第73話 メイドさんとどら焼き①
なんとか定時で退勤して東雲から逃げるかのように会社から出た俺は、電車で家の最寄り駅に向かっていた。
会わなかったらなにか聞かれることもないしな。
毎日見るホームに降り立って、いつもの改札を抜ける。
向かったのは家とは逆方向、メイドさんにおねだりされてしまったからな。
『和菓子買って帰るから、いつもよりほんの少しだけ遅くなるかも』
『やったぁぁあ!!!』
『あ、失礼しました。承知いたしました』
テンションの上がりようを抑えきれていないメイドさんに笑ってしまった。あそこまで甘いもの好きだったら、甘味を献上しながらお願いごとをすれば「まぁいいですよ」とか言いそうだよな。
口をもっもっと動かして。
とはいえ俺は意識的に甘いものを控えなければ。
彼女と同じ生活をしていたら一瞬で糖尿病になってしまう。あ、そうだ、今度メイドさん誘って人間ドックでもいくか。福利厚生のひとつということで。
そうこう一人で考えていると、ネットで前に話題になっていた和菓子屋さんに到着、この時間にも開いているのは社畜に優しい。
普段社畜として生きていたら中々入ることのない店の雰囲気に圧倒される。しかし頑張ってくれたうちのメイドさんを満足させるには勇気を出さねばと、俺は暖簾を手で捲りあげながら店の中へと足を踏み入れた。
◆ ◇ ◆ ◇
鍵穴に鍵を差し込んで回す、数秒空けてから扉を引くと目の前には真っ黒なワンピースに真っ白なエプロンを着けたメイドさん。
「おかえりなさいませ、ご主人様……と和菓子!」
「もう隠さなくなってるじゃん」
「楽しみなんですもん!私が甘党だってことを隠したら甘いものが食べられますか!?否!むしろ逆でしょう!」
突然演説が始まった。
口は動かしながらも、俺のジャケットと鞄を受け取ってくれる。
おい、和菓子の箱を受け取る方が俺の荷物を受け取るより丁寧なのはおかしいだろ。
「ときにご主人様、ご飯にしますか?先にお風呂にしますか?それとも……さ・い・ば・ん?」
そこは「私」であってくれよ。いや、あったとてスルーはするんだけど。
「最後の何?」
「かわいい後輩に仕事を手とり足とり教えていい感じになってないのか聞き出そうと思いまして」
裁判かよ、弁護人も付けずに出られるかそんなもの。
というかお昼にギルティって言ってたじゃねぇか、ってことは二審かこれ。
「じゃあご飯で」
もちろん裁判を選ぶはずもなくて。
「えーんご主人様が冷たいです〜」
泣くフリをしながらバタバタと地団駄を踏むメイドさん。
「ではでは、私はご飯の最後の仕上げをしますので、ご主人様は着替えてくださいね」
茶番は終わったらしい。柔らかな笑みを浮かべて彼女はそう言うと、キッチンへと歩いて行った。
心なしか声が上機嫌なのは、手に持った和菓子の箱のおかげに違いない。
言われるがまま自室で部屋着に着替えると洗面台へ向かう。
手洗いうがいに顔を洗う、これだけで家に帰ってきた気持ちになるから不思議なものだ。
さっきまで着ていたシャツを洗濯機にシュートして俺もリビングへと向かった。