはなにもない。けれど、確かに熱が残っているような気がした。

 手の甲を撫でると、うっすらと赤い痕のようなものが浮かんだように思えた。


 ――気のせい?

 ――それとも……。


 ぼんやりとしたまま窓のカーテンを開けると、陽の光がまぶしかった。

 晴れた空。気温もあたたかい。

 けれど私の中であの絵の炎の色が焼き付いて離れなかった。


 昼過ぎ、ふらりと再びあのギャラリーを訪れた。

 夢の余韻がまだ残っていた。

 心のどこかで「もう一度確かめたい」という衝動が消えずにいた。


 ギャラリーの奥。昨日見た『未完成の絵』は、まだそこにあった。


 けれど今日は、その前に人がいた。

 白いシャツの背中。静かに筆を動かしている。

 それが蓮だと気づいたとき、私の胸がふいに高鳴った。


 蓮はゆっくと振り返り、私を見る。


「……来てくれたんだ」

「……この絵が、気になって。夢にも出てきたの。……変な話だけど」


 私は絵を見つめた。

 昨日よりも少しだけ筆が進んでいる。

 炎がいっそう赤くなり、建物の輪郭がくっきりとしてきていた。

 だが、中央の人物だけはまだ、顔が描かれていなかった。


「……この中の人、私なんじゃないかって……そんな気がしたの」


 彼は静かに、目を細めた。


「……やっぱり、そうかもしれない」

「え……?」

「描いているとき、どうしても顔だけが浮かばなかった。でも、誰かを炎の中で見送った記憶があった。あのとき、助けられなかった。……だから今度こそ、って思いながら描いてた」

 彼の視線が、真っ直ぐ私を見つめる。

「七海――夢の中で、君の名前を呼んでいた。何度も」


 その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。

 なぜか彼の声が、あの夢の中の叫び声と重なって聞こえた。


「……怖かった。火に包まれて、もうだめだって思って……でも、誰かが手を掴んでくれた。その手が、あたたかくて……あれ、あなた、だったの……?」

 言葉にしながら私の目がじんと熱くなる。

「なんで、私、泣いてるんだろう……」


 彼は、微笑みながらそっと私の手を取る。


「思い出しかけてるんだよ、きっと。ゆっくりでいい。君が誰でも、俺は……また会えたことが嬉しいから」


 私は、ただ頷くしかなかった。

 彼の手の温もりに、なにか深く懐かしいものが流れ込んできた気がした。


 その夜、私はまた夢を見た。


 静かな夜に突然鐘の音が響く。音にざわめく人々の声。

 立ちのぼる火の手が、あっという間に建物を包み込んでいく。


 私、いや――かつての私は、瓦礫の中に立ち尽くしていた。


 炎が、赤い舌を伸ばすように屋根を飲み込み、煙が空を裂いて昇っていく。

 誰かの悲鳴。誰かの名前。叫ぶ声、泣き叫ぶ子ども。

 耳をつんざく轟音の中で、私はひとり、誰かを探していた。


「……れん……っ! 蓮……!」


 火の中から、ひとりの若い男性が走ってきた。

 その姿は煤けて、息も荒く、服の袖が裂けていた。


「七海……っ! よかった、まだ……!」


 彼女を見つけた瞬間、男の顔がゆがむ。

 安堵と、怒りと、哀しみと――そして決意が、その目にあった。


「なぜ戻った! 逃げろって言っただろ!」

「あなたが戻らないから……っ!」


 炎が間近で爆ぜ、音が私の耳を突き刺す。

 立っているだけで、焼けるような熱。

 周囲の空気が震え、酸素が奪われていく。


 蓮は彼女の手を掴む。

 けれどその瞬間、背後で崩れ落ちる梁の音。


 逃げ道が、なくなっていた。


「――くそっ……!」


 蓮は私をかばうように抱き寄せ、覆いかぶさる。

 私は彼の胸に顔を埋め、震える声で言った。


「こわい……また、あなたを失うのがこわい……っ」


 その言葉に、蓮が静かに答える。


「大丈夫。お前は、俺が守る……」

「たとえ、何度生まれ変わっても――何度でも、何度でも……お前を、守る」


 その声が響く中、私はバサッと飛び起きるように目を覚ます。

 気がついたら喉はカラカラで、心臓の鼓動は強くリズムを体の中に響かせている。


 夢の内容を思い出そうとすると、頭が痛くなる。

 でも、はっきりと覚えている言葉があった。


「何度でも、お前を、守る」


 私はそっと手を握った。

 涙で濡れた頬に、じんわりとした熱が残っていた。

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