第78話 ご主人様とドライブ
side:御堂 かがり
フロントガラスに降り立った雪を払うべくワイパーが規則正しく動く。
静かな街を車は進んでいく。
それにしてもご主人様が飲み会だなんて珍しい、私と会ってからほとんど行っているところを見たことがない。
「まだ起きてますか?」
「んぁっ……起きてるよもちろん、メイドさん」
身体を震わせて返事をするご主人様。帰ったらたくさん水を飲んでから、熱々のシャワーに入ってもらわなければ。
ご主人様の体調を管理するのもメアドの勤め。
「眠たいなら寝てていいって言いましたのに」
まさか助手席にご主人様を乗せる日が来るとは思わなかった。どちらかと言えば助手はメイドである私なのに。
「でもお喋りするって……ふわぁ」
欠伸を止めきれずに大きな口を開けるご主人様、いつもと違って幼く見える。
それでもミラーに映る彼のシャツは少しはだけていて……ちょっと、そんな格好で他の女の人の前に出ないで欲しい。どうするんだ、どこかに連れ込まれたら。
「どうでしたか、久しぶりの飲み会は」
せっかくお話してくれるらしいので水を向ける。
「うーん……初めて話す人とかもいて楽しかったよ……全部メイドさんのおかげだね」
もごもごと口を動かしながら彼は言葉を落とす。
「私は何もしてませんよ」
周りに車の影はないからゆっくりと走らせる。
適当に流したラジオも夜に相応しい落ち着いた曲を流してくれている。
「そんなことないって、メイドさんが家に来るまでは飲み会なんて絶対行けなかったし」
少しの沈黙の後、窓の外に目を向けながら彼が口を開いた。
外を降る雪を見ているんだろうか。
「確かに、あの時のご主人様ってば生活が大変なことになってましたもんね」
初めて彼の家に足を踏み入れた時は、部屋がぎりぎり生活できるかどうか、という様相を呈していたのだ。
あれから半年、よくここまで綺麗に保てていると思う。
それに、最近は彼が意識的に早く帰ってきているのを感じる。
メイドを始めた頃は結構残業している日もあったのに。もちろん今でも無くなりはしないけど、そういう日は前もって教えてくれるから助かっている。
早く家に帰ってくる理由のほんの一部にでもいいから、私が入っていてくれればいいな、なんて柄にもないことが頭を通り抜けた。
きっと夜だから、だから今は仕方ないのだ。
「また飲み会に誘われたら行きたくなるくらいには楽しかったけど」
ぽつんと呟かれた言葉に、少しだけ胸が痛む。
彼はずり落ちた自分の身体をぐいっと上へと引きずって腕を伸ばす。シートベルトの反動のまま座席にもたれ掛かる。
ずっと見ていたい気持ちもあるが、残念ながら今日は私が運転手。タクシーにすればよかったかしら。
「また行かれる時は今日みたいに事前に教えてくださいね」
「もちろん。でも俺は家でメイドさんのご飯を一緒に食べてる方が好きかな」
こうやってさらっと嬉しいことを彼は言うのだ。ずるい。嬉しさと恨めしさが半々に混ざって頭の中をぐるぐると駆け巡る。
先程感じた胸の痛みは、彼の言葉がどこかへ連れ去ってくれたみたいで。
今は温かいもので心が満たされている。
「では明日も美味しいご飯を作らないといけませんね」
声に喜びの色が滲まないよう細心の注意を払いながら、私は努めて冷静に振る舞う。
「じゃあ俺も早く帰らないと」
「私は毎日待ってますよ、もちろん今日だって」
「今日は迎えにも来てくれたもんね」
「酔って終電を乗り過ごしたら大変じゃないですか」
「あれ、さっきは会いたかったからって言ってくれたのに」
なんでそんなことばっかり覚えてるんですか。
赤信号に捕まって静かにブレーキを踏んでいく。
結構飲んだであろうご主人様が気持ち悪くならないように。
まるで世界に2人きり、なんて海外の恋愛映画みたいなセリフが頭に浮かんでは、すぐに消えていった。恥ずかしくて口に出せたものじゃない。
相も変わらず雪は止んでくれなくて。いや、降っててくれてよかったのか。彼を迎えに行く理由にもなったし。
「ねぇメイドさん」
まだ歩行者用の信号は青だ。踏み続けたブレーキはきっと車だけじゃなくて。
少しでも足を緩めると勝手に少しづつ動いてしまうところまでそっくりだ。
「はい、いかがなさいましたか?ご主人様」
いつものやりとり。
毎日ここから会話を始めているのだ、私たちは。
「メイドさんはどうしてそこまでしてくれるの?」
やけに真剣な声で彼は問う。
なぜ……か。心の奥底ではわかっているはずなのに、まだ彼に伝えるには早いと思ってしまうのだ。
「お仕事だからですよ、私の目標としているメイドって常に完璧なんです」
結果口から出たのはおよそ関係を進められるとは思えない言葉。
「かなめさんだよね〜、あの人がいるといつどこにいても安心できそうだけど、逆にいつ見られているかわからないから怖いよね」
視線を上に向けている彼は私の実家に帰った時のことを思い出しているんだろうか。
「えぇ、うちに来られたお客様はいつも驚いて帰られますよ」
「そりゃそうだ、全部が完璧なタイミングなんだから」
かなめさんは私の憧れだ。
どんな時も冷静で包容力があって、愛情深い。
でも彼女は誰かに仕えることを選んだけど、私はご主人様に……っていやいや何を考えてるんだ私は。
やがて信号の色が変わる。
少しだけ遠回りしても怒られないよね、彼とゆっくり話だけする機会なんてあんまりないんだもん。
いつもは甘いものが目の前にあったりして、私は、私は……。
自分の醜態を思い出すと胸がきゅうっと締め付けられる。
この想像はやめておこう。
本当なら真っ直ぐ進むはずの道を左折する。遠回りだって、どこかで2回右に曲がればいいのだ。
「そっか〜。俺は甘いもの食べて嬉しそうにしてるかがりも好きだけどね」
ご主人様はドアに肘をついて外を再び眺めている。
どくん、と心臓が跳ねる。間違ってアクセルを強く踏んだらどうしてくれるんだこのご主人様は。
「急にどうしたんです?」
動揺していることが気取られないようにいつもの声を出したつもりだけど。
変なところで鋭いご主人様のことだ、気が付いてるかも……というか気付いてくれていたら楽なのにな。
「ん?いや、いつも思ってるけど言えないことをって。せっかくお酒の力を借りられるわけだし」
はにかんだような、悪戯に成功したような笑みを浮かべて彼はこちらを向く。
彼がお酒を毎日飲む人じゃなくてよかった、これじゃあ心臓がいくつ会っても足りない。
「そ、それは嬉しいですけど……」
「だから完璧じゃなかったとしても俺はさ、」
小降りになった雪にワイパーを止める。この続きを聴き逃したくなくて。
「メイドさんと一緒にいたいと思うよ」
小さく呟かれた言葉は、雪の結晶が肌に吸い込まれるように私の心の中に染み込んでいく。
いつか自分の仕事に自信が持てなくなった時が来ても、この言葉を思い出して私は頑張れるんだろう。
◆ ◇ ◆ ◇
隣には寝息を立てるご主人様。
すやぁ、という効果音がぴったり似合う寝顔に思わず笑ってしまう。
まったく、言いたいことだけ言って一人で夢の世界にいってしまうなんて。やっぱり彼はずるい人だ。
この半年で彼の表情をたくさん見ることができた。最初の警戒心を抱いた顔に、私のわがままを受け入れてくれる時の「しかたないなぁ」とでも言わんばかりの眉尻の下がった顔、そして寝ている時はこんなにあどけなくて。
信号待ちの間、彼の頬をつつく。ぷにぷにとした感触を楽しんでいると、彼は苦しそうに顔を反対側に向けてしまう。
ちょっと意地悪しすぎただろうか。
奥の方に見えている信号を曲がれば私たちの家だ。
長くて短い夜の旅もこれで終わり。それでも、彼が言ってくれた言葉が現実になるのなら、これから先何回でもできるだろう。
あわよくば、あわよくば彼との時間がずっと続けばいい。
それが「主人とメイド」じゃなくてもいいと、もう一歩進んでもいいと私は思っているのだ。
彼が実際のところ私との関係をどうしたいのかは聞けず終いだったけれど、勇気を出せなかった私にも非があるから仕方ない……ということにしておこう。
ハンドルを右に切ると、道路にはもう私たちしかいなくて。
家に着いて車を止めたら彼を起こさなくちゃ。
最後にこれだけ。今の私じゃこれが精一杯で。
でも、不甲斐ないところがあっても私と一緒にいたいと言ってくれた彼に自分を誇れるように。
寝ていることを確認してから、ご主人様の唇に自分の人差し指を添える。
「お慕いしております慧さん。これまでも、これからも」