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17 エレインの苦いお茶

 ちゃんとお風呂に入った。綺麗にアイロンをあてた洗い立ての服を着たし、化粧もした。髪型はいつも通りだが、いつもより念入りに櫛を通した。

 最後に口紅を薄く塗ってから、エレインは部屋を出た。


 居間でお茶を飲んでいたオルガが、エレインを一瞥してから新聞に目を落とし、ぽつりと言う。


「今日は帰ってこなくてもいいよ」

「帰ってきますけど!?」


 ベルカイムに越してきたジラウドと出かけるのは、もう両手で数える以上になっている。

 最初はジラウドが自宅まで迎えに来ていたが、その度にオルガの視線がうるさかったので待ち合わせに変えた。

 それはそれで出がけに妙なことを言ってくるので、あんまり意味はなかったかもしれないのだが。


「ほら、襟曲がってるよ」

「え、うそ」


 新聞を置いたオルガがエレインの後ろに回り、襟を直した。ついでに背中をぽんと叩かれる。


「はい、いいよ。行ってらっしゃい」

「ありがとう。行ってきます!」


 外はよく晴れていた。心地よい風に押されながら、エレインは待ち合わせ場所まで歩く。


 無事に病院を開業させたジラウドと、薬師の店で働くエレイン。二人の休日が重なる日は、こうして何かと理由を付けて二人で出かけるのがすっかり日常となってしまった。


 今日は隣町の植物園に行く約束をしている。先月から始まった催事で、色とりどりの花が咲き誇る中に蝶が飛び交い、幻想的なのだそうだ。

 大陸中の珍しい植物もたくさん展示されているらしい。そう言われると、薬師としては気にならないわけがない。

 チケットは入手困難になりかけているのだが、ジラウドが知り合いからチケットを譲ってもらったと言ってエレインを誘ってくれたのだった。


「待たせてすまない」


 エレインが到着して数分後。待ち合わせの時間ちょうどに到着したジラウドの顔を見て、エレインは思わず首を傾げた。

 銀の髪は輝きを失い、目の下にはくまが浮かんでいる。いつもはパリッと糊の利いた服を着こなしているのに、今日はなにやら糊の利いた服に着られているかのようだ。


「どうしたんですか? すごくお疲れの様子ですが」

「昨日は急患が続いていて、夜はお産にも立ち会っていた」


 最後の患者が帰ったと思ったら呼び出され、明け方頃に産声が上がるまで、ずっと緊張に震える父親を励まし続けていた。生まれた子と母親の健康状態を確認してから自宅へ戻り、シャワーを浴び着替えて今に至る、ということだ。

 少々難産ではあったものの母子ともに健康であると聞いてほっとしたエレインだが、「じゃあ行こうか」と言うジラウドの手を掴んで引っ張った。


「ジラウド様、こちらに」

「エレイン?」


 馬車乗り場とは反対方向に進むエレインに従って歩くジラウドは、向かう先にエレインの自宅である薬屋があると気付いたらしい。繋いだ手が強ばる。困惑が伝わってくるが、エレインは足を止めなかった。


「入ってください」


 扉を開ける。ためらうジラウドだが、エレインが手を引っ張ると、諦めたように家の中に入った。


「おや、二人ともお早いお帰りで」

「師匠! 急患です!」


 ジラウドから手を離さないまま、目を瞬かせるオルガを横切り家の奥に進む。

 薬師の店に入院用の設備はない。代わりにエレインの自室にジラウドを連れて行き、ベッドに腰掛けるよう指示をした。


「私のベッドしかなくて申し訳ありませんが、寝てください」

「ま、待ってくれ。それはさすがに。せめてソファとか」

「大丈夫ですよ。シーツも枕カバーも変えたばっかりですから」

「そういうことではなくて」

「さぁ、手をこちらに。脈を測ります……少し早いですね」

「いやこの脈は」


 動悸は寝不足の際に見られる症状の一つである。


「目を見ますよ」

「ちょ……」

「瞳孔もちょっと開いてますね……はい、口も」

「いや待て、分かった、認める。睡眠不足と過労だ。俺は医者だから、これ以上診なくてもいい」

「客観的な判断が必要です。今のあなたの主観は信じられません。ほら、口を開けてください。あーん」

「………………勘弁してくれ」

「早く」

「……はい」


 診るのは得意でも、診られることには慣れていないらしいジラウドは、目元を赤く染め恥じらう様子で口を開いた。

 綺麗な歯が規則正しく並んでいる。口の中は荒れていないし、扁桃腺の腫れなども見られない。ついでに虫歯もない。


「睡眠不足と過労でしょうね」

「だからそう言った」

「最後に食事をしたのは?」

「確か……昨日の昼」

「分かりました。ここで待っていてください」


 返事を待たず部屋を出たエレインは、真っ直ぐキッチンに向かって朝食の残りのスープを火に掛けた。パンを薄く切って、バターを溶かしたフライパンに落とす。両面をこんがりと焼いている間に林檎の皮を剥いて塩水につけておく。

 スープにトースト、林檎。それに温かいお茶の入ったポットをお盆に乗せて、ジラウドの待つ部屋へと戻った。もちろん、山盛りの角砂糖も忘れない。


「簡単なものですが、どうぞ」

「すまないな……ありがとう、いただきます」


 もの言いたげな表情をしていたジラウドだが、大人しく食事に手を付けた。お腹は空いていたらしい。みるみるうちに皿が空になっていく。

 エレインはベッドの脇に持ってきた椅子に腰掛け、ちょうどいい具合に蒸れたお茶をカップに注いだ。


「これ、疲労回復効果のあるお茶です。うちの人気商品なんですよ。ちょっと苦いので、砂糖や蜂蜜を入れても良いです」

「そうなのか。ありがとう」


 あっという間に食事を終えたジラウドが差し出されたカップを手に取る。


(あ、まずい)


 エレインの淹れたお茶を受け取ったジラウドは、角砂糖を三つ落とし入れて、スプーンでくるくると混ぜている。それは、遠い昔と寸分違わぬ光景だった。


(お茶……淹れちゃった)


 エレインがお茶を淹れて、それを夫が受け取る。大好きな砂糖を入れて、よく混ぜて。そうやって飲んだお茶で、彼は毒に倒れた。

 気付けばエレインは服の上からロケットペンダントを握り絞めていた。手が真っ白になるほど強く、爪が手のひらに食い込むほどに。


「うっ」


 やがて、うめき声のようなものが小さく響いた。

 ぱっと顔を上げたエレインの視線の先では、ジラウドが形のいい眉を思い切りひそめてお茶の水面を見つめている。

 肌はいつもの肌色で、変にただれていない。喉が焼けたり、声が割れたりしていない。首を掻きむしっていない。呼吸も穏やかだ。


「苦い。もう一つ。いや、二つ、砂糖を入れてもいいかな」


 無事だ。エレインのお茶を飲んだジラウドは、過労と睡眠不足が認められる以外、いたって健康そうだ。

 ロケットペンダントを握っていた手から力が抜けて、膝の上に落ちた。


「……あんまり砂糖を入れすぎると太りますよ。それ以上は控えたほうがいいと思います」

「太った男は嫌いか?」

「肥満は病気の元ですから。それより、飲み終わったら少し眠ってくださいね」

「でも、植物園を楽しみにしていただろう」

「別の日に行きましょう。今はゆっくり休んでください」


 若干苦戦しながらもお茶を飲み終えたジラウドは、エレインの度重なる指示で大人しく横になった。しかし、納得したわけではない、という表情だ。


「眠れと言われてもそうすぐには眠れない。何か話をしてくれ」

「話って、好きなものの?」

「それは前にもしただろ」


 ブロンデルの東の森でバーチナイト採取をした時のことを思い出す。

 お互いの好きなものを出し尽くした挙げ句、嫌いなものまで教え合った。

 ジラウドは齧歯類、エレインは酸っぱい食べ物が苦手だ。


「今日は何を話しましょうか」

「そうだな……君はどうして薬師になったんだ?」

「もちろん、生きるためです。薬師は手に職がつきますから」


 両親を亡くしたエレインは、一人で生きていく術を身につけなければいけなかった。何より、毒に翻弄されて死ぬのはもう嫌だった。

 勢い余って毒好き薬師になってしまうくらいには必死に勉強してきたので、仮に今ここを追い出されたとしても、食い扶持を稼げる自信はある。


「ジラウド様こそ、どうして医者になったんですか? ご実家の侯爵家が代々の軍人家系であることは平民でも知っているくらい有名ですが」

「よく聞かれる」

「お聞きしない方がよかったですか?」

「いや、そんなことはない」


 ジラウドはエレインから視線を外し、天井を眺めながら深く息を吐いた。


「前にも言っただろう。人を刺したことがある、と」

「はい」


 ブロンデルの駐屯地でウルキアの少年兵を手当しながら、ジラウドは確かにそう言っていた。


「その人を助けたかった。でも、当時の俺は命を奪う方法しか知らなかった。だから医者を目指したんだ」

「あなたが刺したのに?」

「そう」


 矛盾している。本人も自覚しているのか、エレインの質問には何の弁明もしなかった。

 やがてジラウドは目を閉じた。すぐに小さな寝息が聞こえてくる。


(……いいのかな……)


 椅子に腰掛けたまま、エレインはジラウドの長いまつげを眺めた。


(だって、ジラウド様は覚えてないみたいだし)


 エレインがジラウドに毒を飲ませたと思われていることも。ジラウドがエレインを刺したことも。

 彼が何も知らないなら、もう、エレインも意地を張ることはないのかもしれない。

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