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11 献上品

「グオオオオオオオオォォォ!」


 鳥が一斉に羽ばたく。

 こだまする咆哮に鼓膜がしびれた気がして、敷物の上に座っているのにふらついた。


「熊か」


 ジラウドは素早く立ち上がり瞬時に剣を抜いた。畑兵の三人もそれぞれ警戒した様子で周囲を見渡している。

 エレインもよたよたと立ち上がり、森の奥を見据えた。


 ジラウドの言う通り、あれはきっと熊の鳴き声だ。

 通常であれば巣穴で冬眠しているはずの季節だが、たまに冬眠しそびれる個体がいる。

「穴持たず」と呼ばれるそれらは、大抵気性が荒い。


「すぐに戻るぞ、急いで馬に――」


 ジラウドの言葉は途中で止まった。そのかわり、ドドッ、ドドッ、と地響きが聞こえる。それはこちらに向かってきていた。

 エレインの背に、ひやりとしたものが流れる。


「……間に合わないな」


 誰かがぽつりと呟いたと同時に、森から黒の巨体が姿を現した。

 やはり熊だ。熊が冬眠できないのは、秋の間に十分な餌が採れなかったからだと言われている。


(私たちの昼食の匂いを嗅ぎつけてきたとか?)


 しかし、それにしては興奮しすぎているような――


「アレクサンドラ。エレインを連れて下がっていろ」

「承知いたしました」

「畑兵は俺に続け!」

「はっ!」


 この状況を受けてかえって冷静に分析するエレインに、ジラウドと畑兵たちの声が響いた。

 森の浅いところまで出て、人間を六人も前にしているにもかかわらず、熊の勢いは止まらない。

 エレインはモントレー夫人とともに物陰へと隠れた。


 戦闘能力のないエレインを守るためか、モントレー夫人がその背にエレインをかくまっている。

 前方の様子は見えないが、熊のうなり声と、甲高い金属音が聞こえていた。それと同時に、馬のいななきも。


「馬を放しておいた方がいいでしょうか」


 熊の存在を前に馬たちが興奮してしまっていた。

 今は応戦するジラウドたちに気を取られている熊が、もし馬に興味を持ったら。ここで馬の味を覚えでもしたら。いつか駐屯地にまでやってくる可能性もある。


「そうですね。参りましょう」


 エレインとモントレー夫人はそろそろと後退し、馬を繋いでいた木の元まで向かう。

 手分けして手綱を放してやると、馬たちは草原に向かって走り去っていった。


 よく訓練された軍馬だ。しばらくすれば戻ってくるか、そうでなければ第三駐屯地に帰っているだろう。

 モントレー夫人は最後の一頭、ジラウドの馬の手綱を持ってエレインを見た。


「馬には乗れると言っていましたね」

「はい、最低限は」

「では、あなただけでもお逃げなさい」

「え?」


 そこからは早かった。

 有無を言わさぬモントレー夫人の圧に押されて、彼女の手を借りて鞍に跨がる。騎手が主ではないと気付いたからか、馬が不機嫌そうに蹄を鳴らした。


「あの、夫人。この馬はちょっ、とおおお!?」


 ちょっと無理かも、と最後まで言わせてもらえないうちに、夫人が馬の臀部を叩いてしまった。

 その瞬間、馬は弾けるように勢いよく駆け出す。


「うそ! ちょっと! うそ!?」


 ジラウドが走らせていたときは大人しく優美なほどだったのに、今は飛んだり跳ねたりの暴れ馬だ。振り落とされないよう鞍とたてがみにしがみつく。

 揺れる馬上で鐙に足をかけようにも、ジラウドの長い脚に合わせて調整された鐙はエレインの足には届かない。乗馬できると言ってもこれではどうにもならない。

 手綱を引き、ぎゅうと腿に力を込め、ようやく体勢を整えたときにはすでに、森の入り口は遠く離れていた。


「ど、どうしよう……!」


 モントレー夫人は元々軍人だったというだけあって、物陰に隠れながらも短剣を構えている姿が見える。

 エレインだけでも助かるようにと逃がしてくれたのだろう。戦えないエレインを守るより、逃がして自分も戦った方がいいということも理解できる。


 とはいえ相手は穴持たずの荒ぶる熊だ。野生動物は、時には武器を持った人間などよりもよほど強い。

 馬が急くように前足を掻いた。


「そうだよね。お前も主人が心配だよね」


 いくら馬の足でも、助けを呼びに第三駐屯地に戻っている時間はない。けれど、彼らの元へはすぐに戻れる。


「行こう」


 エレインは手綱を操り、馬首を引き返した。

 脇腹を蹴り速度を上げる。五対一。それでも熊を森の中へ追い払えるでもなく、倒せるでもないジラウドたちに近づいていく。


 真っ先に気がついたのはジラウドだった。いつも以上に険しい視線を無視して走り続けるエレインは、熊まであと少しというところになっても止まらない。

 熊もエレインに気がつく。真っ黒な瞳に苛立ちを滲ませて咆哮を上げた。


「みんな息止めて!」


 熊が大きなかぎ爪をなぎ払うと当時に、馬が高く跳躍する。

 ふわりと身体が浮き上がるような感覚。それに身を任せてくるりと上半身をねじりながら、懐から取り出した魔法具――銃を構えた。


(急所には当たらなくてもいい)


 エレインを注視している熊の、できれば顔の近くにでも当たれば。

 引き金を引く。魔力が砲身を駆け巡り、薬莢が弾け飛ぶ。魔法紙が破裂し周囲に撒き散った粉が太陽の光を受けてキラキラと光った。


 エレインを乗せた馬が着地すると同時に、熊が巨体をふらつかせた。かと思えば地面に倒れ込む。

 すかさずジラウドが大きく剣を振りかぶる。両手で持った剣が、熊の右目へと突き刺さった。


「ギャアッ!」


 ぐぐ、と押し込まれる鈍色の剣に、熊が断末魔を上げる。

 びくびくと痙攣してしばらく、その巨体が動かなくなると、森から全ての音が消えた。


「……はぁ」


 小さく息を吐いて、ジラウドが剣を引き抜いた。汚れた刀身をなぎ払い鞘に収めるその音を皮切りに、フェルナンが勝ちどきを上げる。


「……おっ、おおお! 熊を! 軍医殿が熊を倒したぞ!」

「軍医殿、薬師殿! ご無事ですか!」

「肉だ! 肉だぁ!!」


 クリスとギャリーも続く。クリスなどはよだれを垂らしている始末である。

 そんな中、ジラウドが声を荒げた。


「なんてことをしたんだ!」


 馬から下りたエレインは、あまりの剣幕に思わず肩をすくめた。肉に喜んでいた畑兵も一斉に口を閉じる。


「この馬は俺以外の言うことを聞かない暴れ馬だ! 落馬したら怪我じゃ済まなかった!」

「そ、そうなんですか……?」

「それどころか熊に突っ込んで、君はっ」


 ジラウドの怒声が途切れる。

 その横でモントレー夫人が地面に崩れ落ちた。


「エレインさん、これ、は……?」

「はれ?」

「からだが……」

「動か、ら……」


 同時に、畑兵の三人も仰向けにバタンと倒れる。


「これは……君はなんて無茶、を……」


 最後にジラウドも膝をついた。状況を理解できていないような表情をしてる。

 エレインは口元をハンカチで覆いながら言った。


「だから言ったじゃないですか。息を止めてくださいって」


 エレインが撃ったのは、熊にも効くほど強力な麻痺弾だったのだ。


 *


 護身用に持ってきた麻痺弾だ。まさか使うことになるとは思っていなかったが、専用の解毒剤ももちろん用意してある。

 ふらつく五人の呼吸が止まる前に手早く解毒をして、きちんと麻痺が抜け切るまで、一行は改めて休憩することになった。


「この後も採取を続けますか?」


 疲れた様子でモントレー夫人が問う。

 熊が出る前までは、休憩を挟んだらもう一度森に入り、バーチナイト以外に役立ちそうなものでもないか探索する予定だったのだ。その間に畑兵も落ち葉を集めることになっていた。

 怒る気力ももうないのか、ジラウドが淡々と言った。


「止めておこう。それでいいな?」

「はい」


 ジラウドの言葉に全員が迷わず頷く。みんな疲労困憊だった。

 戻ってきた馬たちも、心なしか早く馬房に帰ってのんびりしたそうに見える。


「ニンニクと一緒に炒めてほしいなぁ」

「ハムとかベーコンに加工するのはどうだ?」

「加工肉はもう飽きた。シチューとか……いや、やはりここは焼き肉だろう!」


 事切れた熊を前に楽しそうなのは畑兵の三人だ。生きている時は恐ろしい熊も、こうなると食料にしか見えないらしい。


「馬鹿者」


 そんな三人をジラウドが一刀両断した。


「失礼しました! 軍医殿はどのようにしてこの熊を食いたいですか?」

「そうじゃない。熊はまず、薬師に」


 ジラウドの青い瞳がエレインに向けられる。

 エレインはというと、何を言われているのか理解が追いつかず、何度か瞬きを繰り返した。


「熊は薬にもなる。そうだろう?」


 ぎこちなく頷いた。確かに熊の油や内臓は良質な薬となる。しかし、それよりも。


(いま、私のことを薬師って……)


 ジラウドがエレインを薬師と呼んだのはこれが初めてだ。

 初対面からことあるごとに「出て行け」と言われ続けていたから、そもそも薬師として認められていないのだと思っていた。

 そんな相手にようやく薬師と呼んでもらえた。

 妙に照れくさいような、むず痒いような、そんな心地に襲われる。


「ありがとうございます」


 何はともあれ熊は嬉しい。素直に礼を言って、エレインもお茶を飲んだ。


 しばらく休んだあと、全員で協力して熊と二かご分のバーチナイトを荷車にくくりつける。

 獣の臭いに落ち着かない様子の馬をなだめながら、一行は無事に第三駐屯地に帰り着いた。


 熊は解体に慣れた兵に任せ、夕方から夜になるまでの間は通常の診察の傍ら、バーチナイトの処理をした。

 夕食を取り、風呂に入り、部屋に戻る。すると、ロザリーが心配そうにエレインの顔をのぞき込んできた。


「エレイン、風邪でも引いたのではありませんか?」

「え、風邪?」

「先ほどから顔が真っ赤ですよ」

「あっ、これは……そうかもしれないです。早めに寝ますね」

「今日は大変だったそうですね。ゆっくり休んでください」

「ありがとう。おやすみなさい、ロザリー」


 毛布に潜り込んだエレインは、赤くなっていると指摘された頬に手を添えた。

 やけどしそうなほど熱いが、顔を覆ったまま、その手を離すことができなかった。


(だって、だってあんな……)


 熊のお礼を言ってからふと見上げた時の、ジラウドの顔。

 いつも不機嫌そうにエレインを睨んでいたはずの顔が、まるでほっとしたかのように。そして、たまらなく嬉しいとでも言うように。


 そんな顔を見てしまうと、帰りの道中もずっと背後にいたジラウドの熱や息づかいを無駄に意識してしまって、駄目だった。


 *


『馬って大きいのですね』


 ぽつりと呟いたエレインに、かつての夫は言った。


『乗ったことはありますか?』

『いいえ。危ないからと言って、両親は側に寄るのも許してくれませんでした。でも、こんなに優しい目をした生き物だったなんて』

『では……乗ってみませんか?』

『良いのですか!? あ、でも、私のような素人では……』


 ためらうエレインの目の前に手が差し出される。


『大丈夫ですよ。俺がいます』


 その手を取るとひょいと抱き上げられ、気がついた時には馬上にいた。

 夫もひらりと馬に飛び乗る。後ろから抱きしめるようにして夫が手綱を持てば、馬はゆったりと歩き始めた。


『怖くはありませんか?』

『はい。平気です』


 いつになく高く、遠くまで見渡せる視線。揺れる馬の上。

 一人であれば怖かったかもしれない。

 けれど、すぐ後ろにいる夫の体温と息づかいが、エレインを安心させる。




(どうせ私を殺すくせに……)


 それでもエレインは、幸せだと思っていた頃のことを思い出してしまうのだ。

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