14 ブロンデルの英雄、ガルディ期待の星
ジラウドにとって――正確に言えば、名前も覚えていない前世の自分にとって、彼女との結婚はまさに晴天の霹靂だった。
前世、ジラウドは農夫の子として生まれ、口減らしのために傭兵集団の詰め所に放り込まれた。
下働きとして数年を過ごしたあと、文字通り血を吐くような訓練をこなし、戦場を駆け回った。
毎日死なないように生きていたら、いつの間にやら英雄と呼ばれるようになっていた。
傭兵から軍人に身分が変わり、爵位や領地を与えられ、そして、ついには貴族の女性を娶ることになったのだ。
戦場で何があっても驚かないジラウドとはいえ、突然の結婚には大いに戸惑った。
妻となった女性は生まれながらの貴族で、由緒ある家の出なのだそうだ。しかも、見た目からは分からないが、ジラウドよりいくつか年上なのだという。
そんな相手、どう接すればいいのか全く分からない。
共に戦場を生き抜いた仲間たちも彼女の扱い方が分からなかったようで、かなりギクシャクしていた。
結局、女主人としての仕事はジラウドの幼なじみでもある家政婦長が代理で差配していた。妻も荒くれ者どもの城で何をしたらいいのか戸惑っていたのだろう。
それでも、ジラウドの妻となった美しい人は、ジラウドの妻であろうとしてくれた。少なくとも、ジラウドにはそう見えていた。
『何だか甘いものが食べたくて。付き合ってくださいますか?』
何がきっかけだったか覚えていないが、ジラウドが実は無類の甘党だと知られた時のこと。
本当に身近な人間にしか教えていない秘密なのだと白状すれば、彼女は実家から連れてきたたった一人の侍女にすら言わずにいてくれたようだ。
『あれこれと食べきれないほど用意してしまったんです。だからあなたにたくさん食べていただけると、とっても助かります』
忙しい合間をぬって過ごす時間には、いつも山ほど甘いものを用意して、それとなくジラウドに食べるよう勧めてくれた。
考えなしに口にしてしまった「星海を見るために野宿しよう」などというとんでもない提案にも、「楽しみだ」と言ってくれた。
生きることに必死で、恋も愛も知らなかった。でも、きっと妻に恋をしていた。
ジラウドが毒に倒れたのは、淡い気持ちをようやく自覚したその日のことだった。
一口目を飲み干してすぐ、喉が熱いと気がついた。飲んだお茶を吐き出そうとして血を吐いた。胃が荒々しくかき混ぜられるような感覚に目がくらみ、身体の力を失って地面に倒れた。
『――様! ――ドさまぁ!!』
途切れそうな意識を繋ぎ止めて見た妻の顔に浮かぶのは、驚愕と焦燥。そして涙と、もしかしたら絶望も。
毒を飲ませた人間がする顔ではないことに、ジラウドは心の底から安堵した。
毒が入っていたのは妻の淹れたお茶だろうが、毒を入れたのは妻ではない。
それだけを確信すると、ジラウドは意識を手放した。
次に目を覚ました時、幼なじみに泣きながら言われた。
『もう……もう、手遅れ、なんだって……』
ジラウドの飲んだ毒は昔から殺人によく使われてきたような、特別強い毒なのだそうだ。最後にこうして言葉を交わせるだけでも奇跡らしい。
続けて、部下が憎々しげに言った。ジラウドに毒を飲ませた罪人は、ちょうど今日、これから処刑するのだと。
寝台から起き上がり、剣を杖に歩き始めたジラウドを止める人間はいなかった。
城門前には熱気が立ちこめていた。民衆たちによる怒号の中心で、縄をかけられた妻が引きずられるようにして歩いていた。
その先の処刑台には執行人が立っている。大きな斧を手にしているのを見て、ジラウドはふらつく足に力を込めた。
刃を潰した大きな斧。長年ブロンデルで戦いに身を投じていたジラウドだから、あの斧がこの地方に古くから伝わる処刑道具だと知っていた。
あれで首を切られても一度で死ぬことはない。処刑とは言え楽に死なせないようにするために何度も何度も首を叩き切る、処刑と拷問を兼ねた重罪人用の道具だ。
無実の妻を、あんなものでなぶり殺すつもりか。
飛びそうになる意識の中で――ジラウドは最低な決断をした。
『……っ、かふっ……』
妻を、刺した。
剣から伝わる肉の感触は、刃が骨を掠めた時の重さは、たとえ生まれ変わったとしても忘れることはないだろう。
何が起きたのか理解したらしい妻の瞳が絶望に染まっていく。
溢れた涙が、血だまりに吸い込まれて消えた。
『一人では逝かせない』
ほっそりとした身体から剣を引き抜く。そして、血濡れた剣で躊躇うことなく自分の胸を貫いた。
事切れた妻の身体の上に倒れ込み、ジラウドはその生を終えた。
……と、思っていたのだが。
(生まれ変わったのか。現実にそんなことがあるとは)
物心ついた頃には、自然とそのように理解していた。
しかも父は優秀な軍人を多く輩出するガルディ侯爵シャリエ家の当主で、母も由緒正しい貴族の出身。
根っからの貴族だが、両親も、上に二人、下に二人いる兄弟も、みな仲がよい。食うに困るからと子を捨てるなどもってのほか。
ジラウドは文字通り生まれて初めて、青い血と家族の愛を得たのだ。
そんなガルディ侯爵家は親類縁者、男も女ももれなく軍に関する道を行く脳筋一族である。その中でジラウドは一番の才能を発揮した。
前世の記憶がもたらす勘の良さは健在。身体は鍛え直しとなったものの、前世より遙かに体格も恵まれている。
若くして一族期待の星となったジラウドだったが、軍人にはならなかった。
「俺は医者になりたい」
口にした瞬間、親も兄弟も親戚も、使用人にすらも大反対を受けた。
士官学校でのジラウドは歴代でもまれに見る好成績を修め続け、卒業直後から一定の地位を約束されていたし、それに足るだけの実力もある。
それなのに軍人にならないなんて宝の持ち腐れだと散々言われた。
誰の説得にも応じずにいたら、ついに青筋を浮かべた父親に呼び出された。
「ジラウド・シャリエよ。日和ったか?」
「まさか」
「ならば……」
戦うことに恐れなどない。一度死を迎えても、今なおジラウドには戦い方が分かる。勝ち方も分かる。
けれど、傷つけてばかりだったので治し方が分からない。それが医者を志す理由だった。
「ならば、拳で語れ!」
ジラウドは父と一晩かけ拳で語り合い、自分の道を進む権利を手に入れたのだった。
*
隣国との戦争が始まったのは、ジラウドが医学の道に進んで十年も経った頃だった。
前世のジラウドが封建されたブロンデルにも進軍の兆しがあると聞いてすぐ、軍医として志願した。
この頃にはすっかり名の知れた外科医になっていたので、軍には諸手を挙げて歓迎された。
軍人一家の家族も賛成していたが、なぜかばあやであるアレクサンドラ・モントレー夫人だけが反対した。
「いけません。絶対にいけません。私は反対です」
ジラウドたち兄弟のばあやは、父の乳母でもある。シャリエ家の使用人ながらアレクサンドラの発言力は強い。
「どうしてもと言うのなら、この私もご一緒します」
そう言って譲らないアレクサンドラを止めるのは骨のいる作業だった。
「年齢を考えろ」
「老人扱いはおやめくださいまし。まだまだ元気にございます」
そう言うアレクサンドラは確かに、年のわりには若々しい。しかしさすがに戦場には連れて行きたくない。
ジラウドは半ば逃げるようにして王都を発った。アレクサンドラの行動力はその裏を行ったが、ブロンデルの駐屯地に軍医兼副司令として着任さえしてしまえば、他のことはどうでも良かった。
ブロンデルはかつてジラウドが最期を迎えた土地であると同時に、命を張って守り、短い間とはいえ領主を務めた土地でもある。
ブロンデルが戦禍に飲まれるかもしれないと知れば無視できない程度には思い入れがあった。
けれど、まさか。そこで彼女と再びまみえるとは、つゆほども思っていなかったのだ。
「エレイン・ベルジュと申します」
名前が違う。見た目だって似ても似つかない。
しかし一目見た瞬間に分かった。
――薬師エレイン・ベルジュは、前世の妻だ。
つかの間言葉を失い、エレインやロザリーからのいぶかしげな視線を受けてようやく我に返る。
しかし、頭はまともに働いていなかったらしい。こぼれ出た言葉がこれだった。
「……聞いていた薬師とは別人のようだな」
そこから言い争いに発展し、エレインが本気で怒っているらしいことも分かったが、ジラウドも譲らなかった。
(ここをどこだと思っている)
隣国との国境を警戒する駐屯地だ。
様子見なのか直接的な攻撃を仕掛けられることもなく日々が過ぎていたが、いつ攻め込まれてもおかしくはない。
もしこの駐屯地が敵兵に抑えられたら、若い女は死ぬよりひどい目に遭う可能性もある。
前世の妻を殺したジラウドにエレインを心配する資格などないと分かっていた。
それなのに、もしものことがあればと想像すると、勝手に口から言葉が出ていたのだ。
ジラウドが声を荒げても、エレインは一歩も引かなかった。
かつての妻は深窓の令嬢と呼ぶにふさわしい人で、いつでも穏やかだった。怒った姿など見たこともなければ想像したことすらない。
そんな彼女が生まれ変わった今、ジラウドを見据えてまなじりをつり上げている。
意外な一面は新鮮だった。知らなかったことを一つ知れたようで胸がざわめく。
それと同時に、ひどく嫌われてしまったことを自覚して唇を噛んだ。
(君が心配なんだ)
だから一秒だってここにいてほしくない――そんなことを言えるはずもない。
エレインは前世のことを覚えていないのだろう。覚えていれば、自分を刺し殺したかつての夫など視界にも入れたくないはずだ。こんな言い争いにもなるわけがない。
となれば分が悪いのはジラウドの方だ。エレインが持っているのは、彼女やロザリーの言う通り、交代を認める正式な書類なのだから。
ついにはジラウドの上官である司令が出てきて、エレインは正式にブロンデル第三駐屯地に迎え入れられたのだった。
(にしても、薬師になったのか)
だからといって、前世の自分に毒を飲ませたのはやはり妻だったのか、とは思わなかった。
薬師として毒にも薬にも真摯に向き合う彼女の姿を見ていれば分かる。エレインは二百年前から、誰にだって誠実だった。
そんな妻と、約束をしていたのに。星光石が打ち上がると言われる星海を見に行こうと。女性には向かないような場所へ誘ってしまったというのに、彼女は本当に嬉しそうに笑ってくれたから。
楽しみにしている、絶対に連れて行ってと念押しされたから、必ず連れて行こうと思っていた。
妻の笑顔と、果たせなかった約束。そして、彼女をこの手で刺し殺した時の感覚が、今でも忘れられない。
人が死ぬ瞬間など、前世でも今世でも見ているはずなのに。
(あの時、俺は間違いなく助からなかった)
毒を飲んだジラウドは死ぬことが確定していた。
ジラウドが死んだ後に毒殺の疑惑をかけられたエレインだけが生き残っても、きっとジラウドの部下たちがそれを許しはしなかっただろう。
けれど、エレインの無実を証明するだけの時間は、ジラウドには残されていなかった。
だからジラウドは、エレインを殺したのだ。身勝手だと分かっていても、せめて苦しまずに逝けるようにと。
そして、自らの命も絶った。
*
エレインとの再会から約一年後、戦争が終わった。
事後処理を片付けたジラウドは、本来の勤務先である王都の病院に戻るなり退職届を提出した。
家に帰ると、青筋を浮かべた父に出迎えられた。
「ジラウド・シャリエエェ! 貴様はまた自分勝手なことを言いよってからに!」
自分勝手な自覚はあったので、父の本気の拳、その一発目は甘んじて受けた。
父の書斎の壁まで身体が吹っ飛ぶ。唇の端が切れ、流れる血を拳で拭いながら、それでもしっかりとした足取りでジラウドは立ち上がった。
二発目以降はジラウドも容赦せずに避けた。
「本当に辞めるのか!」
「はい。開業医になります」
「開業医だと!?」
家族には王立病院を辞めることも、開業することも伝えていなかった。
伝えるより先に病院に退職届を出してきたのだ。
「貴様、軍人にならないなどとのたまった時だってあれだけ大騒ぎしたことを忘れたか! また勝手に王立病院を辞めて開業などと、どういう了見だ! ガルディ侯爵家の一員として自覚を持っているのか!」
「自覚はありますが、もう決めました」
「勝手に決めるなと言っている!」
絶対に反対するというのならば家族との縁を切ってでも開業するつもりでいるが、できることならきちんと拳で語り合い、勝利を収め、家族に認められた上で新たな道を進みたかった。
ジラウドは今世の家族が、わりと結構、好きなのだ。
「ふんっ」
右から横殴りにしようとする拳を受け止める。続く左の拳もしゃがんで避ける。
膝蹴りを繰り出されるより先に足を払い、均衡を崩したわずかな隙に距離を詰める。
一発目を父の顎に入れたとほぼ同時に、どこからか姿を現した兄弟たちも参戦し始めた。
「弟よ、悪いが父上の味方をさせてもらうぞ」
「自分ばっかりインテリ気取るなクソ兄貴!」
「剣をメスに替えたお前に勝ち目はないものと思え!」
「兄様、覚悟っ」
兄が二人、弟が二人、そして父。どう見てもジラウドが不利だ。
しかし負けるつもりはない。
「全員まとめてかかってこい!」
「ウオオオォォ!」
まだ年若い四男、五男はすぐに倒れた。
一度膝をついた者は退場するのがシャリエ家の話し合いにおける規則だ。二人は大人しく壁際に下がった。
長男と次男はそれぞれジラウドの攻撃を避け、兄弟でよく似た青の瞳を見開いた。
「拳が早いっ!?」
「くっ……医者のくせに前より強くなって……!?」
たじろぐ兄弟たちに父親が檄を飛ばした。
「生き残りし息子たちよ! この馬鹿息子の動きを止めろ!」
「応っ!」
しかし、一族最強の名は伊達ではない。
父親の書斎での話し合いの後、最後まで立っていたのはジラウドだった。
床に倒れた父親は、目元に痣を浮かべた顔で言う。
「で、王都のどこで開業するつもりなんだ? 西区? いや南か?」
「いえ。王都ではなく、ベルカイムで」
「…………」
静まりかえる書斎。一瞬の後、爆発するように親兄弟の声が響いた。
「王都じゃないのか!?」
「お前ベルカイムなんて馬を替えながら走っても五日以上の田舎じゃないか!」
「立て、我が息子たちよ! この大馬鹿息子はもう一発殴らねば腹の虫が治まらんっ!」
「応っ!」
そうして始まった二回戦目もかろうじてジラウドが勝利したものの、複数の脳筋を相手にしては無傷というわけにもいかなかった。
怪我が治るまでは王都に待機だ。痣だらけの腫れ上がった顔では、エレインに会いに行けない。
ようやく腫れの引いた顔を眺めていると、たまたまその様子を鏡越しに見た執事が「男前ですよ」と言ってきた。
いつもは誰に何を言われようが自分の顔に無関心なジラウドだったが、今日は執事の言葉に真面目に耳を傾けた。
「そうか。この顔は男前か」
「ええ。それはもう」
「女性に好まれるだろうか」
普通にしているだけで怖いと言われる三白眼だ。今まで気にしたことなどなかったのに、今は何となく気になってしまう。
「坊ちゃんがその気なら、落ちない女性はいないでしょう」
「本当にそうだといいんだが……」
かくして、ジラウドはベルカイムへと向かった。
エレインの居場所はすぐに分かった。薬師ベルジュは有名で、聞けばすぐに店の場所を教えてもらえたからだ。
意識しなければ走り出してしまいそうだった。
生まれ変わり、戦争が終わった今、ジラウドとエレインが赤の他人だということは分かっている。今世のジラウドとエレインに結婚する理由がないことも分かっている。
前世のことだって、彼女が覚えていなくてもジラウドが覚えている。自分で自分が許せない。
けれど、それでももし許されるなら、また彼女の夫になりたかった。
今度こそ、二人で寿命を全うするために。