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王太子の婚約破棄で逆ところてん式に弾き出された令嬢は腹黒公爵様の掌の上

「シャルロッテ侯爵令嬢! 貴様とは婚約破棄をする!」


「どうぞご自由に?」


 それは、王太子の無謀な婚約破棄から始まった。







「わ、私が……アルベルト公爵と結婚ですって!?」


 穏やかな午後。伯爵家の応接間に、ディアナ伯爵令嬢の大声が響いた。

 父親は顔をしかめて耳を(ふさ)ぎ、当の公爵は涼しい顔で紅茶に口を付けていた。


「ディアナ、もっと令嬢らしい振る舞いをしなさい」


「で、ですが……お父様……!」


「そんな態度ではアルベルト公に嫌われるぞ」


「べ、別に嫌われても構いませんからっ!」


 ディアナはきっと公爵を睨み付けた。

 艶のある黒髪に、切れ長の赤い瞳。整った目鼻立ちは、多くの令嬢たちを虜にする怪しい美しさを持っていた。


 優雅にお茶を飲むアルベルトの視線が、ディアナに向く。すると彼はふっと口の端を上げて、厭味ったらしく笑った。


(もうっ! なんなのよ、こいつ! 絶対に嫌がらせで縁談を持ち込んだんだわ!)


 ディアナ伯爵令嬢とアルベルト公爵は()()()()で有名だったのだ。







 ディアナ伯爵令嬢には婚約者がいた。国の第二王子であるハインリヒだ。

 王家と伯爵家の政略結婚は、ディアナが物心がつく頃には既に決まっていた。


 幸運なことに、二人は出会ってすぐに意気投合した。

 そして今ではすっかり信頼関係が構築されていて、互いに尊敬し合い、もう「家族」みたいな関係になっていた。


 二人はこのまま結婚して、ハインリヒは公爵に臣籍降下し夫妻で王族を支えるものだと思っていた。


 しかし、王太子のエドゥアルトが男爵令嬢ローゼと「真実の愛」を見つけてしまった日から一変してしまう。


 王太子は婚約者のシャルロッテ侯爵令嬢と婚約破棄をして、恋人を妃に迎えようと躍起になり、賢い侯爵令嬢は愚かな二人をまとめて制裁しようと水面下で動いていたのだ。


 そして王太子の誕生日パーティーの日。エドゥアルトはお粗末な証拠を手に婚約破棄宣言。当然、準備万端のシャルロッテは返り討ちだ。


 かくして、王太子は()()()()恋人である男爵令嬢との結婚を勝ち取った。


 だがそれは男爵家に婿入りという形になってしまい、彼の王位継承権は剥奪。

 今は田舎の男爵領で愛しの妻と仲睦まじく暮らしているのであった。


「こんなはずじゃなかった!」


 そして婚約者が退場し、宙ぶらりんになってしまったシャルロッテ侯爵令嬢。

 腹黒い彼女は陰謀を巡らせ、王太子の婚約者として残留。「未来の王妃」という絶対的な地位は確保したままだった。


 国は王太子が空位になって、その婚約者だけが残るという前代未聞の事態に陥ってしまった。


 王太子が消えると、順序として第二王子が繰り上がることになる。

 なので、ハインリヒが立太子をすることとなったのだ。


 王太子妃は既に決まっているものだから、ハインリヒは自動的にシャルロッテの婚約者となった。

 それによって、彼の「元」婚約者であるディアナは、一人だけ弾かれて社交界の荒波へ放流される。


 王家から手厚い補償はあったものの、彼女の社交界での立ち位置は「婚約解消になったキズモノ」。

 下手に第二王子との婚約期間が長かったので、彼女は社交界ではもう既婚者のような扱いだった。


 二人の間には肉体関係どころか口づけさえ交わしたことがなかったのに、婚約解消された今はまるで汚れたものみたいな扱いだったのだ。


 彼女の父は次の婚約者を探そうと奔走していたが、適齢期の令息たちは既に婚約者が定まっていた。

 可愛い娘を老人の後妻には出したくないし、仮にも王子の婚約者だった令嬢を下級貴族や平民に嫁がせたくもない。


 もう八方塞がりで頭を抱えている伯爵のもとに、ある日、まるで神の恵みのような話が舞い込んだのだ。


 それが、アルベルト公爵からの縁談である。







 アルベルト公爵は、建国時に剣として活躍した初代国王の王弟の家門だ。


 代々の当主も武において天賦の才を持ち、現当主の彼も国一番の剣術使いで更には魔法の腕も最強。国の騎士団の総司令官を担っていた。


 軍人としての公爵は、冷徹で好戦的。

 年々領土を広げてきている帝国に対して、こちらから戦を仕掛けるべきだと主張する「過激派」として知られていた。


 ディアナ伯爵令嬢は、魔法の才に恵まれた。


 子供の頃から騎士物語に憧れていた彼女は、両親の反対を押し切って騎士団の魔法隊に入団した。

 彼女は騎士団の副司令官であるギュンター侯爵に師事していた。


 この副司令官は、総司令官とは正反対の考えを持つ「穏健派」として知られていたのだった。


 当然ディアナは師匠の意思を継いでいる。

 常に主義主張をはっきりと述べる彼女は、穏健派の急先鋒として度々過激派とぶつかり合っていた。


 しかも地位が遥か上のアルベルトにまで噛み付き、彼も毎度売られた喧嘩を買っていたので、軍ではよく二人が言い合いになっている場面をよく目撃されていた。


 もっとも、ディアナが噛み付いているだけで、アルベルトのほうは軽くいなしていたのだが。







「全く……相変わらず騒がしい令嬢だな」


 静かにティーカップを置いたアルベルトが、嫌味ったらしく言い放った。


「なんですって?」


 途端にディアナの眉が吊り上がる。彼女は彼の一挙手一投足が気に食わなかった。

 こんな奴が新しい婚約者だなんて、お父様はどうかしてる。


「これからは公爵夫人となるのだ。もっと(つつ)ましやかにしたまえ」


「ですから、結婚なんて――」


「やれやれ。君も意外に頭が悪いな」


「なっ……!?」


「今の君の存在は、政治的に非常に不安定だ。長年、第二王子の婚約者として過ごしてきたので、王族の機密情報を見聞きしているだろう?」


「そうですが……。まだ婚約者の段階でしたので、ほんの少しです」


「それは君の主観に過ぎない。王族の情報は、例え僅かだとしても喉から手が出るほど欲している人間は多い。君の人権など無視をして悪用しようとする(やから)も出るかもしれない。……もしかしたら、口封じに王族自体が――」


「やめてください! 不敬です!」


「可能性の話だ」


「ハインリヒ殿下は、そんな方ではありません!」


 アルベルトは肩を(すく)めて、


「私は実際に君を狙おうとしている他国の情報を入手したのだ。面倒事が起こる前に、自分が引き取ったほうが良いと思ってな」


 アルベルトはニヤリと意地悪そうな笑みを口端にたたえた。


「それに、もう伯爵とは話がついている。君に選択の余地はない」


「お父様!」


 彼女の怒りは、今度は父へと向く。

 伯爵も二人の仲がよろしくないことは知っていた。なのに婚約だなんて、信じられなかったが……。


「ディアナ、公爵の提案は我々にとって願っても見ない幸運だ。残念だが、もうお前には後がない。この縁談は喜んで引き受ける以外に選択はないだろう?」


「私は、結婚などしなくても結構です!」


「馬鹿言うんじゃない! お前の弟も屋敷の人間も『あんなじゃじゃ馬を一生面倒見るのなんて御免だ』と言ってるぞ!」


「なぁんですって……!?」


 剣呑な様子で睨み合う父娘(おやこ)

 公爵は目をぱちくりさせながらその様子を(うかが)っていたが、


「くくっ……あはははは!」


 とてもおかしそうに声を出して笑った。


「笑わないでください!」


 ディアナは顔を赤くしながらアルベルトを睨んだ。一番見られたくない人間に醜態を見られて、とっても悔しい。


「失敬、失敬」公爵は笑いをこらえながら言う。「君は他の令嬢よりも、伸び伸び育ったとは思っていたが……。家族の信頼関係がしっかりと築かれているのだな。素晴らしい」


 貴族社会は当主の存在は絶対だ。中には、妻や娘は「物」と同等の認識の家長もいる。

 しかしディアナの父は、妻や娘の意思を尊重してきていた。


「自由にさせすぎたら、すっかりお転婆娘に育ってしまいました。なんともお恥ずかしい」と、伯爵は肩を竦める。


 ディアナがちょっと居心地の悪い思いをしていると、


「いや……」


 アルベルトはふっと優しそうに目を細めた。


「伯爵の教育が素晴らしいので、こんな素敵な令嬢になったのでしょう。縁談を受けてくださって心から感謝いたします」


 公爵の意外すぎる感謝の言葉に、父も娘も身体が()り固まった。


(えっ……。なんで……? なんで褒めるの? どういうこと……?)


 にわかにディアナの脈が跳ねる。ずっといがみ合っていた公爵の口から、あんなセリフが出てくるなんて。


 それに……優しい瞳に、柔らかい声音。

 これまでに見たこともない彼の様子に、彼女の心はかき乱れていた。

 なぜか顔が上気して、胸の高鳴りが止まらなかった。


 こうして、アルベルト公爵とディアナ伯爵令嬢の婚約が決まったのだ。







 二人の婚約のニュースは、あっという間に王宮を駆け巡り、たちまち騎士団にも知れ渡った。


 過激派のアルベルトと穏健派の代表みたいなディアナ。この二人が夫婦(めおと)になるという超衝撃的な事実は、王宮の――特に騎士たちを震撼させたのだった。


(ちょっと……どういうことよ……!)


 いや、一番震撼したのはディアナ本人かもしれない。

 アルベルト公爵は婚約が決まって以来、まるで人が変わったように彼女に対して軟化した態度を取るようになったのだ。


 それは軟化どころではなく……。


「まだ地面がぬかるんでいるから、足下に気を付けなさい」


「あ、ありがとうございます……。で、でも一人で歩けますので……戦闘用のブーツですし……」


「式までに何かあったらどうするのだ。公爵家の沽券に関わる」


「えぇえ……」


 婚約者たちが一緒にいる場面の目撃情報は、日に日に増えていった。


 あんなにいがみ合っていた二人は、一緒に昼食をとったり、一緒に帰ったり、休日は一緒に観劇していたり。

 これまでの二人の険悪なムードを見てきた騎士たちには、嵐が直撃した日よりも衝撃だった。



 実は、ディアナには敵が多い。


 それは主に騎士団の敵対派閥の騎士たちだ。

 穏健派の中の過激派みたいな彼女は、彼らからしょっちゅう口撃を受けていた。

 実力主義の騎士団は下級貴族や平民も多く、伯爵令嬢かつ王子の婚約者の彼女に対する妬みも含まれていた。


 今日は月に一度の騎士団の幹部会議。

 第三魔法部隊の副団長である彼女も会議に参加していた。


 議題は最近辺境に近い少数民族が国境警備隊と衝突している問題で、過激派は弾圧すべきだと主張をし、ディアナたち穏健派は話し合いを進めるべきだと主張していたのだ。


 白熱する中で、過激派騎士たちの期待の視線が総司令官に向く。

 普段なら、「さすが世間知らずのご令嬢はお甘い」などと言って一緒になってディアナを攻撃している公爵だ。今回もあの生意気なお嬢様のプライドをへし折ってくれるに違いない。


 しかしアルバートの出した答えは、


「今回は背後に隣国の辺境伯が関与しているのは確かだ。よって、辺境伯もろとも討つ。以上だ」


 いつもの澄ました顔でそれだけ言って、すぐに具体的な作戦の話に入った。

 彼のあっさりした態度には、その場にいる全員――当のディアナまでもが困惑した。


 普段なら、伯爵令嬢に嫌味の一言は必ず付け加えるのに……。







「ディアナ」


 会議の後、聞き覚えのある優しい声音に、ディアナはびくりと身体を強張らせた。


「王太子殿下……」


 嫌な予感がしてぎこちなく振り返ると、そこには元・婚約者のハインリヒが立っていた。


(あ……)


 彼女は彼の微かな表情から感情を読み取る。

 とても心が沈んでいる様子。家族みたいに長い時間を共に過ごしてきたから、相手の考えていることが手に取るように理解(わか)る。


「……もう、名前では呼んでくれないんだね」


 彼の掠れた声が、彼女の胸をチクチクと突き刺す。金色の長い睫毛(まつげ)が悲しげに伏せていて、彼の全身が嘆いているように見えた。

 その様子に彼女の良心が痛んでしまい、思わず一歩あとずさってしまう。


「も……もう、私たちは婚約者同士ではありませんので……」


 一拍して、やっとの思いで震えた声を出す。()()を改めて口にすると、どうしようもない寂寥(せきりょう)感が込み上げてきた。


(もう、子供の頃みたいに無邪気に笑えない関係なのね)


 ディアナにとって、ハインリヒとは既に「家族」になっていた。

 空気みたいに、いつも側にいる人。それを失った今、自分の心の一部が抜け落ちたみたいだ。


「っ……!」


 いつの間にか彼は彼女の目の前に立っていて、少し下を向いていた彼女の顎を軽く持ち上げた。


「なにを――」


「必ず、君を迎えに行くから。それまで待っていて欲しい」


 ハインリヒはまっすぐにディアナを見た。

 真剣な表情。見てはいけないものを見た気がして、彼女は慌てて視線をそらす。


「殿下には、シャルロッテ侯爵令嬢がいらっしゃるではありませんか」


 そして申し開きのように早口で言った。


 ハインリヒの立太子と新たな婚約は王命だ。絶対に覆すことはない。

 なのに、彼は一体何を言っているのだろうか。


「兄上が失脚した今、僕は王子としての義務がある。だが、結婚は話が別だ」


「きゃっ」


 にわかにハインリヒはディアナの両腕を掴んだ。彼のやりきれない想いが強い力になって、彼女は鈍い痛みを感じる。


「僕は……これまでの君との時間を、無かったことにはしたくない。君を失いたくないんだ。だから、側妃にしてでも――」


「ディアナ嬢」


 そのとき、鋭い声が二人を引き裂いた。


「っ……!」


 その声の主は、たちまちディアナをハインリヒから引き剥がす。


「アルベルト公爵……」


 彼女は両肩を背後から抱きしめるように、アルベルトから引っ張られた。その手には熱を感じで、ドキリと脈が跳ねる。


()()()()()に何か?」


 アルベルトがハインリヒをきつく睨み付ける。本来なら不敬な行為だが、彼のあまりの迫力に王子も伯爵令嬢も何も反応できずにいた。


「いや……」


 少しの緊張感のあと、王太子は小さく肩を竦めた。


「失敬。……特に何もないよ」


「左様でございますか。私のほうも、声を荒げて大変失礼いたしました。婚約者というものは一番大切な存在ですので……」


 アルベルトは落ち着いた声音で言うものの、彼の瞳の奥にはギラついたものが映っていた。


 王太子は静かに踵を返す。

 一瞬だけ名残惜しそうな視線をディアナに向けたが、すぐに瞳をそらした。


「かなり強く掴まれたようだが、大丈夫か?」


「えぇ……。お気遣い、ありがとうございます問題ございません」


 ディアナの心臓はばくばくと大きく波打っていた。

 その理由は何なのか、彼女には全く分からなかった。







 アルベルトの変化は、ディアナを困惑させた。

 これまでの二人の会話は基本的に嫌味の応酬だった。

 だから、きちんと正面から向き合ったことなんて一度もなかったのだが――……。


「ディアナ嬢、お手を」


「あ、ありがとうございます……」


 ()()()アルベルトが馬車を降りるディアナをエスコートしている。

 未だに慣れない彼女は、彼と手と手が触れ合った瞬間にじゅわっと焼けるような感覚が走るのだ。


 公爵と伯爵令嬢の婚約が公になって以来、アルベルトは騎士団本部まで毎日送り迎えをしていた。

 最初は彼女は拒否したが、「ならば10人の騎士を護衛につける」と彼が主張してくる。

 さすがに騎士団に所属している人間が多くの騎士から守られるのは恥だと、渋々受け入れたのだ。


「別に、私は一人でも大丈夫ですのに……」と、ディアナは不満そうに口を尖らせる。「それに、王宮からの護衛は一人でした」


「前も言ったはずだ。君の今の立場は危ういと。婚姻まで油断しないほうがいい」


「ですが……」


「私は君の婚約者だからな。これくらい当然だ」


 アルベルトはふっと優しく目を細める。

 婚約してから、よく見るようになった顔。その柔らかいな表情を見ると、ディアナはなぜかいつも急激に感情が揺さぶられてしまう。


 二人の間に沈黙が落ちる。それはハインリヒの時とはちょっと違った沈黙だった。

 あの頃はこの静寂が穏やかで、安心するような、何も感じないような……。それは特に心が上下しないものだった。


 でもアルベルトとの沈黙は、まだぎこちなくて。

 静かになる度にディアナの胸が高鳴って、自分でもどうしようもならない気持ちになってくる。


「あぁ、そうだ」


 アルベルトは彼女の感情を知っているのか知らないのか、何事もないように涼しい顔で言う。


「来月の王太子殿下の結婚式だが、ドレスを贈るよ。ぜひ着てくれないか?」


「……」


 ディアナは目を丸くして、一瞬だけ動きを止めた。

 無反応な婚約者に、アルベルトが顔を曇らせる。もしかして、嫌だったのだろうか。


「あぁ」


 ややあって、彼女は思い出したように顔を上げた。


「そう言えば、来月は王太子殿下の結婚式でしたね。すっかり忘れておりました」


「……」


 彼女の予想外の反応に、彼は目をしばたく。


「……一応、君の元婚約者だろう?」


 そして呆れたように苦笑いをしてみせた。


「本当に忘れていたのです。強がりなどではなく」


 実際、ディアナの頭の中からハインリヒの存在は徐々に薄れていっていた。

 王太子の結婚式も、多忙な日々の中のお決まりの行事の一つみたいな感覚で。


 切ない失恋の感情ではなく、安堵とか、肩の荷が降りたような。

 まるで異国へ旅立つ家族の健闘を祈りながら、爽やかな気分で見送るような。


 そんな気持ち。


「……ドレス、楽しみにしていますね」


 この感情は、アルベルトへの感情と何かが違うと思った。

 それが何かは、まだ分からないけど。





 ディアナとアルベルトの婚約が社交界へ周知され、だんだんと受け入れられていた、そんな時だった。


 彼女自身も新しい婚約者との生活に慣れ、これまで抱いていた嫌悪感もすっかり消えてしまっていた。

 相変わらず婚約者は優しくて、あんなにいがみ合っていた日々も遠くのことに思えてきていた。


 ()()()魔法隊長に頼まれて総司令官のもとへ報告書を届けに行き、アルベルトから「少しばかりお茶でも……」と捕まった帰りだった。


「いい気なものだな。伯爵令嬢様は」


 棘のある声にふと視線を向けると、柱の陰から二人の人物が憎々しげにディアナを()め付けていたのだ。


 見覚えのある顔ぶれだった。むしろ、忘れたくとも、嫌でも顔を思い出してしまう人たち。


 彼らは、総司令官の直属の部下で、なおかつ苛烈な「過激派」として知られた人物だ。

 当然、ディアナとは相性が悪く、これまで度々ぶつかり合っていた。


「……何がですか?」


 ディアナも負けじと睨み返す。

 最近の過激派の連中は、婚約の影響か彼女に対して敵意をなくした様子だったが、この二人だけは相変わらず難癖をつけてくるのだ。


「はっ、白々しい」


 女のほうの部下が顔を歪めながら鼻で笑う。たしか、男爵令嬢だっただろうか。

 同じ令嬢同士、しかもディアナのほうが身分も騎士階級も上だからか、彼女は何かと突っかかってくる。


 彼女はディアナの鼻先までずいと顔を寄せて、


「第二王子に振られたからって、次は公爵閣下か? 地位があれば誰でもいいんだな。尻軽め」


「そっ……」


 ディアナは言い返そうとしたが、次の言葉が出なかった。

 自分自身でも分からないのだ。……胸の奥の感情が。


「何をしている」


 次の瞬間、三人の間をアルベルトの険しい声が引き裂いた。

 峻厳な声音に全員がビクリと肩を揺らせて振り返る。


「そ、総司令官……」


「こ、これはですね……」


 部下の二人は、しどろもどろになって言い訳を探す。アルベルトの威圧感は、彼らの心臓を鷲掴みにしているようだった。


 一拍して公爵は首を振って、


「お前たちは直ぐに持ち場に戻るように」


「は、はいっ!」


「失礼いたします!」


 傲慢な部下たちを追い払った。


 ディアナだけが、その場に残される。彼女は俯き、婚約者と目を合わせようとしなかった。


「私の部下がすまなかった。何かされたのか?」


 婚約者の不穏な様子を察知して、アルベルトは不安げに彼女の顔を覗き込んだ。


「っ……」


 二人の視線が合う。途端に、彼女の瞳からポロポロと涙が(こぼ)れだした。


「ど、どうした!?」


 彼は慌てた様子でポケットからハンカチを出して、婚約者の涙を拭った。

 だが(しずく)はどんどん溢れてきて、ついに彼女はしゃくり上げて泣いてしまった。


「か……」


 涙にまぎれて、彼女のか細い声が聞こえてくる。


「彼らの……言う通りなんです……」


「そんなことは……」


 彼の言葉を否定するかのように、彼女はぶんぶんと大きく首を横に振った。


「私は……子供の頃から、ハインリヒ殿下の婚約者でした……。それはもう、長い時間を共に過ごしてきたのです……。ですが……」


 ふと、ディアナはアルベルトをじっと見つめた。

 一瞬だけ時が止まったように感じて、彼の脈が跳ねる。


「私は……わ、私は、アルベルト公爵に惹かれているんです……。人生の半分以上を王子の婚約者として生きていたのに、なんて……なんて、軽薄な…………」


 ディアナの泣き声が大きくなった。


 言ってしまった。

 ずっと胸の奥に封じ込めていたのに、もう我慢することができなかった。


 胸の中は、恥ずかしさと情けなさと、アルベルトを愛しいという気持ちで、ぐしゃぐしゃと乱れていた。


 子供の頃から一緒だった第二王子。

 二人で築いた時間は長かった。笑ったり、泣いたり、いたずらをして二人して怒られたり。数え切れないくらいの思い出がいっぱいだった。


 でも今の自分は、王子ではなく、アルベルトに心惹かれている。

 彼のことをもっと知りたいと思うし、もっと一緒にいたいと思っている。もう頭の中は彼でいっぱいなのだ。


 こんなの、本当にただの()()()だ。


「……」


 アルベルトは少しのあいだ目を見張っていたが、


「それは……軽薄などではないのではないか」


 優しく目を細めてディアナの髪を撫でた。


「えっ……?」


 彼の意外な反応に、彼女はピタリと泣き止む。


(私を非難しないの……?)


 彼はちょっと躊躇する素振りをしてから口を開く。


「現王太子とは、君の中で『家族』になっていたのではないか? 家族は恋愛対象とは違う」


「家族」という単語に、彼女は弾かれたようにはっと我に返る。

 言われてみれば、そうかもしれない。


 ハインリヒとは子供の頃から一緒にいる時間が長くて、もはや両親や兄と()()()()()()()を持っている気がする。


 アルベルトは話を続ける。心なしか、少しだけ顔を上気しているように見えた。


「その……。家族への愛情と、異性への愛情は異なるのだと思う。だから……そう思い詰めるな」


 次の瞬間、彼女の顔に光が指した。同時に、ある「事実」にも気付いて、胸がざわざわと波立つ。


 彼女は、本当の気持ちにやっと気付いたのだ。


 そんな彼女に、彼も意を決して正面から向き合った。


「ディアナ嬢。私は初めて会った時から、君のことを――……」







 その日の午後、アルベルトは部下たちを執務室に呼び出した。

 さっきディアナに噛み付いてきた二人だ。


 彼らを前にした途端、戦場と同じ殺気立った瞳を彼らに向けた。恐怖を帯びた沈黙がみるみる広がっていって、部下たちは縮こまった。


 少しして、公爵は底冷えするような低音で静かに言った。


「お前たちのことは、部下として信頼しているが……」


 彼は一拍置いて部下たちを見やる。

 恐ろしさを伴った静けさが心地悪くて、二人は背中にゾクリと悪寒が走った。


「今後、私の婚約者を傷付けるようなことがあれば容赦はしない。……分かったな?」


「は、はい……!」


「承知いたしました……!」


 辞去が許されると、二人は逃げるように部屋から飛び出した。

 彼らはあの目を知っている。

 あれは、戦場で敵を前にした時の、血に飢えた瞳だ。



「君たち」


 その時、不意に彼らの背後から声がした。

 冷や汗が止まらない中で、唐突のそれに二人は心臓が止まりそうになる。


 恐る恐る振り返ると、そこにはアルベルトの親友で副司令官、そして穏健派のギュンター侯爵が笑顔で二人を眺めていた。


「もしかして、アルベルトに何か言われた?」


「そ、それは……」


 二人が気まずそうに口ごもっていると、


「いやぁ、悪いねぇ〜。アルベルトは()()()()()()()()()()()とやっと結ばれたから、はしゃいでいるんだよ〜。許してやってくれ」


 侯爵はケラケラと笑いながら楽しそうに去っていった。


「そんな、まさか……」


「嘘だろ……」


 取り残された二人は、いつまでも茫然自失と立ち尽くしていた。







 今日はハインリ王太子とシャルロッテ公爵令嬢の結婚式。

 ディアナはアルベルトから贈られたドレスを(まと)い、そわそわと婚約者の到着を待っていた。


「お母様、変ではないですか?」


「はいはい、変ではないですよ」


 何度も同じやり取りをして、母親はにこりと微笑む。

 王子が婚約者だった頃は、社交の場に出る日はどこか()()()な様子だった。


 でも、公爵の時はまるで()()()()()みたい。

 最初は心配だったが、今は公爵が新たな婚約者になってむしろ良かったのだと安堵していた。


 あれから二人の関係は急速に近付いて、今ではもうどこから見ても相思相愛だった。

 穏健派の騎士たちは純粋に二人を祝福し、過激派の人間もだんだんとディアナを受け入れてきた。


 彼女は自分の政治的主張は決して変えなかったが、反対派の意見にも耳を傾けるようになった。


 アルベルトもディアナを無駄に煽るような真似は止めて、普段の彼らしく冷静に対処するようになった。

 彼女はそれがちょっと寂しかったりして。



 結婚式は滞りなく終わり、後席のパーティーの時間。

 王太子の結婚で国中の貴族が集まっているので、ディアナはアルベルトの婚約者として挨拶回りに励んでいた。


 さすがに疲れたので、彼女がバルコニーで一休みをしていると――……。


「ディアナ」


 聞き覚えのある声が、彼女の耳をくすぐった。


「王太子殿下、この度は誠におめでとうございます」


 彼女はカーテシーをする。

 それはもう、臣下としての態度だった。


「ごめん……。間に合わなかった」


 ハインリヒは悲しい顔で元婚約者を見る。

 彼女はそれに気付かない振りをして、表情を崩さずに言う。


「殿下と妃殿下の婚姻の儀の参列が叶い、至極光栄でございます」


 再び、事務的に述べる。強がりではないし、純粋なお祝いの気持ち。

 でも、ちゃんとケジメをつけなければいけないと思った。


「ディアナ!」


「っ……!?」


 次の瞬間、ハインリヒはディアナを抱き締めた。気持ちを押し付けるように、強く力が込められている。


「僕は、君のことが好きだ! 絶対に離したくない!」


「止めてください!」


 ディアナは弾くように彼から離れる。()()だと思った。迷惑だと思った。

 彼女の心は、もう気持ちが残っていなかった。


 王太子はひどく傷付いた様子で彼女を見つめて、


「僕は君が好きだ。誰にも渡したくない。……シャルロッテと話を付けたんだ。二人の間に王子が生まれたら、側妃を迎えてもいい、って。だから、その時は、君を――」


「殿下!」


 ディアナは声を荒げて、王太子の言葉を遮った。

 初めて見る元婚約者の腹の底から怒っている顔に、彼の心臓がギクリと縮こまった。


 彼女は怒りを鎮めるように、深呼吸をしてからゆっくりと口を開く。


「二番は嫌です、殿下。それに……私はもう()()を見つけましたから」


 そして、彼の返答を待たずに踵を返した。


 ハインリヒは何も言えず身体も動かず、ただ元婚約者を見送る。

 ふと、人影が映ったかと思ったら、そこにはディアナの新しい婚約者――アルベルト公爵が優しく彼女に手を差し伸べているところだった。


 二人は王太子など眼中にないかのように、決して振り返らずに去っていく。


 それを見てハインリヒは「あぁ、自分の恋は終わったんだ」とやっと気付いた。







 それから間もなくして、ディアナとアルベルトは正式に夫婦となった。


「上手くやったな」


 アルベルトの親友のギュンター侯爵は皮肉めいた笑みを(こぼ)す。


「何のことだ」


 アルベルトは涼しい顔をして書類仕事を続けていた。


「よく言うよ。ディアナ伯爵令嬢と結婚するために、エドゥアルト王太子に女を近付けたり、シャルロッテ侯爵令嬢の後ろ盾を固めたり……」


「たまたまだ」


「はっ。お前は昔から欲しいものは必ず手に入れていたからなぁ。お〜怖っ。絶対に敵に回したくないね」


 アルベルトは肯定するかのように短く苦笑した。


「やっとディアナは私のものになった。絶対に他の者には渡さないよ。一生、離さない」




 






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― 新着の感想 ―
私も第2王子が可哀想だと思いました。王子としての義務!と言われればそれまでだけど、今までずーっと臣籍降下予定で生きてきて、兄がやらかして王太子に繰り上げ、兄の婚約者が自分の婚約者になって幼い頃から過ご…
「も……もう、私たちは婚約者同士ではありま()んので……」 お客様のなかに『せ』をお持ちの方はおられませんか〜?
第2王子可哀想すぎる、、、まあ兄がやらかしてる間に先を見て布石を打っておけなかった腕の無さのせいでもあるのかもしれないけど。それはそれで王としてやっていけないだろうから、そうなると“王太子妃”の思うま…
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