最初のキャンバス
「私を……見つけて。ずっと――あなたを探してる」
女性の声が響く。
――その瞬間。
さわっと一面に咲いた彼岸花が揺れる。
そこに立っていたのはひとりの女性。
俺の、夢にいつも出てくる……彼女。
これは……夢なのか?
毎年、彼岸花の咲く季節になると夢を見る。
夢の中で見る彼女は、見るたびに違う時代で出会う。
出逢い、そして別れる夢。
その姿に手を伸ばす。
しかし彼女は薄く微笑むばかりで、俺の手は届かない。
「――っ!」
彼女の名前を呼ぼうとするが、思い出せない。
俺は、彼女の名を知っているはずなのに。
そう思った瞬間、目が覚めた。
ベッドとキャンバスしかない、俺の部屋。
瞼が……重い。
――でも、描いておきたい。
夢の記憶を。彼女のことを。
俺は筆を取って赤い一面の彼岸花と、その中に立っていた女性をキャンバスに無我夢中で描いていた。
夢なのか真実なのかは、今はまだわからない。
でも、描き続ければ、いつか辿り着ける気がする。
確信めいた希望を心に秘め、俺は筆をとる。
そして、彼女との記憶を描いた作品で、個展を開く。
『ヒガンの記憶』として。
---
夜が明ける寸前の街は、まだ夢の中にいるように静かだった。
ビルのガラス窓が淡い桃色に染まりはじめ、眠気と疲労が一度に押し寄せる。
私、羽川七海はコートのポケットに手を突っ込みながら、ビルの裏手をぼんやりと歩いていた。
夜勤明けの足取りは重い。頭の芯にまだ電話の音が残っている気がする。
機械的な応対と、割り切った声のトーン。今日も何十本と電話をこなしたはずなのに、ひとつひとつの内容が靄の中に沈んでいた。
ふと、視界の端に赤い色がちらついた。
そこだけ、季節が違うようだった。
小さな路地の先。ガラス越しに、真紅の花が咲き乱れているのが見えた。
ギャラリーだった。
白い壁に、大きな絵が一枚だけ飾られている。名前も知らない画廊。扉は半開きで、誰の姿も見えなかった。
吸い寄せられるように中へ足を踏み入れる。
その絵は、まるで夢の一場面のようだった。
彼岸花。赤い、燃えるような花が、画面いっぱいに揺れている。
花の海の真ん中に、一人の女性が立っていた。目を伏せ、静かに微笑んでいる。
白い服が風に揺れ、黒髪が首元に貼りついていた。
……自分に、似ている。
似ている、なんて言葉では片付けられない。
まるで——この人は自分であると胸の奥が即座に告げるような、圧倒的な既視感だった。
額縁の下に、名札のような小さなプレートがあった。
『赤い花の道』——そう、題名には書かれていた。
作者名のところには、たった一文字。
「蓮」
その名前を見た瞬間、私の鼓動がひとつ跳ねた。
なぜだろう。初めて目にするはずの名前なのに、——どこかで、呼ばれた気がする。
私は無意識に絵へと歩み寄った。
額縁の中の赤が、鼓動と同じリズムで脈打って見える。
そのとき、不意に背後から声がした。
「……彼女に、似てるね」
びくりとして振り返る。
そこには、青年が立っていた。
黒のハイネックにロングコート。痩せていて、目元の陰がやけに深い。
「すみません、急に。驚かせたならごめん。でも、本当に……よく似てる」
私は言葉を探したが、喉がうまく動かなかった。
その目が、自分を通り越して【誰か】を見ているように思えたから。
彼は視線を絵に戻し、言った。
「この人は、昔……赤い花の中で、僕を待っていた」
——あ、と思った。
耳の奥で、ぱちん、と小さな音が弾ける。
気づけば、ゆらりと私の視界が揺れていた。
足元から熱が昇る。
目の前の花が、風に揺れて、燃えるように開いていく。
熱い。痛い。けれど、怖くない。……知ってる、この感覚を、昔、たしかに。
――火の音。
――誰かが叫ぶ声。
――「先に逃げろ」
――「いやよ、あなたを残していけない」
――赤い花、赤い空、赤い指先。
「……っ!」
私は、絵の前で膝をついた。
額に浮いた冷や汗を拭う手が、かすかに震えていた。
彼が慌てて近づこうとしたとき、私は彼の目をまっすぐ見つめ、尋ねた。
「……あなた、名前……なんていうの?」
彼は少しだけ目を細めて、静かに答えた。
「蓮。画家をやってる」
その名前を聞いた瞬間、心の奥で、誰かの【誓いの声】がよみがえった。
——また来世でも、あなたを見つける。
額縁の中の彼岸花は、風もないのに揺れて見えた。
私は立ち上がり、絵と彼のあいだでゆっくりと問いかけた。
「……この絵のモデルは、誰?」
彼――蓮は、顔を曇らせて少しだけ黙った。
視線は絵の中の女性から離れない。
「……正確には、モデルなんていないんだ。ただ……」
言いよどみ、彼は言葉を探すように目を伏せた。
「あるとき、夢で見た。花の中に立って、俺に手を伸ばす人を。顔も、名前すら分からないのに、目が離せなかった。……それから、ずっと、描き続けてる」
「……それが、この人?」
やっと絞り出した声は、少しかすれる。
目の奥がじんと熱いのは、涙ではなく、何かもっと古い感情のようだった。
「なぜ、彼女を描いたの?」
問いかけながら、自分の胸に問い返していた。
なぜ、自分はこの絵に引き寄せられたのか。
なぜ、この人に『見られていた』気がしたのか。
彼は、ほんの少し微笑み、寂しさを含んだ声で口を開く。
「さあ……どうしてだろうね。気がついたら、彼岸花ばかり描いてた。気づけば、彼女が真ん中に立っていた」
「でも……会える気がしてたんだ。ずっと、描いていれば。いつかきっと、彼女が現れてくれるって」
私の心臓が、ふと音を立てて跳ねた。
彼はゆっくりと、私に視線を戻す。まっすぐに。
「……だから、君が扉の前に立ってたとき、正直……驚いたよ」
静寂が私たちの間に流れる。
けれどその沈黙の中で、確かに何かが動き出していた。
まるで、閉じたままだった記憶のページが、一枚、音もなく捲れたように。




