第70話 とあるメイドの発起
新年も明けて少し経った平日、ご主人様が出勤してからリビングに戻った私は違和感を覚える。
「あっ……!!」
テーブルの上に堂々と鎮座するのはお弁当箱。それだけ見れば何の変哲もない光景だが、奥でゆっくりと動く時計がその違和感を加速させる。
まずい……私としたことが、出発前にご主人様の身だしなみチェックに気を取られて渡すのを忘れていた。
意外と広い胸板とかいつもちょっと緩んでるネクタイとか、付け入る隙がありすぎるのがいけないのだ。
あんなの外に出してしまったら、どこの女に言い寄られるかわかったもんじゃない。
……っと、このままでは彼がお昼抜きになってしまう。何でも卒なくこなすメイドとしてそれは見逃せない。
まぁ彼のことだ、お昼は外で済ませて「お弁当は夜食べるので置いてて」なんて優しいチャットが来るのだろう。
しかしそれはそれ、仕事において妥協を許さない、主に私のプライドが。
「仕方ない……冷蔵庫の中身も余裕あるからスーパーは明日でもいいし……行きますか!」
彼の起きる前から着ているメイド服を脱ぎ捨てて、私服に着替える。
もしご主人様の同僚に会った時にだらしないと思われないよう、綺麗めオフィスカジュアルとかの方がいいだろうか……それとも彼の周りを牽制するためにかわいい系の方がいいだろうか。
うーん、でも突然かわいい感じで来られても、彼もびっくりしちゃうか。こんなことを考えるなんて、半年前は夢にも思わなかったな。
ホワイトブリムをスチャッと外してテープルへ。これがないと仕事してる感じがない。
自室の鏡の前で一回転、いいんじゃないだろうか。
真っ白のボウタイブラウスにハイウエストな黒いスキニーパンツ、派手すぎないピアスを着けて、髪はバレッタで後ろにまとめてくるんと上げておく。
ロングコートを着込んで最後に黒い手袋を嵌めた。
「ちょうどご主人様の職場も見てみたかったしね」
誰に聞かせるわけでもなく呟く。
あぁだめだ、イレギュラーなはずなのに昼間から彼に会えることを楽しみにしている。
いつからこんなふにゃふにゃの心になってしまったんだ。
玄関の姿見で自分の姿を最終チェック。どこからどうみてもキャリアウーマンだ。まさか街ゆく人が私をメイドだとは思わないだろう。
あ、そうだ、お弁当も持ってかなきゃ。もし忘れたらご主人様に会いに行くだけになってしまう、でもそれもいいかも。
「どうしてこんなところに!?」と目を見開くご主人様が容易に想像できる。まぁでも、それは今度のお楽しみにしよう。
今朝もご主人様、いや、慧さんが出ていったドアに手をかける。
1月も半ばに差し掛かるがまだまだ寒い。やっぱり手袋はまだ手放せなさそうだ。
◆ ◇ ◆ ◇
電車に揺られながら窓の外に目を向けると、雲ひとつない晴天に景色が流れていく。
平日の昼間にしては電車に人が多くて、揺れる吊革に合わせて私も揺れる。
目を閉じれば瞼の裏に現れるのは彼。
最近は私が触れても嫌がらないどころか彼から触れてくれることさえある。主人とメイドとしては不自然だが、一人の女性として、御堂かがりとしては嬉しくもある。
……そもそもメイドって存在が現代日本では不自然だろ、なんて脳内慧さんが突っ込んでくる。
あのふにゃっと下がった目尻に、アンバランスに片側だけ開いた口に、自分の手とは似ても似つかないごつごつとした指に私の心は溶かされているのだ。
いつもと違うことをしているからか、いつもと違うことを考えているとすぐに目的の駅へ着く。
降りたことのないホームへ一歩踏み出す。
目的地が初めての場所だと緊張や不安から遠く感じてしまうのは私だけだろうか。
別にお昼休みまではまだ時間があるから間に合いはするだろうけど、寄り道する勇気はない。
あ、慧さんにチャット入れてから来ればよかった。突然会社に行って席を外していたらどうしよう。
それに私、彼の部署がどこなのか、何階にあるのかも知らないし……。流石に見切り発車過ぎたかな。
時間というのは無常なもので、答えが出ないうちに会社のビルが見えてくる。
一般人がどこまで入っていいものかわからず、エレベーター横の案内板をくるくると見回す不審者メイドになっている。
「あの……」
鈴を転がしたようなかわいい声が後ろから聞こえる。
振り返ると私よりも小柄な女性。
「お困りでしょうか、もしよろしければお聞きしますよ」
そう言いながら彼女は私の隣に並ぶ。社員証を首から提げているところを見ると、この会社の社員さんなんだろう。
「実は主人が忘れ物をしていまして持ってきたのですが、どの部署かもわからず……」
主人に語弊があるだろうか。いや、別に私の認識では間違ってないんだけれども。
「あ、そうなんですね!旦那様のお名前伺ってもいいですか?知ってる人ならすぐご案内できますし、そうでなければ内線で聞きますので、その時は一旦私の部署に来ていただければ!」
にこっと微笑むその顔は万人を惹き付けるような可愛らしい表情で。
「ご丁寧にありがとうございます、主人は藤峰というのですが……」
ふっと時間が止まる感覚。おそらく目の前の彼女の表情が固まったからだろう。
「ふ、ふじみねでございますね。下の名前は慧でお間違いないですか……?」
震える指で彼女はエレベーターのボタンを押す。はて、どうしたんだろう。
「え、えぇ……」
あれ、慧さんとお知り合いだろうか。
エレベーターに乗り込んだ彼女は私の手をじっと見つめると短く息を吐いた。
「なるほどなるほど……はぁ、こんなところで」
「大丈夫です?」
「大丈夫です!ご安心ください、すぐにお連れしますね!私、東雲と申します。藤峰さんには昔お世話になったので少し驚きまして」
やはり知り合いだったのか。こんなにかわいい子が知り合いだなんて、慧さんも隅に置けない……というか帰ったら裁判だ。
「ちなみに何を忘れたんです?」
きゅっとバインダーを胸に抱きながら、彼女は質問を口にする。
身長差的に仕方がないことだが、この上目遣いは効く。本当にかわいい。
「お昼のお弁当です」
「え゛!あの人手作りお弁当持ってきてるの……ずるい」
「東雲さんは主人と同じ部署なんですか?」
「いえ、今は違う部署です」
それを聞いて安心してしまった自分がいる。こんなあざとかわいい後輩がいたらすぐに堕ちてしまう。
ん……?今は?
「昔、私がこの会社に入った時の教育係が藤峰さんだったんです」
はい、ギルティ。教育係……!?手とり足とりくんずほぐれつ教えてたってこと?
だめだ、最初に声をかけてもらった時は渡りに船だと喜んでいたけど、完全に間違いだった。そんな親しい人に私と慧さんの関係をばらす訳にはいかない。さて、どうしたものか。
「そ、そうなんですね」
なんとか返事を絞り出したところで、エレベーターが停止する。
「こちらへどうぞ」
てくてくと歩く彼女の後ろを恐る恐る着いていく。
やがてひとつの扉の前へ。深呼吸しようと息を吸ったところで、東雲さんは容赦なく扉を開けた。
「藤峰先輩いらっしゃいますか〜?かがりさん来てますよ〜!」
あれ、どうして私の下の名前を、と思ったところで奥から慌てた様子の慧さんが現れる。
「どうしてこんなところに!?というか東雲……なんで?」
見たことの無い表情をした彼は、私たちを廊下へと連れ出すと後ろ手に扉を閉めた。