13 戦争の終わり
戦争は自国側の勝利という形で終わった。
ブロンデルは戦火に飲み込まれることなく、ちょっとした小競り合いがあっただけ。幸運なことに、終わってみればずいぶんとあっさりしたものだった。
エレインが第三駐屯地にやってきたのは秋の入り口という頃だった。そして夏を迎えようとしている今日、エレインは駐屯地を出て行く。
およそ一年を過ごした薬剤室の整理を終え、司令エミリアーノへの挨拶を済ませる。同室だったロザリーや畑兵の三人とも別れを惜しみながら、最後にエレインは医務室へと向かった。
「失礼します。少しよろしいでしょうか」
「ああ、君か。どうぞ」
軍医ジラウド・シャリエは副司令も兼ねるだけあって、まだまだ戦後処理に時間がかかるようだ。
数えるほどしか足を踏み入れたことのない医務室だが、前に見た時よりは確実に書類が増えて雑多になっている。
「今日で故郷に戻りますので、最後のご挨拶に参りました」
「もう帰るのか」
ペンを置いたジラウドは立ち上がり、エレインの元までやってくる。そして、軽く頭を下げた。銀の髪がはらりと落ちて、エレインは目を見張った。
「すまなかった」
「え、ど、どうされましたか? 謝られることなんて」
「君がここに来た日のことだ」
「あ……ああ」
謝罪を受けるようなことなんてないと思っていたエレインだったが、一瞬で納得した。
本来招集されていた師匠オルガ・ベルジュの代理で来たエレインを認めず、呼んでいない、帰れの一点張り。その後もしょっちゅう睨み付けられていた。
「誰であれ好き好んで来るような場所ではなかったから、きつく当たってしまった」
「いえ……心配してくださってのことだとは思っていましたから。私も失礼なことを言いましたし、どうか顔を上げてください」
エレインの言葉を受けてようやく顔を上げたジラウドは、こぼれ落ちた前髪を掻き上げた。
青い瞳がエレインを見据える。妙に気恥ずかしくて、エレインは視線を足下に落とした。
「改めて教えてくれないか。なぜここに来た?」
あの日エレインは「譲れない理由がある」とだけ言った。
本当の理由をジラウドに言うつもりは今もない。しかし、視線に促されおずおずと口を開く。
「ブロンデルは美しいところだと聞いていて、荒らされてしまうのが嫌で」
そうか、とジラウドは一言だけ言った。
(本当は……あなたが守ったブロンデルを、私も守りたかったの)
そうと言えたら、あの日あんな言い争いにならなかったのだろうか。
いや、言っていたら、ジラウドが前世を思い出して殺傷事件に発展していたかもしれない。やっぱり言わなくて正解だ。
「今後はどうするんだ?」
「今後ですか?」
「ああ。君さえよければ、首都の王立病院に来ないか?」
嫌われていると思っていた相手から勧誘を受けるとは思いもよらず、エレインはパッと顔を上げた。
「君ほどの薬師なら引く手あまただろうが、考えてみてくれないか」
首都の王立病院といえば、言わずと知れたこの国最大の医療機関にして最高学府だ。軍医になる前のジラウドの勤め先でもある。ジラウドはまた同じ病院に戻るのだろう。
師匠オルガも王立病院からの勧誘を受けたことがあるそうだ。断ってしまったそうだが――そんなところで働くことができれば、どれほどの経験になるだろうか、とは思う。
「もし来てくれるなら、俺が紹介状を……」
「いえ。魅力的なお誘いですが、お断りさせてください。私は地元に戻り、師匠と一緒に薬師を続けます」
エレインはオルガ・ベルジュの唯一の弟子だ。ずっと彼女の側にいて、彼女の知識と技術を継承する。それがエレインの役目だ。
「そうか。無理を言って悪かった。ところで、地元と言うと?」
「お気持ちだけありがたく頂戴します。地元はベルカイムです」
「ベルカイムか。いつか、俺も行ってもいいだろうか」
「もちろんです。いつでもご案内しますので」
「ああ、ありがとう」
握手のための手が差し出される。
「道中、気をつけて帰ってくれ」
「ありがとうございます、軍医殿」
エレインも手を出す。しかし、何故か相手の手がすっと引いていく。
そちらから差し出したくせに握手拒否か、と男を見上げると、ジラウドはじっとエレインを見つめていた。
「俺はもう、軍医としての役目を終えた」
「では、副司令殿?」
「それももうすぐ終わる」
「もうすぐ終わるということは、まだ終わってないということではないでしょうか」
「…………」
これにジラウドは返事をしなかった。気まずそうに目をそらしているが、若干引っ込めたままの手はまだそこにある。
「シャリエ様」
「シャリエは何人もいる」
「…………」
「俺の名を忘れたか、エレイン?」
エレインの心臓が跳ねた。名前を呼ばれるのは、今世では初めてのことだ。
ジラウドの意図は分かる。もうお互い軍属の身ではなくなるのだから、堅苦しい呼び方はしなくていいということなのだろう。
生まれ持った身分差などがあるのだが、そんなことを言っていたらお互いの手が行き場を失ったままとなってしまう。
エレインはためらいながら、そっと口を開いた。
「忘れてません……ジラウド様」
「ああ」
青い目が眩しそうに目を細められると同時に、二人はようやく握手を交わした。
ロザリーに見送られエレインは天幕を出る。
私物の入った荷物と薬箱を抱え、乗合馬車を拾える街までのんびり歩きながら、エレインはジラウドに触れた右手を見つめた。考えるのはやはり、ジラウドのことだ。
まさか前世の夫と出会うとは思っていなかった。相手にも前世の記憶があって、エレインが当時の妻だと分かればまた殺されてしまうのではないかと想像したがそんなこともなく、無事こうして帰路に着いている。
ロケットペンダントを熱い右手で握りしめ、大きく息を吐いた。
(そもそも前世とは全然違ったしね)
前世ではエレインが貴族で、年齢も夫よりいくつか上だった。
今世では全てが逆。ジラウドが貴族でエレインは平民だし、ジラウドが年上でエレインが年下だ。年増で高飛車だった頃とは真逆なので、気付くわけもなかったのだろう。
だからこそ、ただの上官と部下、他人のままで終わらせることができた。
(よかった、ブロンデルが無事で。あの人も元気そうで)
生まれ変わった夫に出会うことができて、今ならよかったと思える。
嬉しかった。毒に侵されていない元気そうな姿を見ることができて。
安心した。エレインのことを覚えてなさそうで。
本当によかった。夫に毒を飲ませた悪妻ではなく、薬師エレインのまま別れることができて。
(もう会うこともないだろうけど、どうか一生、前世を思い出さないでね)
ブロンデルの青い空に願った。
*
玄関のノッカーが叩かれる。
「郵便でーす」
いつもの声に、エレインもいつもの言葉を返した。
「今日はどっちでしょーか」
「前回は綺麗なエレイン、それから二日ぶり。つまり……今日は汚いエレインだ!」
「せいかーい」
扉を開けると失礼な郵便屋が「っしゃ」と拳を握りしめている。
「ほらよ。今日の郵便」
「ありがと」
受け取った郵便はオルガの知人からの手紙に、よく薬草を卸してもらっているなじみの店からの仕入れ連絡。それに、第三駐屯地で知り合ったロザリーからの手紙。彼女とは今も文通が続いている。
軍からの召集令状などはもちろんなく、すっかり元の日常に戻っていた。
後ろからやってきたオルガに彼女宛の手紙を手渡すと、オルガは眉間の皺を深く刻んだ。
「郵便屋。あんたね、年頃の女に向かって汚いとか言うからいまだに独身なんだよ」
「気にしてることを言わないでくれよ」
「エレインも受け入れてないでさっさと風呂に入りな」
「もうちょっとしたら一段落するのでその後に入ります」
「今すぐだよ!」
オルガの怒声に郵便屋は「おお、こわ」と言いながら去った。扉を閉めて、エレインも大人しく風呂場に直行する。
駐屯地にいた頃は寒かったから毎日きちんと湯に浸かっていたのに、少し温かいベルカイムに戻った途端これだ。
研究や調合に夢中になっているとついつい時間を忘れてしまう。
お湯を溜めている間にいつもの入浴剤の準備をする。小鍋を火にかけてすぐ、また玄関のノッカーが叩かれた。
「はーい」
郵便屋が手紙の渡し忘れで戻ってきたのかもしれない。あいつは時々そういうことをする。
そんなふうに思って気軽に扉を開けたエレインだったが、扉を開けたそのままの格好でぴたりと動きを止めた。
郵便屋よりずっと背の高い男が、不機嫌そうに言う。
「さっきの男は恋人か?」
エレインを見下ろすのはブロンデルで別れたはずの軍医、ジラウド・シャリエだった。