12 侵入者とご褒美の飴
東の森で熊と戦ってから数日後。エレインは薬剤室で熊の胆を眺めながら、東の森でのことを考えていた。
(穴持たずの熊かぁ)
冬眠しそびれる熊がいることは知識として知っていたが、まさか遭遇するとは思っていなかった。
しかしいいものが手に入った。プルプルで、中身に胆汁がたっぷり詰まっている。今からこれを保存用に処理していくのだ。
ワクワクとお湯が沸くのを待っていたエレインは、天幕の外が騒がしいことに気がついて顔を上げた。
兵士たちがあちこちをうろつき、かと思えば急に走り去っていく。いつになく物々しい雰囲気だった。
ロザリーも席を外しており、薬剤室にはエレイン一人。何となく落ち着かなくて、薬剤室の出入り口から顔だけ出し辺りを見回していると、畑兵のギャリーが駆け寄ってきた。
「薬師殿!」
周囲に視線を巡らせ警戒しながら、鍬を片手に走り寄ってくる。
「お疲れさま、クリス。何かありましたか?」
「侵入者だよ。どこからか入り込まれたみたいだ」
「えっ」
侵入者。
思ってもみない言葉にエレインもあちこちを見渡してしまう。当然、そう簡単に怪しい者の姿など見つけられないのだが。
「ここに入り込んで逃げ切るなんて不可能だろうけど、危ないから、しばらくは薬剤室から出ない方がいいっすよ。マリネル少尉も見つけたら薬剤室に戻ってもらえるように声をかけておく」
「分かった。ありがとう。クリスも気をつけて」
「うん。じゃあまたな」
クリスを見送り、薬剤室の中に戻る。作業を再開させる前に、念のため銃をしまってある引き出しの元へと向かった。
(薬剤室で何かあるとは思えないけど、一応ね)
麻痺薬入りの薬莢を取り出し、銃の入った引き出しに手をかける。その瞬間。
「――声を出すな」
「……っ」
背後から口を塞がれて息を呑んだ。
手を後ろできつく拘束される。持っていた薬莢が床に転がり落ちるのに気を取られる間もなく、首筋に冷たいものが押し当てられた。
「抵抗すれば殺す」
耳元に聞こえた声は、どう考えても年若い少年のものだった。
乾いて、疲れ切ったような声を出す少年が、エレインを後ろ手に拘束している。
「お前は薬師だな。薬の場所を言え。それと水と食料も」
薬と言われてようやく気がつく。後ろの少年からは様々な匂いが漂っていた。その中には血と、独特の悪臭――膿の臭いも混ざっている。
エレインが大人しく頷くと、少年の手がエレインの口元から外された。拘束された手と、首筋に添えられた刃はそのままだった。
「……ねえ、もしかして、あなた怪我しているの?」
「余計な口をきくな。薬と水と食料のありか、それだけを答えろ」
「薬って言ってもいろいろあるでしょう。病気なのか怪我なのか、それがどんな症状なのかで薬になるはずのものが毒にもなるの。もしあなたが怪我をしているなら診せて。ちゃんと治すから」
「……でも」
「でもじゃありません。あと、手を離して。両手を塞がれていたら薬の調合ができないから」
「……」
「あなたが誰なのか、どうしてこんなことをしているのか、聞かないから。声を上げないし、誰にも言わない。だから手を離して、怪我を診せて」
少年の言葉は流暢だが、独特の訛りもある。戦争の相手である隣国ウルキアの人間であることは間違いなさそうだ。十中八九、ギャリーの言っていた侵入者だろう。
(どうして敵陣のど真ん中に。どこかに仲間が隠れてる?)
気になることはたくさんあるが、それよりもまず、怪我の具合を知りたい。この膿の臭い、相当ひどい怪我を負っているはずだ。
「いい? 振り向くよ?」
「っ、だめだ!」
「痛っ!」
「……っ」
首にチクリと刺激が走る。思わず声を上げると、少年はわずかにたじろいだ。
「抵抗すれば殺す」などと口にしておきながら、いざとなるとためらっている。こういった荒事には慣れていない様子だ。
(そんな子供まで戦争にかり出すなんて……)
しかも、たった一人で敵地に忍び込み、怪我を膿むまで放置せざるを得ない状況に追い込まれて。
そこまでしてやるべき戦争なのだろうか。もしくは、そんな状態だから戦争をしなければいけないのだろうか。
「早く、早く薬の場所を言え! 早く……!」
「お、落ち着いて。そんなことを言っても調合しないと、今はちょっとした切り傷かやけど用の薬しかないの」
「それを出せ! 早く!」
「いやでも、どう考えてもあなたの怪我にそれが効くとは思えないから」
「なら効くやつを出せ!」
「だから怪我を診せてってば」
怪我のせいか、エレインの首筋を切って新しい血を見たせいか、少年は興奮し、会話は堂々巡りだ。
(しかたがない……軽い切り傷用の薬を出すか……いやでも、効かないと分かる薬を出すのも抵抗が……)
どうすれば少年が落ち着いてくれるのだろう。そんなことを考えるエレインの頭上で、ザッ、と聞き慣れない音がした。
少年が息を呑む。次の瞬間には、何かがエレインの前方へと吹っ飛んだ。
その「何か」がエレインを拘束していたはずの少年だと知ったのは、剣を持った男が彼に覆い被さっていたからだ。
「だ、だめっ!」
ジラウドだ。少年に向かって剣を振りかぶり、今にも刺し殺しそうな目で見ている。
医者の道を選んだとはいえ軍人としての適性もある男だ。熊だってほぼ一突きで殺す腕力を持っている。
そんな男に押さえつけられた少年の顔色は真っ白にだった。
「だめです、止めてください。その子、怪我してる!」
「怪我? 君も怪我をしている」
言われて触れた首筋は少しだけぬるりとした。指に血が付くが、大した量ではない。
「こんなの怪我のうちに入りませんから。その剣を下ろしてください」
「…………」
「お願いします」
少年の荒い呼吸と、遠くで兵士たちが上げる声。それ以外が聞こえない薬剤室の中、やがて剣を下ろす金属音があって、エレインは深く息を吐いた。
「エレイン! 無事ですか!」
それからすぐに、剣を持ったロザリーが畑兵を引き連れやって来た。
「無事です!」
「良かった……! 薬剤室の天布に大穴が空いていたから、侵入者が薬剤室へ入り込んだに違いないと思いまして」
言われて見上げてみれば、確かに天幕の天井に当たる部分の布が破れていた。ちょうどエレインの真上辺りだ。
「いえ、あれは……」
少年が吹っ飛ぶ直線に聞こえた「ザッ」という聞き慣れない音。ほぼ同時に現れたジラウド。
あの穴を開けたのは間違いなくジラウドだ。真正面から飛び込むより、死角から入った方が有利と思ってのことだろう。
兵士たちの注目はジラウドに押さえ込まれている少年に集まる。
剣は下ろしたが、敵国からの侵入者を自由にするわけにはいかなかった。
「言え、何が目的だ!」
「他に侵入者は?」
「だんまりが通用するとでも?」
「見せしめに首だけ国に送り返してやろうか!」
「止めろ。口を慎め」
いよいよ物騒な意見が出てきた時、物々しい兵士たちを止めたのはジラウドだった。
深いため息の後、剣を鞘に収めながら続ける。
「分からないか。自ら望んでここに来たのか、そうせざるを得なかったのかは知らないが、こんな痩せ細った子供が一人で敵地に潜り込まなければいけないほど、相手は追い詰められているということだ」
ジラウドの言葉通り、少年は本当に若かった。まだ子供だと言ってもいい。汚れた服がぶかぶかに見えるほど小さくて細い。
右腕の袖は真っ黒に染まっている。怪我をしているのはあの右腕で間違いないだろう。あれでエレインを拘束していたのだから大したものだと素直に感心した。
「…………」
周りを取り囲む兵士たちも改めて少年の様子に気がついたらしい。ここにいる誰より幼い少年を改めて見て、気まずそうに口をつぐむ。
「誰か医務室に行って道具を取ってきてくれないか」
剣を側の机に置いたジラウドに、兵士たちは困惑した様子で視線を交わす。
「ジラウド様。まさかこの敵兵を治療するつもりですか」
反対するように声を上げたのはモントレー夫人だった。
「見て分かるだろう。ひどい怪我だ。すぐに治療する」
「ですが、この者は我々の敵です」
「捕虜にして情報を吐かせる。そのために死なせるわけにはいかないんだ。早くしろ」
「せめて司令の命令を待った方が良いのではありませんか」
「司令はブロンデル駐屯の会合に出ている。早馬を飛ばしても、返事を持って帰るまでの間にこいつは死ぬ」
二人のやりとりを見守っていたエレインは、改めて少年の様子を見た。
これ以上放置すれば化膿している腕は壊死するだろう。呼吸が荒く脂汗を浮かべ、発熱している様子も見られる。
「ですが……私は反対いたします」
「ならば出て行け。俺たちは他国の者とは言え人間に対する尊厳を失ったわけではない。誰か、道具を」
ロザリーが走って薬剤室を出た。同時に動いた畑兵たちは、ジラウドが少年を吹っ飛ばしたときに倒した棚を元の場所に戻している。
エレインは畑兵に礼を言いながら、棚の中から麻酔を取り出した。先日採取したバーチナイトを調合したものだ。
ジラウドの視線を受けて、エレインは頷いた。
「手伝います」
「ありがとう……薬師と、道具を取りに行っているマリネル少尉以外は出て行ってくれ」
薬剤室に駆けつけていた兵士たちがぞろぞろと出て行く。最後まで残っていたモントレー夫人も、ジラウドの鋭い視線を受けしぶしぶと言った様子で天幕を後にした。
「服を脱がせます」
「ああ」
ジラウドが少年を抱き上げて作業台に乗せる。エレインは少年の服をはさみで切って脱がせた。
塗らした布で汚れた皮膚を拭きあげると、右腕の怪我の他、腹や背に痣があることが分かった。中には明らかに靴底の形をした痣もある。
「……これは」
この駐屯地へ侵入した後に蹴られたのだとしたら、痣はまだ出ていないか、もっと赤いはず。
しかし、少年の背にある痣はできてから数日経っている。中には治りかけのものもあった。
「ウルキア……彼にとっては味方であるはずの人間に蹴られていたんだろう。日常的に」
唇を噛みしめる少年の目元に、涙が浮かぶ。土や血で汚れた顔を涙ごと拭ってやりながら、エレインは優しく言った。
「もう大丈夫。寝て起きたら、身体が楽になっているからね」
バーチナイトの麻酔をしみこませた布で鼻と口を覆うと、しばらくして少年の呼吸が穏やかなものに変わった。
*
治療は滞りなく進んだ。
腕の傷は痣より新しいが、数日は経っているものだった。鋭いもので雑に引っかかれたような跡で、傷口が深い。綺麗に切れていないので、自然にくっついて治癒するようなものでもない。だから膿んでしまったのだ。辛かっただろう。
(たぶん、熊だ)
数日前に東の森で退治したあの熊が、この少年に怪我を負わせたのだ。
穴持たずにしてはよく肥えていた雄の熊。油も肉も大量に採れて、第三駐屯地の兵士たちは大喜びだった。
取り出した胆嚢にも胆汁がたっぷり含まれていた。胆汁が多い――最近まで食事をしていなかったということだ。
つまり、眠っていた。あの熊は穴持たずではない。きちんと冬眠していたのに、穴から出てくるほどの何かが起こったのだ。だからあんなに気が立っていた。
熊を起こしたのはこの少年だろうか。怪我をして、抵抗もしたはずだから、熊は余計に興奮した。
混乱に乗じて荷車に身を隠し、熊の死体とともに第三駐屯地に入ってきた。熊の臭いにかき消されて馬たちも気がつくことはなかった。
そうやって第三駐屯地に潜り込み、しかし傷の痛みに耐えきれず薬剤室にやってきた……とエレインは想像した。
「針」
「はい」
よく消毒して、膿を取り除く。神経に傷はついていないそうだ。ひどく膿んではいるが壊死も始まっていない。
さすが評判の外科医だけあって、ジラウドの手際は見事だった。
雑な傷口をメスで切り落とし、綺麗にした断面を丁寧に、素早く縫い合わせていく。
その様に見入っていると、ジラウドがぽつりと言った。
「人を刺したことがある」
「…………」
突然のことに何と返事をしたらいいものか分からず、エレインは視線をさまよわせる。ロザリーも道具を置いた後は外の処理に回ってしまったので助けを求められない。
少々不自然なほどの間を空けてようやく、「軍人のお家柄ですから」と答えた。
ジラウドは淡々と続ける。
「……いまだにあの時の感覚が忘れられない。血を吐いて、目が光を失って、身体が冷たくなって……」
エレインが覚えている前世の最期も、まさにそうだった。
気がついた時には血だまりに倒れていた。耳鳴りがひどくて、視界はだんだんと狭まって。
瞬きすら自由にならない中、夫が何か言っているのだけを見ていた。
彼の声は聞こえなかった。きっと、自分に毒を飲ませた妻への呪詛でも吐いていたのだろう。
「君が怪我をしていると分かった時、怒りでどうにかなりそうだった。止めてもらわなければ彼を殺しているところだった……止めてくれて感謝している」
「……いえ」
けれどもう、あの頃の二人はいない。
エレインだけが覚えているあの日は二百年以上も前の過去のこと。
今は、今だけを見ていればいいのかもしれない。
「私の方こそ。助けてくれて、ありがとうございました」
ジラウドはまた、わずかに顔をほころばせた。
*
治療を終え、脈を取る。少年はすうすうと穏やかな寝息を立て続けていた。
「状態は安定しています。明日の朝には目を覚ますかと思います」
「分かった」
エレインの言葉に頷いたジラウドは、長いため息をついて椅子に腰掛けた。ずいぶんと疲れた様子だ。
エレインはふと思いついて、戸棚から砂糖を取り出した。
本当は薬として使うものだ。砂糖自体が薬の材料になることもあるし、苦い薬にまぶして飲みやすくしたりもする。
その砂糖を適当な小鍋に入れ、少量の水を加えて火にかけた。混ぜずに時折鍋を大きく回しながらゆっくりと砂糖を焦がしていく。
やがて砂糖が琥珀色に変わったら、本来は錠剤を作るための型に流し込んだ。
冷めたら砂糖を溶かし固めただけの飴のできあがりだ。
型から外し、一粒ずつ油紙に包む。
薬にしては大人も嫌がるほどの大きさだが、飴だと思うと小粒。そんなものが二十個近くできあがる。
空き瓶に詰め、ジラウドに差し出した。
「どうぞ。飴です」
「……」
瓶を受け取ったジラウドは無言だった。
(飴なんて子供ぽすぎた? いやそれより、私的な砂糖利用をとがめられるかも)
しかし、飴から顔を上げたジラウドはエレインの想像とは別のことを口にした。
「君の怪我は大丈夫か?」
「怪我?」
「ここ」
ジラウドは自分の首を指さす。それでようやく、エレインは首筋の切り傷をを思い出した。
「そういえばそうでした。でも大丈夫です、このくらい」
「忘れていたのか? こっちに来い。手当する」
「え、結構です」
「結構じゃないから言っている」
飴の瓶を置き、予備動作なしで立ち上がったジラウドがエレインの首筋に触れた。むき出しの傷口を指が掠め、びくりと身体が震える。
「痛っ」
「だから言っただろう」
「今のは指が……っ」
ぱっと顔を上げると、すぐそこにあったジラウドの青い目と視線がぶつかった。
銀の髪の間に浮かぶ、濃い青の瞳。冬の湖のような男の瞳には今、エレインだけが映し出されている。
「俺は君の治療をしたい」
「な、なんで……」
「君が怪我をしているから」
人を殺しておいて、どの口が言うのか。
頭ではそんなことを思っているはずなのに、エレインは口をつぐんだまま、大人しくジラウドの治療を受けることになった。
傷口を消毒液で拭われて、エレインの作った傷薬をたっぷりと塗り込められる。
その上から二重三重と包帯を巻き付けられたので、治療前より重傷に見えるようになった。
「ほら、がんばったな」
治療後に差し出されたのは、先ほどエレインが作ったばかりの飴玉だ。
「子供扱いしないでください」
「子供扱いなんてしてない」
「しかも、これ作ったの私ですからね」
ジラウドは笑いながら飴を一粒、口の中に放り込んだ。
せっかく個別に包んだのだから、自分の天幕に戻って一人で食べたらいいのに、ジラウドは少年とエレインを治療した後も薬剤室から出て行こうとしない。
仕方なくエレインもジラウドの側の椅子に腰掛け、受け取った飴を口に含んだ。
ただ砂糖を煮詰めただけの素朴な甘さが広がって、ほっと肩の力を抜いたのだった。
*
捕虜となった少年の経過はよく、すぐに動けるようになった。
少年はウルキア将校の従者だったそうだ。主からまともな扱いを受けていなかったようで、日常的な暴力を受けていた。それが背中の足跡の痣だ。
ある時に暴力が一線を越え、耐えきれずに国を飛び出した。たった一人で山を越えてブロンデル東の森に身を隠していたのだそうだ。
そこまで話した後、しばらくはためらった様子を見せていた少年だが、やがてヒースクラン軍に情報をもたらした。
彼の主だった男は、少年をいたぶるその場で部下たちと機密情報を口にしていたらしい。彼はそれを全て聞いて、覚えていた。
信用に足る情報か慎重に会議が重ねられた末、ついに軍は動いた。
そこからわずか数週間。戦争は、終わりを迎えた。